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鶴岡市在住の早坂氏が、本間四郎三郎光丘の書状を手に入れたそうで、今回はそれを読み解くと共に、小野寺先生から本間家について講演をして頂いた。
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右側が小野寺先生。掛け軸の軸の部分に本間家所蔵の書付と印がされているのを確かめている。
書状の筆跡が、他に残っている光丘の筆跡と比べて、間違いないそうだ。
酒田市史第一と鐙屋古文書を習っている身としては、鐙屋を始めとする酒田36人衆の上純然たる位置に陣取って采配を振るっている本間家の存在は、揺るぎないものであった。
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何故「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と詠まれるようになったのかがわかる史料の一つだった。
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本間光丘が四郎三郎と名乗ったのかは、酒井家の財政を面倒見なければならなくなった代わりの身分保障で、武士帯刀の名を授かったのである。
この光丘の時代に、酒井家は天文学的とは大げさであるが、財政難で首が回らなくなっていた。借金に次ぐ借金。利子を借金で返すなど、無理な財政運営を行っていた。
庄内に酒井家が入部すると同時に、酒井家と共にやって来た御用商人や豪商は、この借金(代金は払って貰えず、代わりに借金まで頼まれる)為に、軒並み倒産の憂き目にあった。
そこで酒井家は酒田の本間家に、その代わりを勤めよと言う訳である。
本間光丘は度々鶴岡にも呼び出されるが、この書状は江戸へ呼び出された後のものである。
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文中に三味線堀とあるのは、浅草近くの各大名屋敷がある場所の事で、庄内藩に関係する屋敷は3箇所もあった。
中央上に「松平下総守」がある。これは酒井忠徳の伯母で、桑名藩松平忠刻に嫁いだ清暁院(菅姫)の屋敷で、ここの運営に使われる金子も庄内藩の持ち出しだった。
左側に酒井左衛門尉とあるのが、酒井家下屋敷で母親が在住。
右側の寺町の近くに酒井大學頭とあるのが、酒井家中屋敷で祖母が在住。
この3箇所の財政を、本間光丘に何とかせいと言うのである。
国元の財政も赤字続きなのに、江戸表はその2倍もの金食いで、度重なる大火にも襲われ膨大な負債を抱えていたのである。
さすがの本間家も、湯水のように金が湧く小槌は持っていない。
江戸に出向いたものの、上方の商人などに融資を持ちかけても、良い返事は貰えなかったと、安政3年8月に組頭宛書状を送ったのである。
光丘は、この後7年をかけて整理完済をおこなっている。その負債額は3万両と記されている。
今回の褒美に酒井家から光丘に時服(綿入れの小袖)と金10両を与えられ、国元に帰っている。(ええっ~それだけですか。ちなみに10両は現在の百万円ほど)
その後の江戸藩邸の負債整理事業は辞退しているようだが、一介の商人が藩の財政を背負わされる、その魁となった書状だったようである。
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おまけ:碓井姫の木像
はじめ長沢松平家の松平政忠に嫁いだが、政忠の戦死後に「徳川四天王」に挙げられる酒井忠次の妻となった碓井姫。
酒井家庄内入部400年記念講演で、徳川清康(家康の祖父)と美人と誉れ高い妻の華陽院の娘の唯井姫で、これまたミス三河 の美人さんなのである。
鶴岡市の大督寺 に収められている。