無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

酒田市史を読む

2024-01-30 11:29:28 | 酒田
毎週水曜日に、酒田の歴史を学んでみよう。







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酒田祭にむけて

2024-01-30 11:19:45 | 酒田
酒田の発展は、鎌倉時代に源頼朝に破れた奥州平泉から逃れた徳仁公と家臣36人衆の活躍によってなされた。
酒田祭でも昨年に引き続き「時代行列・絵巻」で36人衆を取り入れ、行われる。
それに先駆けて、今回は岩手大学平泉文化研究センターの客員教授「佐藤嘉広氏」をお招きしての基調講演を開催する。




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芭蕉と種田山頭火・清河八郎

2024-01-30 10:56:25 | 歴史

と、その前に




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寒鱈祭りと住宅相談会

2024-01-30 10:31:33 | 酒田


コロナ過開けと好天に恵まれ、酒田寒鱈祭りは大賑わいだった。
ラーメンの花鳥風月さんには長蛇の列。
寒鱈を食べるんじゃないのか。


ここはだるま寿司さんのコーナー。見る間に物が売れていく。



ちらっと「酒」の文字が見えたので、地酒のコーナーかと思ったら、違っていた。
何処かにある筈なのだが、身動きが取れない。



席が取れずに、人は溢れかえっていた。



さて、外の喧騒とは違って、こちらは酒田木づかいネットの住宅相談会。





外は寒鱈祭りの会場である。






お一人様1個なのだが、これを持って歩くのは重すぎる。


工作は予約制。キッドの数が限定なのである。


子供が優先、ボンドで仮止め


ビスを打つ。インパクトドライバーに触ったのは初めての子たちである。


幼児用の積み木。面を取って危なくないようにしている。


最初は小学校低学年向けかなと思ったら、幼児が参戦している。


なかなかの大物に挑戦している。


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松山大寒能

2024-01-29 14:59:18 | 音楽・芸術・文学


1月27日、松山城址館にて第33回雪の能「まつやま大寒能」が開催された。


能も楽しみだが、実は狂言も素晴らしい。
得に女性なのだが、以前から素晴らしい演技をする役者さんの演技を楽しく観ていた。声の迫力も見事なのである。
数日前の山形新聞に、彼女が小学校や中学校の子供達に、狂言指導をしていると言う記事が載った。
今回はその演技を披露してくれるのだそうだ。


子供狂言「きのこ山伏」演者は全て小学生である。
家の周りにきのこが生えて、採っても採っても翌日にはもっと増える。
それを何かの祟ではと思い、山伏に祈祷を頼む。
威張りくさった山伏が祈祷するも、何の役も立たずにきのこは増え続ける。
その内にでっかい鬼キノコまで登場し、山伏を脅す。
山伏が、これは敵わないと逃げる。その後を可愛いきのこたちが追っていく。



次は狂言「盆山」、盗人役の斎藤さんの登場である。拍手が起きる。
生け垣を鋸で引いてバリバリと破いて庭に入る。
物色している所を主に見つかってしまう。
この家の主は、中学生が演じたが、声のハリと良い、なかなかのものである。
主は盗人を斎藤則子と知って名を呼ぶと、客席からどっと笑い声が上がった。
犬とか猿とか鳴き真似をさせるのだが、最後に鯛だのと難しい事を言う。
盗人は堪らず「タイ・タイ・タイ・・」と言いながら逃げる。


能は「高砂」である。


肥後の神主2名が京都に上る途中に、播磨の高砂の松に立ち寄る。



相性の松は播磨の高砂と、遠く隔てた往江の松だと言う。



そこに翁と嫗が現れ、掃除を始める。





神主達は、相性の松のいわれを二人に問う。




老翁は二人は松の精だとあかし、例え離れていても夫婦の愛は通うものだと言い、姿を消す。












松の精が一足先に船で住吉へ行くと告げて、舟に乗る。
その時、結婚式などでよく聞いた「たかさごや~、この浦舟に帆を上げて~♪」が謡われる。

いつもの能と違って、今回は少し難しかった。



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酒田のラーメン

2024-01-26 11:20:18 | 食べ物

日本ご当地ラーメン総選挙で優勝を勝ち取った酒田のラーメンだが、こんな記事を見つけたのでアドレスを貼った。


若い人達の調査なのだろうか、知らない店が多すぎる。
有名な老舗も入っていない。
まぁラーメンは個人的な味の好みに左右されるので、仕方がないのではあるが。
ラーメンの画像は深夜や昼前に見るのは、酷だろうなと思う。


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飽海地域史研究会 日和山公園

2024-01-24 17:50:13 | 歴史


令和5年、12月17日、飽海地域史研究会開催、事務局長が開始の挨拶


会長が挨拶と飽海地域史研究会の概要を説明。



今回の講師:(公立大法人)静岡文化芸術大学 名誉教授 阿蘇 裕矢氏だ。
彼は庄内の狩川生まれで、高校は酒田東に通うが、高校生デートのメッカである日和山公園には来たことがない。
大学は造園学科で、卒業して務めたのが建築設計事務所で、次はシンクタンクへ、そこから浜松市の大学の教授になった。


シンクタンク時代に、各地の公園作りに参加する。
地域で事を起こすには、その地域の歴史と遺伝子が必要。
同じものを造っても、馴染まない。


明治以前の行楽地には、何らかの花が咲いており、美味しいものを食べさせる茶店がある。


太政官公園は150年前から布告されている。
明治時代には、政府は欧米の都市の公園と言う施設を導入しようと寺や神社を指定した。
明治6年、最初に出来たのは東京の5箇所で、明治30年迄に82箇所が出来ている。


山形県内には、6箇所の太政官公園が指定されている。


日和山は300年前に景勝地として認められていた。


ただ、日和山公園には黒松はあるものの、花の記述がない。
近くに桜小路と言う町名(?)があり、公園には桜はなかったのかと思う。


政府は内務省や農政省を通して、各地の地目を把握しようとした。
勿論、税金を徴収する為である。あまりに新政府の税金の取り立てや役人の横暴が酷いことで、第1次酒田県(三島通庸)の時にワッパ騒動が起きている


日和山とは、全国各地に同じ名称の場所がある。
殆どは湊町で、船の運行や天気を見るために設けられた高台である。


酒田の日和山は国有地とされている。
米沢は何処から何処までが公園なのかわからない。


酒田は度重なる大火で、古文書が残っていない。
確たる年代がはっきりしないが年輪年代学で調べると、日和山には81箇所あるようだ。



昔の古い絵図や写真を見ても、常夜灯の周りにも木はない。


日和山は通称「あっけず山」と呼ばれている。
あっけずは酒田の方言でゴミのこと、しかし江戸時代の質素な生活を見ても、山になるほどのゴミが出るとは思えない。
大火時の残土やゴミなどを捨てて土を被せのではないか。


明治9年、明治天皇の御巡行では、両県とも道路事情が悪く、なかなかお出でになられない。
その間、公園を綺麗にせよと申し出に、急いで整理したこともあったようだ。


近代国家を目指す明治政府は、社会資本として公園を再開発し整備した。


次に公園としての危うい点、問題点を述べられた。
酒田市には142箇所の公園がある。その使われ方はどうだろう。
人を寄せるためと金儲けに走ると失敗する。
鶴岡と山形の例を話された。御殿堰は成功例。


文化とは、生活暮らし、風景、景観、緑に空気。
金沢市は町名を古い町名に戻す運動を起こす。
都市再開発で市街地と市街化調整地域を造って枠にはめようとしたが、人々は増えない。
逆に都市では屋上に農園や庭園を造っている。人の生き方が変わった。


隈研吾設計の豊島区区役所では、区役所の敷地を公園化して花、鳥、蝶を招き入れた。
日和山も行政に任せるのではなく、市民の考えも取り入れて、様々なアイディアを出す必要がある。
その為には、その町(酒田)の歴史をもう一度紐解く必要がある。
常夜灯、方角石、湊町・・・。日本で最古の物が残っている。


久しぶりに大学の講義を聞いたような満足感だった。
阿蘇先生のお話は歯切れが良く、良いことも悪いこともビシバシ伝わってくる。



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飽海地域史研究会 通史講座 酒田が生んだ人々

2024-01-22 17:05:48 | 歴史


時を遡ること令和5年10月9日、「酒田が生んだ人々・小倉金之助・土門拳・須階ときを」と題して、鶴岡市在住の阿部博行氏から講義を受けた。


ゆざ酒田歴史日めくりカレンダーより



庄内日報社 庄内の先人・先覚33小倉金之助より

庄内の有名な3名の話が聴けると喜んで参加した。
小倉金之助も土門拳も身近な人物なのである。


私の曽祖父、佐藤泰太郎は小倉金之助と従兄弟同士だと、以前から聞いていた。
阿部博行先生の講義が終わった後に、実は・・・と内情を話すと喜んでくれて、東京にいる金之助の孫の方と交流があるから連絡してくれる。とのことだった。

数日後に、そのお孫さんから電話を頂く。
ご母堂の法事で酒田へ行くので、会えないかと仰る。お互い身の上話などしていると、ご本人は早稲田大学の名誉教授だと仰る。
ええ~っ、高卒の私がお付き合い出来る人ではないと、泰太郎直系の本家に電話し内容を説明する。
小倉金之助の母方の親戚とは交流がなく、初めて知って喜んでおられる由を告げて、私とバトンタッチして欲しい旨を伝える。
「えっえ~~!」私と同様の驚きの声と共に、見事に断られた。

酒田に父方の従兄弟がいるとして、東京都との連絡はその方にお願いすることにした。
その間、1-2回は連絡が着いたのだが、その後のやりとりがなかなか着かない。
酒田プランの冊子が手に入ったので、細々と手紙を書こうと努力するも、私の無教養が災いして進まない。
ようやく纏めて速達で送ったが、その頃には東京の方は急逝されていた。
「連絡が着かないのが、悪い方向に行ってしまった。」と従兄弟の方は嘆いておられた。
お葬式は年が明けてから、もしかすると酒田で行われるかも知れない。
生前、お電話でのやり取りに、「自分も歳だから、いつまでも生きている訳ではないし。」の言葉が最後となった。
会えなかった私が悪いのだけど。


さて、話は変わって「土門拳」は、幼い頃同じ町内の台町に住んでいた。
私の祖父は彼のことをよく知っていた。なかなかの悪ガキだったそうだ。
ある日、「土門拳が俺と今野屋靴屋さんの写真を撮した。」と祖父が言うことがあった。
「ま~たまた、冗談だろう。」と家族は信じなかった。


後日、写真集に載っていた。



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松森胤保・ギャラリートーク

2024-01-21 23:03:24 | 歴史


1月20日、酒田市松山文化伝承館で、松森胤保のギャラリートークが開催された。
講師は松森胤保の子孫で、鶴岡市で写真館を営んでいる松森昌安氏である。
通常知られている胤泰のこと以外に、身内ならではのことも話された。


今回の講演のタイトルだが、ここに面白い物が載っている。


写真に映っているのは月山である
。空中に凧のような物が浮かんでいるが、これは松森胤保が考案した飛行機なのだそうだ。
彼は2年間、山形県の県議会議員だった。松山から山形に通うのに、道路を使うのは遠くて大変。
月山をひと跨ぎする飛行機を作ろうと考えた。
彼は日本のレオナルド・ダ・ビンチだった。


松森胤保の41才で最初に写された写真である。

文武両道で戊辰戦争の切っ掛け、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした2年前に撮された物。
後の学者風体の写真とはあまりに違う。凛々しいイケメンなのである。

彼は子供の頃から動植物、石、石鏃(石で出来た矢じりなどの武器)を集めるのが好きで、牧野富太郎よりも先に植物採集し絵に認めていた。
元々鶴岡の金峰山近くの長坂家に長男として生まれ、鶴岡の致道館で教育を受ける。
剣術、槍、鉄砲術にも長けている。
松山城で家老になる。家老の権限は鉄砲を自由に使えること、ほぼ毎日のように鉄砲撃ちにでかけた。
撃った獲物(鳥)は、精密画にして残す。彩色してあり見事な出来である。

戊辰戦争では連戦連勝で、横手・角館など数々の城を落とす。
久保田(秋田城)に迫ったが、城主から帰国の命を受け戻っている。
松山城の城主から松山を守ったとして、松守の名字を授けられるも、恐れ多いと辞退しつつ、後に松守を松森に変え名字とした。 

政治の世界を終えると、自分の好きな分野(多才すぎるのだが)工学から建築、自転車、自動舟、飛行機、織り機(これはアイデアを売ったらしい)天文学、地動説、もう汎ゆることに興味を示し、本に認めてある。



松森胤保の展示室を抜けると、彼に関するクイズ15問があって、満点だと何か貰えるらしい。
外れた場合もカードを選んで貰えるらしい。で、挑戦する。
見事にカードだった。41歳の松森胤保の写真をゲットする。


松山城の門の上に、お月さまが見えた。



何の実だろう。





会場の駐車場から、鳥海山の端っこが見えた。
こんなに綺麗なら、撮さねばと追いかける。




もう少し時間が経つと、夕日を浴びた赤い鳥海山になるのかなと思う。


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飽海地域史研究会 人物編 後藤善治の日記より

2024-01-21 22:20:10 | 歴史

1月19日金曜日の夜、総合文化センターは混んでいた。
普通の教室には入れず、和室での講義で、襖で仕切られた二間続きの和室は、隣も賑やかだった。



この回は飽海の人々と新庄からの3名も加わっていた。
暫く飽海地域史研究会の説明が続く。


1年半の飽海地域史研究会の歴史(?)が説明される。


そうか、こんなに勉強したのかって、私がサボった回もある。


庄内、飽海に住んでいて、地域の著名な人を知らない。
左から、清河八郎、本間郡兵衛、松森胤保。


今回は、農業社会学に貢献した豊原村の「後藤善治」についてだった。
残念ながら、まったくもって彼のことは知らなかった。
農業社会学の観点からすると、全国的に後藤善治は有名なのだそうだ。

善治は明治11年、伊藤巳之助・芳の次男として誕生する。その頃の農家の次男三男は若勢として別の村の農家へ雇用される。
元禄の頃から給米として若勢やめらし(女性)に、払うようになっていた。
農家の長男は通常、農家の田畑を継ぐ。次男三男は外に出る。
しかし、牧曽根村を始めとする庄内は、男子にではなく女子に跡を継がせ婿を取る。
若勢はめらしと一緒になることも多かったが、善治は優秀で後藤丹蔵家の芳江(幼名鉄代)と夫婦になる。


後藤善治は明治26年から晩年の昭和11年まで、事細かに書いた善治日記が、貴重な農業の日誌として全国的に知られるようになった。
日々の暮らしの他、天気もしかり、非常に重要な史料となっている。





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米粒写経 談話室 2024.01.18 ~お庭騒動~

2024-01-19 21:37:28 | 音楽・芸術・文学
 

米粒写経 談話室 2024.01.18 ~お庭騒動~

 

 米粒写経×松崎健夫 映画談話室2024.01.18 ~ポトフ/鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎~
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お年玉付年賀はがき当選番号

2024-01-18 13:22:31 | 社会



2024(令和6)年用お年玉付年賀はがき・年賀切手 当せん番号

1等賞品
現金30万円または電子マネー等31万円分または2023年発行特殊切手集&現金20万円/各組共通・くじ番号6けた(100万本に1本)
394372

2等賞品
ふるさと小包等/各組共通・くじ番号下4けた(1万本に1本)
1879

3等賞品
お年玉切手シート/各組共通・くじ番号下2けた(100本に3本)
71
69
00

当然のように1等は当たらない。



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飽海地域史研究会 飽海人物講座から

2024-01-17 15:32:31 | 歴史
11月24日の人物講座では、携帯を忘れて講座の様子を写すことが出来ず、
12月22日の人物講座では私の不得意な女史の写真がデデンと資料に載っていたのでスキャン出来ず。なんとも不運。
しかし、2つの講座の関わりが深かったので、一緒に書き上げることにした。


酒田奉行所は4つの建物があり、長屋門、中元、座敷(公的場所)、奥(住宅)に別れている。
座敷では、吟味、町奉行所、代屋(村役人)、町役人の居る場所があった。
(この他にも仮の牢屋があった筈だが)(御白州は冬でも外だろうか。)

11月24日は、「酒田町奉行と足軽目付御用帳の女性」だ。
現在は奉行所跡地しか酒田には残っていないが、史料として奉行所の平面図が残されている。

また、酒田町奉行が置かれた元和8年から、幕末の慶応まで歴代の奉行の名もきちんと残されている。
有名な改革をした奉行も、途中で罷免された人物もいて、給料の石高も様々である。

酒田町奉行の中では有名な掘季勝を例にあげてみよう。
彼は宝暦3年小姓でデビュー、宝暦6年近習、宝暦9年書院目付、明和3年郡奉行(農政)、安永3年鶴岡町奉行、安永4年酒田町奉行となる。
天明6年江戸留守居となるも急逝する。(享年53才)
酒田町奉行の間、町民にも教育や読書が必要と、酒田の上野屋三郎右衛門に貸本屋を開かせる。
自らの著書も多い。
この中で足軽目付御用帳の足軽だが、身分は武士である。
庄内藩には100石の家中から7石の給人まで武士がいた。
この給人のうち徒士(かち)は土地を貰う、米を貰う足軽や若党。
その下に中元や小者と呼ばれる者がいた。

奉行の下には数名の同心(庄内には与力はいない)がおり、その下に目明かしがいたが、この目明かしは武士ではなく町民である。
ちなみに、酒田町奉行はエリートなのである。

また町中には、現在の交番に繋がる辻番所があり、自身番は町の予算で運営されていた。
天明7年、浜温海村生まれの女性Aは、親兄弟も亡くなり独身(親の名も知らず)番所の壁に釘を打ち自死した。その取調べ書が残っている。
若い頃から奉公先を転々と変えられ、苦労に苦労を重ねたようである。


出版されている「足軽目付犯科帳(高橋義夫著)」は、酒田に残る史料(天明7年から明治2年まで)を読み解き、著書にした。
中に載っている犯罪では、盗難が最も多いが殺人は少なく、詐欺、汚職、喧嘩、見世物興行まで書かれている。
盗難では、現在なら金目の物や現金などが主流であるが、この江戸時代はまさかこんな物までと思える物が盗まれている。
食べ物(米や大根)、鍋や釜、布団や着物と言った生活必需品だ。
厳罰に処す事もあるだろうが、通常は所払いである。
ただ悲しいかな、何年かすると、そっと戻ってくる者も多い。


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さて、次は12月22日の「飽海の孝女達」である。
これに関しては、庄内の孝心者「きらめき」と題した杉原先生の著書でも内容を知っている。
幕府が中心となって、世の中の孝心者を調べさせ、その孝行に従い褒美を取らせている。
「きらめき」では、あまり悪い部分はぼかして纏めてあったが、小野寺先生が見つけてきた史料の「台町・清右衛門妻みや」では、あまりの酷さに驚いた。
借金をした兄の後を追って清右衛門も松前(北海道)に出稼ぎに行く。
その前に自分の家の女中であったみやと婚姻するも、病気の両親の介護や妹の世話諸々をみやに預けて行く。
みやは両親を看取り葬式も出す。幼い妹も娘に成長させ自分の着物を与えて嫁入りさす。
清右衛門との間に生まれた娘を育てながら、手間取の仕事をし、家族を養う。
婚家が火事に見舞われるも、一生懸命働いて借金を返す。その間一度も風呂屋に行ったことがなかったと言う。
風呂賃をも貯め、行水で忍んでいた。食事も我慢して家族を養っていた。
松前の清右衛門は家に仕送りすることもなく、逆にみやが品物など送っていた。
清右衛門の兄はどうしようもなかったが、清右衛門自身も松前で入婿に入り子まで作っていた。
16年後、清右衛門は酒田に戻って来る。みやは孝心者としてご褒美を貰うのだが・・・・。
なんだよ、これはよ~!!



女性の地位が低かったと言いたいのだが、この低くなったのは戦国時代から江戸時代にかけてである。



平安時代は、女性の本名を名乗ることは、結婚を承諾した意味にもなり、男性の名の下に妹やら娘などと表現することが多かった。
それでも、日本の女性は生き生きと暮らしていた。結婚も現在の制度とは違う通い婚であった。


近世になって身分制度や家長制度と共に男尊女卑が定着する。
女性は一歩弱いものとしての扱いであった。


それでも、自立する女性たちはいた。自ら商売をし、町中に出た。
近世遊郭では好事的、芸能史的に語られている。


洛中洛外屏風には、様々な職業の人々が映っている。


歌舞伎の創始者は出雲の小国(女性)である。


葛飾北斎の娘、葛飾応為の「吉原格子先之図」
応為は北斎の三女で、本名はお栄。北斎は娘を呼ぶのに「お~い!」と呼び、雅号が応為(おうい)となった。
絵師として北斎も認める腕前で、北斎の画業をも手伝って最期を見守った。
一度嫁ぐも、思ったことをすぐに口にする性格が災いして、三行半を突きつけられ生家に戻る。


江戸末期ともなると、学問の上においても、男性も舌を巻く女性が現れる。



小野寺先生はジェンダーを取り上げたが、現在は悪法であるLGBTの時代である。
その上、メリークリスマスを言っては行けないだの、父や母と言ってはいけない世の中になりつつある。
結婚をしない若者が増え、男女の区別どころか、男でも女でもない人が増えた。
USAでは、それを小学校のうちから量産しようとしている。

人間生活に欠かせない、最も小さな集団の家族が消えようとしている。
その転換期を、我々は体験しているのだ。


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道路:令和6年能登半島地震 道路復旧見える化マップ

2024-01-17 10:58:30 | 防災
国交省のHPから令和6年能登半島地震 道路復旧見える化マップ (国土地理院)が発表されている。
これを見ると、少しづつインフラが復旧してきている。
カメラをクリックすると、空撮での現場の様子を見ることが出来る。



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どんど焼き

2024-01-16 14:38:20 | 酒田


東京都の何処ぞの地域では、どんど焼きにクレームがついて、行事を取りやめたそうだが、日本らしい暮らしを否定する行為だなと思う。
除夜の鐘も煩いそうだから、どんどん無味乾燥な国になるのだろう。


どんど焼きは松明神事が正式なのだ。


単に古い御札などを燃やすだけでなく、受付で御札を手渡して、御宮で拝んで貰って終了となす。
受付では「何処の誰なのか」を告げると、神殿の前で宮司さんに一人づつ詠んで貰える。


梅の花は、周りの蕾が膨らんだだけだった。
咲いた花数としては1.5と言った方が良いか。


風向きで煙に追いかけられる。


階段から日吉町界隈を見る。


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