無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

シュトーレン

2024-12-23 13:33:43 | 食べ物


ドイツのお土産でシュトーレンを頂いた。
噂には聞いていたが、本物に出会うのは初めてだ。
クリスマスまでに、毎日一切れづつ食べると良いのだそうだ。
どんなに固いケーキなのかと思ったが、案外柔らかい。
そしてドライフルーツが盛り沢山で美味しいケーキだった。


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米粒写経 談話室 2024.12.19 ~能古島探訪記~

2024-12-21 13:00:55 | 音楽・芸術・文学
米粒写経 談話室 2024.12.19 ~能古島探訪記~


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【井川意高】ついに真犯人が判明・・山上の単独犯行ではなく黒幕がいたんです・・・こんなのが許されていいわけがありません

2024-12-19 11:08:16 | 音楽・芸術・文学
【井川意高】ついに真犯人が判明・・山上の単独犯行ではなく黒幕がいたんです・・・こんなのが許されていいわけがありません


面白そうだなと、この本を注文した。
ノンフィクションではないそうだが、かなり重要な事が書かれているらしい。
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飽海地域史研究会 長崎丸

2024-12-10 16:15:19 | 歴史
11月23日、東北学院大学非常任講師で山形県城郭研究会会長でもある山口博之氏を講師に、「幕府軍艦・長崎丸・一件」について講座が開催された。



会長挨拶








山口先生は、以前この研究会で庄内地方の城郭の数々を教えて下さった。
とても面白く、天気が良くなったら山城に行くんだと考えて、そのままになっている。


山口先生は、マスコミの歴史学で良く登場する磯田さんと同じ、国際日本文化研究センターで客員教授もされている。


「長崎丸を知っているか?」
正直言うと、私は知らなかった。


長崎丸と呼ばれる幕府の軍艦は、3艦存在する。
1848年にインドで製造された長崎丸は、木製で60馬力の外車で運行する。
幕府が手に入れたのは、1863年である。

長崎丸一番は、イギリスのシッドテで製造され、鉄製でやはり60馬力の外輪で推進する。幕府が手に入れたのは同じく1863年である。

長崎丸二番(通称第二長崎丸)はスコットランドのグラスゴウで製造、鉄製で120馬力のスクリュー推進、幕府が手に入れたのは1863年だった。


共通するのは長崎にて幕府が1863年に購入した事。
時は世の中が明治維新に向かい、焦臭くなった頃である。


日本の周りには、開国を求める外国船が多数屯し、隙さえ見せれば大砲を撃ってくる始末。対抗するべきと幕府は軍艦を用意した。

1868年5月12日、戊辰戦争で明け暮れする世の中、上野の彰義隊が敗れ、逃げる兵士達は第2長崎丸に乗り込んだ。
目指すは、庄内藩に助太刀する為、千代田形艦(木造船)と共に日本海を北上する。


同10月7日、酒田湊に入港しようとするも悪天候に見舞われ叶わず、風待ち港である飛島の勝浦港に入港しようとした。


しかし、海の荒れはさらに増し、勝浦に入る手前で座礁する。
小型の千代田形艦は遭難を免れ、逃げ切ることが出来た。
第2長崎丸の不幸はこれだけではなかった。
庄内藩は、9月26日に新政府に降参し、戊辰戦争を終えたのであった。


座礁した第2長崎丸は、すぐには沈没しなかった。
乗組員の270人は飛島に上陸し、積荷も飛島の住民と力を合わせ、島と何度も往復してあらかた荷揚げすることが出来た。
飛島ではこの270人の乗組員を各家庭に配分し、宿泊に努めた。


庄内では戊辰戦争は終わっていたが、北海道では五稜郭を中心にまだ戦争は続いていた。
乗組員は北海道に滞在していたロシア船に乗り換え大砲などの武器は積み込み蝦夷地へ目指す。
乗組員は島民と仲が良くなって、武器以外の物品は迷惑料として島に遺した。
乗組員と島民は、後に手紙のやりとりなども行うようになった。


積荷の殆どは飛島の島民の手から、現在は江戸東京博物館に移され所蔵されている。


酒田市にも、まだ島民が所有している文献など残っているかも知れない。


洋書の大半が海に沈んだのは、勿体ない。
乗組員の日記などもあっただろうに。





第2長崎丸での生活用品は、イギリス製が多かった。


逆にコンプラ瓶は、海外向けの日本の輸出品だ。



座礁した第2長崎丸は、後に沈没した。
山口先生曰く、酒田市や国、又は民間人は、海中調査をするべきである。
まだ残留物が残っている可能性がある。
これを宝探しも併せて観光に結びつける方法がある。
156年前の明治のロマンを探す旅が始まるのだ。


さて、第2長崎丸と似た運命を辿った船がある。
北海道で沈没した開陽丸である。





開陽丸は後に海中調査され、船の一部や積荷も見つかり、江差にて道の駅に併用した博物館の「開陽丸記念館」が建設された。


内部には展示施設が設けられ、湊には開陽丸を忠実に再現した船が繋がれ、内部も見学できる。


一般の船員はハンモックで休む。


船内での生活用品。


大砲に武器弾薬の数々。


酒田市は第二長崎丸沈没の地元にも関わらず、せっかくの歴史と観光材料を放棄している。
それともやる気の無さか。





会場からも様々な意見が上がり、面白い講座となった。



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東北農林専門職大学

2024-12-09 12:00:02 | 建築・都市・港
11月27日、さかた木づかい夢ネットの視察で、新庄市にある東北農林専門職大学へ向かった。



今回の視察に、来年の全建女を抱えている建築士会女性委員会からも参加した。



内陸組は現地集合で参加する。


外は風が強かったので、交流棟にある食堂に通される。



交流棟から教育研究棟へ移動する。


こちらが教育研究棟である。



研究室にて、キャンパス内を案内してくれるので、荷物は軽くして移動する。



大学校舎の道路を挟んで対面に、スマート林業研究研修センターがある。



電動シャッターが上がると、林業に必要な道具やヘルメットが陳列されている内部を見ることが出来た。


専門職大学が開校したのは今年。従って1年生のみで6名。
今日は全員が演習林に出かけていて、会うことは叶わなかった。


東北農林専門職大学は、付属農林大学校に併用して建築された。
こちらの農林大学校は、稲作、果樹、野菜、花木、畜産、農産加工、林業などの学科があり、キャンパス内には温室や畑も備わっている。
学生たちに収穫された作物も、販売しているのだそうだが、野菜などの時期も終わり、販売所には花のみ並べられていた。



普段なら飛びつくのだが、我が家には酒田支部長国交大臣表彰祝賀会で手に入れた花が沢山あった為に諦める。



交流棟前に集結する。
学生達がどのように登校するか、寮、新庄市内から車で通い、またはバス通という。



バス停が真ん前にあった。


農林専門職大学なので、本来は木造で建築したかったが、豪雪地の新庄市ゆえ、躯体はRC造にし、内部をふんだんに木使用にしたらしい。


使用されている木材は圧倒的に杉が多い。


食堂から上がってきた階段と吹き抜けのホール。


2階のホールからは図書館と大講堂に分かれる。
前面に見えるのは大講堂の入り口。
壁面には本棚と波を打ったベンチが並ぶ。


図書室に入る。





本棚に並んだ本立は、学生や教員の手作り。





本棚に並んでいる書籍は、専門書が多い。
なかなか興味深い本の数々である。



大講堂に入る。壁は正角の杉材がはめ込まれているが、オリンピックで各県が搬出した木材が、戻ってきた物。
SDGSのリサイクル品である。







壁面の杉材が所々隙間があるのは、音響を考えた為。



講堂から1階の外部へ続く廊下。役物の杉は良質だ。



教育・研究棟を歩く。
室名などは木材を加工していた。


研究室の前の廊下に、シャワーがある。
化学薬品を使用した研究室の前には、必要なのだそうだ。
チェーンを引っ張らないでと注意される。











自習室。ペレットストーブが設えてある。








防火シャッターの収め方がきれいだ。


教育研究棟から見た交流棟の屋根は、無落雪で考えているようだ。
屋根の先にフェンスの様で、一見屋上の手摺に見える物は、高さが低すぎて手摺ではない。
雪止めで、積雪を屋上に留める為の仕掛けと見た。



応接会議室の壁と天井の一部が杉張りだった。
なかなか綺麗である。


中廊下の突き当りの窓は、まるで絵を填めたような風景があった。


そんな目で窓を見ると、演習林がまるで屏風の絵のようである。


大学に関する説明が始まった。


この専門職大学は、単に森林を学ぶだけでなく、農林業経営学部、農業経営学科、森林業経営学科に分かれて学んでいる。


グローバルの観点から、数カ国の林業大学と連携を持ち、海外研修も企画されている。


現在、90年ものの杉林を間伐して、150年の杉林にすることを行っている。


この方は建築学担当で、キャンパス内を案内してくれた教授である。
大学の説明と質問が終わった後に、女性建築士達から取り囲まれていた。


解散後、酒田組は新庄市内の蕎麦屋へ。
内陸組は学食(美味しかったそうだ。)へ
学生達は一食370円、一般は700円だそうだ。
そちらも興味津々である。


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夢幻(ゆめまぼろし)

2024-12-01 22:40:01 | 自己紹介
病室の中で、妹が言った。
「あのね、家に帰った夢を見た。」
ただし、その家は現在の家ではない。
子供の頃、上台町(現町名日吉町)に住んでいた。元々住宅だったが、父の仕事(建築業)が住宅を侵食して仕事場が広がった。
それでも仕事場が狭いと、もっと広い所へと現在の場所へ移る。
台町の家は、祖父と父母と叔母と我々姉妹と父の弟子達がひしめきあって暮らしていた。
妹はその頃の家に戻っていた。
大人達は苦労もあったろうが、我々姉妹には何の苦労も無く、大人達取り分け父母が大きな慈愛で守ってくれていた「最も幸せな時代」だったのである。
近くにある寺院や神社で、暗くなるまで近所の子供達と遊びほうけていた所に「ご飯だよ~~。」と母親が呼びに来てくれる。
一番幸せな時代に、妹は戻っていたと言うわけだ。
「それは良かったね。」と言う反面、妹の記憶の欠落が痴呆の方に進むのではと危惧もしている。入院時のことは覚えていないそうだ。
「おじいちゃんもお父ちゃんも母ちゃんも皆んなもいたよ。」でも、そこには夫も自分の子供達もいなかった。
現在の家に帰ってくれば、苦労だけが残っている。そんな所に誰が帰ってきたいものか。


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