鶴岡市松ヶ岡で、(一社)山形県建築士会女性委員会の第5回建築女子フォーラムが開催された。
第一部の会場は、松ヶ岡開墾場にある酒井家の本陣である。
本陣には初めて入った。鶴岡市内にある致道館(藩校)に比べると新しい感じがしたのは、補修整備されていたからか。
茅葺きに使用する茅は、独自に茅場を持っていて、20年に1度全葺き替え、10年過ぎたら部分的に差し替えしているそうである。
民家とは明らかに仕様が違う。
3間続きの座敷で大会が始まった。女性委員長挨拶
今回は、酒井家19代世嗣(こうし)酒井忠順(さかいただより)氏を講師にお迎えし、「松ヶ岡開墾の歴史~刀を鍬に持ち替えて」をお話して頂いた。
酒井藩のお殿様である。丁度昨日、鶴岡市では荘内大祭が行われ、いつもは殿様として馬上の人となるのだが、
今回はキャイ~ンのウドちゃん(鶴岡出身)がお殿様役だそうで、自分よりも人気があるとのこと。いやいやそうか?!
これから先の内容は、酒井さんのお話の他に、私が見聞きした内容を織り交ぜていることを、ご承知おき下され。
徳川家と酒井家の関係
家老と言えども、サラリーマンのようなモノと謙遜されたが。
出羽国庄内13万8千石(米本位制の為)を与えられたが、実際は酒田湊を通して商業からも税が入り、実質石高を上回った。
徳川家と酒井家の大本の関係は、磯田道史先生の動画が詳しい。
磯田道史 「天下人・徳川家康の『人事』のこと」#文春100周年フェス
昨年の9月に酒田で行われた記念講演での抜粋である。
なんの事はない。親戚で、途中でも婚姻などで繋がっていたようである。
歌舞伎の演目にもなっている「酒井の太鼓」は、徳川が三方原の戦いで負けて浜松城へ戻って来た時に、城門を開け放し、篝火を焚き、
酒井忠次が太鼓を打ち鳴らして、追ってきた武田軍を「何か策略でもあるのでは。」と思わせ、追い払ったと言う逸話に基づいている。
ただ昨年、その酒井の太鼓に纏わる日記が、酒井家の家臣の鳥海家から発見され、事実だと言う事がわかった。
酒井家の家系図
天保11年に、幕府から庄内藩に三方領地替えを言い渡される。庄内藩、長岡藩、川越藩の領地移転なのだが、破綻寸前の川越藩の松平家(徳川の親戚)の為に、
裕福な庄内に移転させようと幕府が策を練ったモノである。
ところが、庄内藩では酒井家が長岡藩に移転すると、本間家を始め酒田の裕福な商人達も一緒に移ってしまうことに反発して、
領民が直訴するなどし、幕府の命令を止めさせたのである。
上の絵は、江戸城大手門にて直訴する様子が描かれたもの。
領民の訴え通り、酒井藩は領地替えせずとも良くなり、それを喜び庄内のあちらこちらで祝っている様子を描いたもの。
殿様とてサラリーマンの通り、江戸幕府では三方領地替えや四方領地替えが当たり前に行われていた。
それを阻止した庄内藩の領民を、通常ならキツイ御沙汰があって当然なのだが、その時の幕府内の権力争いその他で、うまく扱われたようだ。
戊辰戦争では、最後まで負けなかった庄内藩だったが、奥州列藩同盟が総崩れし、「ここまで!」と新政府の陣門に下る。
元はと言えば、慶応三年に江戸市中取り締まり方をしていた庄内藩屯所を薩摩藩が襲撃する。
その頃の薩摩藩には、藩士の他に郎党らも集まって江戸の治安は悪化していた。
京都市中取締に当たったのは会津藩。庄内藩は新徴組として薩摩藩邸を焼き討ちにする。
これが発端で、戊辰戦争に突入する。
酒井さんの話だと、これは最初から仕組まれていたのではと感じたそうだ。
新政府は、戊辰戦争後に酒井家に会津への転封命令を発したが、新政府に大枚を払って阻止する。
この辺りは本間家が絡んでいる。
何故、戊辰戦争で戦った会津藩は、あのような酷い仕打ちを受けたのに、庄内藩は温情を受けたのかの質問に、
会津が戦ったのは長州。庄内藩は薩摩藩だったのが大きな要因だと思われる。
これが相手が長州なら、こんな結果にはならなかったのではないか。
とするのが酒井さんの考えのようである。
ちなみに、本間郡兵衛はご存じなかったようである。
さて、現在鶴岡の致道博物館で催されている日本刀物語から
酒井家からは国宝二振り出展されている。
国宝の扱いは難しく、年に展示できる期間が決められていること。
他の地域の博物館に貸し出しするのも、この期間の内でなければならないそうだ。
これは観に行かねばならない。
これから未来に向けて酒井家の墓所を整備して、一般公開できるようにしたいとのこと。
国指定跡の旧藩主墓所は全国で20箇所あるが、山形県では新庄と米沢で、庄内は含まれていない。
地元と京都にあるが、何とか整備したいようだ。
広く様々な内容でお話頂いたが、松ヶ岡開墾の綱領を持って終わりとする。
実に面白かった。