11月23日、東北学院大学非常任講師で山形県城郭研究会会長でもある山口博之氏を講師に、「幕府軍艦・長崎丸・一件」について講座が開催された。
会長挨拶
山口先生は、以前この研究会で庄内地方の城郭の数々を教えて下さった。
とても面白く、天気が良くなったら山城に行くんだと考えて、そのままになっている。
山口先生は、マスコミの歴史学で良く登場する磯田さんと同じ、国際日本文化研究センターで客員教授もされている。
「長崎丸を知っているか?」
正直言うと、私は知らなかった。
長崎丸と呼ばれる幕府の軍艦は、3艦存在する。
1848年にインドで製造された長崎丸は、木製で60馬力の外車で運行する。
幕府が手に入れたのは、1863年である。
長崎丸一番は、イギリスのシッドテで製造され、鉄製でやはり60馬力の外輪で推進する。幕府が手に入れたのは同じく1863年である。
長崎丸二番(通称第二長崎丸)はスコットランドのグラスゴウで製造、鉄製で120馬力のスクリュー推進、幕府が手に入れたのは1863年だった。
共通するのは長崎にて幕府が1863年に購入した事。
時は世の中が明治維新に向かい、焦臭くなった頃である。
日本の周りには、開国を求める外国船が多数屯し、隙さえ見せれば大砲を撃ってくる始末。対抗するべきと幕府は軍艦を用意した。
1868年5月12日、戊辰戦争で明け暮れする世の中、上野の彰義隊が敗れ、逃げる兵士達は第2長崎丸に乗り込んだ。
目指すは、庄内藩に助太刀する為、千代田形艦(木造船)と共に日本海を北上する。
同10月7日、酒田湊に入港しようとするも悪天候に見舞われ叶わず、風待ち港である飛島の勝浦港に入港しようとした。
しかし、海の荒れはさらに増し、勝浦に入る手前で座礁する。
小型の千代田形艦は遭難を免れ、逃げ切ることが出来た。
第2長崎丸の不幸はこれだけではなかった。
庄内藩は、9月26日に新政府に降参し、戊辰戦争を終えたのであった。
座礁した第2長崎丸は、すぐには沈没しなかった。
乗組員の270人は飛島に上陸し、積荷も飛島の住民と力を合わせ、島と何度も往復してあらかた荷揚げすることが出来た。
飛島ではこの270人の乗組員を各家庭に配分し、宿泊に努めた。
庄内では戊辰戦争は終わっていたが、北海道では五稜郭を中心にまだ戦争は続いていた。
乗組員は北海道に滞在していたロシア船に乗り換え大砲などの武器は積み込み蝦夷地へ目指す。
乗組員は島民と仲が良くなって、武器以外の物品は迷惑料として島に遺した。
乗組員と島民は、後に手紙のやりとりなども行うようになった。
積荷の殆どは飛島の島民の手から、現在は江戸東京博物館に移され所蔵されている。
酒田市にも、まだ島民が所有している文献など残っているかも知れない。
洋書の大半が海に沈んだのは、勿体ない。
乗組員の日記などもあっただろうに。
第2長崎丸での生活用品は、イギリス製が多かった。
逆にコンプラ瓶は、海外向けの日本の輸出品だ。
座礁した第2長崎丸は、後に沈没した。
山口先生曰く、酒田市や国、又は民間人は、海中調査をするべきである。
まだ残留物が残っている可能性がある。
これを宝探しも併せて観光に結びつける方法がある。
156年前の明治のロマンを探す旅が始まるのだ。
さて、第2長崎丸と似た運命を辿った船がある。
北海道で沈没した開陽丸である。
開陽丸は後に海中調査され、船の一部や積荷も見つかり、江差にて道の駅に併用した博物館の「開陽丸記念館」が建設された。
内部には展示施設が設けられ、湊には開陽丸を忠実に再現した船が繋がれ、内部も見学できる。
一般の船員はハンモックで休む。
船内での生活用品。
大砲に武器弾薬の数々。
酒田市は第二長崎丸沈没の地元にも関わらず、せっかくの歴史と観光材料を放棄している。
それともやる気の無さか。
会場からも様々な意見が上がり、面白い講座となった。