はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

憧れた黒部五郎岳・笠ヶ岳縦走

2016年05月04日 | 山靴の歌
憧れた黒部五郎岳・笠ヶ岳縦走(1)1992.8.15-20
(1)黒部五郎岳へ

8・15(土) 23:05 池袋  バス14400
 山を復活して、妻の裕子と百名山をめざして、槍ヶ岳・穂高岳・立山・仙人池と登ってきて、つぎは黒部の奥深くにある黒部五郎岳とあの美しい笠ヶ岳を組み合わせた縦走を、テント泊りで計画する。四十七才の夏。コースは富山から有峰口を経て折立へ、太郎平から稜線伝いに黒部五郎岳、三俣蓮華、双六、笠ヶ岳へ、そして新穂高温泉へ下山する。我ながらいい計画であると思った。富山行きの夜行バスに乗る。

8・16(日) 5:50 6:22 富山 6:57 7:25 有峰口 8:30 8:45 折立 11:00~11:30 三角点 14:00~14:15        小屋1km 14:40~14:50 太郎小屋 15:10 薬師峠

 八月十六日。電車に乗る前に駅前の売店でますずしを買い、朝食にした。美味かった。  折立への道はバスがすれ違うこともできないほど細く、険しい谷道を行く。バスは満員である。途中ダムに没した有峰を経由して折立へ。バス代が高い。荷物分も払わされる。二人で六千四百円、いい値段である。
 昭和十五年の柳瀬留治は立から薬師岳を越え流れる縦走をしたおりに詠んだ

     有峰の平家の散り散りて県営発電ダムとならむとす     柳瀬留治

というのがある。この時は雨中、太郎平から有峰に下ったとある。戦前からダム計画があったのだ。有峰というのは、平家のとしてもかなり有名であったところだが、バスで来てみるとすさまじいほどの山奥である。道もあのか細い道路一本しかないわけで、まったく外科医と完全に隔離されているようなところで、そんなところに逃げ延びなければならなかったとすれば、平家追討の徹底ぶりがわかる。
 午前十一時折立到着。無料休憩所の前で準備をして出発。快晴。三角点までの登りはほどほどの歩き易さで、子どもづれが多い。
 三角点(1870M)にでると薬師岳の姿がみえだし、その大きな山容、麓まで緑の樹林帯が前衛をつくっているが、そのはるかに赤茶けた岩肌の豪気な山が聳えている。でかい。実際そう思った。ここで一服する。浦和から来た老婦人からぶどうトマトをもらう。この婦人から教えられたのは、牛乳パックにぶどうやトマトを入れておくと、形崩れしないのだ。次回参考にしよう。この三角点からの登りは樹林帯と草原が交互に現れて、視野がぐーんと開ける。小屋まで1キロ地点で休憩。剣岳も見える。薬師岳はますます大きく見える。
 裕子はやさしい山だと感想をもらす。

     目にちかくどっかりとある薬師岳夏空の蒼に溶け込んでおり

じつに見晴らしのいい場所に小屋は建っている。小屋は大変な賑わいで、少し覗いただけで曽とで休んだ。

     雲の平はみどりなすおだやかな原なり手をのぼせばとどくかも
     わが目指す黒部五郎は午後の陽に深緑り色して高根をしめす

 小屋の正面の展望がすばらしい。黒部五郎や水晶岳に雲がかかっていたが、劒、立山、薬師、雲の平、三俣蓮華、鷲羽、一望である。とくに雲の平の広々とした草原は、早くいらっしゃいと手招きしているようであった。眺望を楽しんだあと、今日のテント場である薬師峠まで行かねばならない。再び樹林の中を歩いてテント場でテントを張った。
 テント暮らしは裕子は初めてであるから、何事も私がしなければならない。特に食事の支度はすべて私の役目。テントの中の整理整頓は裕子の受け持つこととなった。水場も近く、トイレの設備もよいので安心した。夜行バスの疲れもあり、早々に就寝したが、夜はシーンとして山深さをさらに感じさせる。テント場の使用料一人五百円。

         薬師峠・テント場にて
黒い樹林の真夜の天空 星まばたいてわれに来る暗号
深々と夜が重なる奥山の原始の森の囁きをきく

8・17(月) 快晴 4:55 薬師峠 5:15 太郎小屋 7:25~ 7:50 北ノ俣岳 8:20 赤木岳 9:50~10:00 取り付き 11:50~12:00 黒部五郎岳の肩 12:10~12:20 黒部五郎岳 12:25~12:35 黒部五郎岳の肩 13:05~13:15 カール水場 15:00 黒部五郎小捨

 八月十七日。三時半頃起床する。食事の支度をし、五時前に出発する。今日は長丁場である。太郎平小屋はまだ静かであったが、越中方面を見渡すと、雲海の上に白山が静かに穏やかな山容を薄青く見せていた。
       太郎平にて
    白山の優美な姿あまねく雲海のうえに横たわる朝明け
    水晶、鷲羽、雲ノ平黒部川のうぶ声をきく山々親しく見つめる
   
 太郎山や北之俣岳までは気持ちのよい稜線散歩であった。途中で若い女性の二人づれにあう。この二人はお花畑があるたびにとまって、かわいいとかきれいとかはしゃいで、かなりのんびり登っている。そんな調子だと黒部五郎小屋まで今日中に着かないのではないかと心配する。北ノ俣岳では飛騨からくる道と出会う。赤木岳で休憩。順調に来る。眺めはあいかわらずすばらしい。そして黒部五郎岳が段々と迫ってくる。振り替えればあいかわらず薬師はおおきい。いつかあの山を越えなければと思った。黒部五郎岳は目の前にあり、遠く槍ヶ岳や穂高の岩稜が青く黒く見える。今日も天気はよい。
 中ノ俣乗越からいよいよ黒部五郎岳への取り付きが始まる。午前十時取り付き開始。遠くから見ていたときよりもかなり急な稜線である。黒部五郎岳の肩までが遠かった。私はこの登りでアゴを出してしまった。約二時間近くかかって肩に着いた。山頂まであとわずかなのだが、ここで休憩をとらずにはいられなかった。足が動かない。落ち着きを取り戻し、荷物を肩に置いて山頂を往復する。黒部五郎岳到着十二時十分。あいにくと雲がでてきたが、高雲りなので、槍ヶ岳や穂高が更に近くに見える。写真を撮り、肩に戻る。
       黒部五郎岳山頂
     アルプスの名のある山を数えたらきりなし我が立つ黒部五郎岳の上
     わが妻と黒部の奥山踏みきたりいますがすがし夏の風ふく

 裕子が比較的元気なので安心しているが、私の荷物は二十五キロほどあり、急な登りで一気に足にきてしまったらしいが、その程度で弱るとは情けない。いよいよカールへの道を下って黒部五郎の小屋をめざす。今日もテントであるから早く着いてゆっくりしたいと思った。カールの底への道は足場もけっしてよくないが、お花畑があちこちにあり、小川がながれ、なんとも言えない不思議な雰囲気がある。足の裏が痛くて、途中小さな沢で休息し、水に足を漬けて痛みをとった。そして美味しい雪解けの水を思い切り飲んだ。
     
     黒部五郎岳のカールに雪解けの水を口にふくめばわれ蘇る
     谷底のお花畑にわたる風さやさやとして妻微笑んでいる

 私と逆行してきた柳瀬留治は、このカールで道に迷う。
       黒部五郎より谷に踏み迷う                  柳瀬留治
     黒部谷に臨む平あり岩めぐり水の流れて花咲きみだる
     迷い入りここに死なせば白骨と晒るるも遂に人知らざらむ

 たしかに、ここで道を踏み外して迷えば、永遠に出てこれないかもしれぬ。そんな思いをさせる雰囲気がある。顕著に白くちらばる岩は羊群岩というのだそうだ。緑と白い岩とコバイケソウの花畑は幻想的な世界を造り出している。
 カールから一時間半ほどかかって黒部五郎小舎に着いた。この道も気分的には長い道程のように思えた。小舎の回りは草原で池塘が点在している。テント場は小屋の近くにあり、なにかと便利であった。
 あの二人づれの女性は夜七時ごろ小屋に着いた。彼女らが到着すると同時に小屋の人が慌ただしく出ていった。何事かと聞くと、老人が一人まだ帰って来ないのだという。黒部五郎岳へ小屋から日帰りで出かけたのに、夜になってももどって来ないのだそうだ。そういえば、カールへ下る途中で一人で登ってくる年配の男性に出会ったことを思いだした。もしかしてあの人かしらと思った。小屋でポカリスエットと牛乳を飲んだ。
 翌日分かったことだが、その老人は途中で寝てしまったのだそうで、それでも無事山小屋の人に探し出されて事なきをえたということであった。    
 今夜も早く寝ることにしてシュラフに潜りこんだ。

8・18(火) 7:30 黒部五郎小捨 8:30~8:40 2600m 9:10~9:20 三俣山荘分岐 10:10~10:30 三俣蓮華岳           11:45 双六岳分岐 12:15 お花畑 12:50~13:10 交差点 13:20双六小屋
      
 八月十七日。天気は曇り。雨の降りそうな気配である。雲が厚く空を覆っている。明け方は肌寒い。今日は双六小屋までなので、気分的にものんびりしている。
 午前七時半にテント場を出発。三俣山荘へ向かう。
稜線にでるまでの登りはかなりきつい。高まるたびに振り替えると黒部五郎岳のカールの広がりが一望となり、緑の濃い庭園を懐にかかえた黒部五郎岳が、すっきりとした形で大きく美しいのだ。昨日、あの登りの辛さをようがんばったもんだと自分を慰める。三俣蓮華から見た黒部五郎岳はほんとに美しい。高度を上げるにつれて雲ノ平山荘が広い原の中央にぽつんと見える。雲の平と黒部五郎岳の間には深く黒部の源流が流れて、薬師沢に向かい深く切れ込んでいるのがわかる。太郎平から薬師沢におりてまた雲の平に登りかえすコースが手に取るようにわかる。かなりきつい道に思えた。しかし、必ず尋ねてみようと思っている。
ガスがでてくる。三俣山荘分岐で山荘への道を見送って三俣蓮華の山頂をめざす。十時十分
山頂に到着。山頂はガス、霧雨。しかし展望は得られた。立山、劒は雲の中だが、薬師岳、雲の平、水晶岳の頂にはガスがあり、鷲羽岳、三俣山荘の赤い屋根が見える。三俣山荘はその存続をめぐって営林署ともめているそうなのだが、国はあまり理不尽なことを言わないほうがよい。なによりもこれから目指す笠ヶ岳の端正な姿が私達を喜ばせた。もちろん槍ヶ岳・穂高岳はいうまでもない。ここは北アルプスのヘソの位置だ。
                まなか
      妻もにて北アルプスの真中いの三俣蓮華の頂にたつ
      見晴るかす北アルプスの山々を間近に見れば親しみもまし

 窪田空補が赤岳(今のワリモ岳か)の雷鳥の歌を八首残したが、この北アルプスのヘソの位置での歌がないのはまったくもって残念だ。詠われた場所は違うかもしれないが、歌の境地としてはまったく同じものとして次の歌をあげておく。この黒部の山がどこの山を指すのかはさだかではないし、どこで詠まれたかもさだかではないが、心境はその通りである。

    目にせまる雪の黒部の山高しはるけくも来つるわが身を思ふ  藤原染子

 ここから先は、双六岳の稜線づたいにではなく、お花畑のある双六岳のカールの道を歩く。正直稜線づたいの道を間違えたてしまったのだが、あとで分かった。それでも裏銀座の稜線とカールの底はきれいなお花畑があり、気楽に歩いた。裕子も疲れた風もなくにこやかである。次第に天気は悪くなり、ガスが濃くなる。穂高連峰の岩肌が雲の間から見えてくるが、槍ヶ岳は深く隠されている。硫黄尾根が赤茶けた地肌を露にして西鎌尾根から東に伸びて湯俣に落ちてゆく。この尾根こそ私の所属した山岳会の友が、冬に遭難したところで、赤岳、硫黄岳の稜線はひときわ赤みをおびて寒々として見えた。

    霧の間に赤嶽の骨赤ければ険しき岩に足をとどめぬ      柳瀬留治

 妻に私が二十歳そこそこのころの悲しい思い出の場所を指さして教えた。

    雲低く覆い隠せる槍ヶ岳硫黄の尾根はやけに赤らぐ

 午後一時二十分に双六小屋に到着。今日はここまで。小屋の前のテーブルで休息。遅い昼食をつくる。ラールンとパン。小屋でリンゴジュースとコーラを買う。
テント場は小屋からかなり離れた下の開けた台地にある。早い時間の到着したのでよい場所を探し、テントを張った。幕営もなれてすばやくできた。あとは休むだけである。テントの場合、小屋と違い、二人きりなので時間をもてあます。コーヒーを沸かしたりして時を稼ぐ。雨の心配もしたがそれほどのことはなく、やがて夕闇のせまるころ、早い夕食の支度をし、明日も早いので寝ることにする。

    天幕に灯す明りは小さくもほのぼのとしてあたたかな色夢のなか

2010-12-14 : 山靴の夢・二人で歩いた山(紀行文)
黒部五郎岳と短歌・柳瀬留治のこと黒部五郎岳と短歌・柳瀬留治のこと

 『黒部五郎岳』は人名ではないと、深田久弥は冒頭に断って、「ゴーロ」とは山中の岩のことで、それに当てた字が「五郎」となったという。野口五郎岳と区別するために黒部五郎岳となった。その両方の山とも、黒部川の源流深くに位置する山であり、長年の憧れの山であ
た。しかし、その山深さの故に、短歌の世界ではほとんど詠われることがない。黒部五郎岳について言えば、歌人柳瀬留治の歌集「立」
に頼るしかない。この歌人は富山の人で戦前昭和八年から十七年にかけて北アルプスを歩き、それを歌集『立山』にまとめている。この
歌集がないと、「百名山の短歌」は完成しない。来島靖生『歌人の山』の鹿島槍ヶ岳の項でふれている。窪田空穂に師事して唄を詠み、歌集『立山』の序に空穂は「歌集『立山』を読みつつ、柳瀬君はよくもこんなに山に登れたものだと、登山好きとは知りながらも今更のように感心した」と驚嘆するほどに、登山だけの歌集であり、現在までもこのような歌集はないのではないだろうか。そして黒部五郎岳についての歌はこの歌集でしか見つけられていない。それも黒部五郎岳そのものを詠ってはいないのが残念である。
 私が手に入れた昭和十六年発行の『日本アルプスの旅』にも、黒部五郎岳へのコース案内記事はない。しかし、地図には黒部五郎岳(中ノ俣岳)と記載されており、黒部五郎小屋もすでに建っている。裏銀座のコース紹介はあるが、この黒部五郎岳と雲の平は扱われていない。それほど深い山であったと言うことだろう。柳瀬の師匠である窪田空穂が大正十一年にこの裏銀座コースを縦走しているのだが、槍ヶ岳にのみ集中していて、多分三俣蓮華や鷲羽岳から遠望したであろう黒部五郎岳や笠ヶ岳、はたまた水晶岳を詠っていないのが悔まれる。このことはまた別のところで触れる。いずれにせよ、現代の歌人でも黒部五郎岳を登っている人は少ないだろう。それと同じような山が百名山のなかにはある。この山が世にしられたのも明治四十三年以降のことというから、比較的新しい。それでも山頂には「中之俣白山神社」の祭神が祀られていたというから驚く。
 この山は三俣蓮華の登山路から眺めるとじつに雄大な山である。その大きいカールも広々として美しい。
 柳瀬留治は昭和九年八月十一日より十七日にかけて、槍ヶ岳から立山への縦走を行ない、四十九首の唄を詠んでいる。島々から上高地高知を経て一日目で槍ヶ岳の殺生小屋まで行っている。一応すでに島々から上高地までバスが運転されていた(昭和十六年の「日本アルプスの旅」によれば二時間十分の所用時間でバスの利用が記載されている)。殺生小屋に風呂が沸いていという。そして二日目は西鎌尾根で登山者と行き違いながら、双六から黒部五郎小屋に至り宿泊している。

   ご苦労様どちらからといひお大事にといふは山に逢う情の極みか   柳瀬留治       

昔から、山で行き合う人と挨拶するのは当然のことだが、本当に登山はこの時代から盛んであったのだろうとつくづく思うのだ。

  黒部五郎の小屋の主は越中の訛りなるゆえ一夜語り (佐伯九郎と呼ぶ者なり)
  爐に大きとねをばくめつ黒部川ゆ釣り来し岩魚焼くきてくるるも   柳瀬留治      

こうして黒部五郎小屋の一夜が明ける。

  薬師岳に朝日照り初めぬ黒部五郎の暁はつめたし口すすぐ水  柳瀬留治

と唄がつづくが、この一首をしても黒部五郎岳そのものを詠ってはいないが、残念ながら、この歌しか見当たらない。改めて探したい。この山へは行ってみないとそのよさがわからないかもしれない。しかしまた、行くのがとても大変な山であるのだ。








山靴の夢・二人で歩いた山(紀行文)
黒部五郎岳・笠ヶ岳縦走(2)1992.8.15-20笠ヶ岳へ

8・19(水) 5:10 双六幕営地 6:25-6:30 お花畑 6:45 鏡平分岐 7:00~7:05 弓折岳 7:25~ 7:35 大ノマ乗越9:15-10:00 秩父平
11:00~11:40 ニセ抜戸岳 12:50 笠新道分岐 14:30 笠ヶ岳山荘 14:40-15:05 笠ヶ岳 15:10 笠ヶ岳山荘

 八月十九日。夜明けを前に起床して、日の出前に出発する。昨日の天気が嘘のように晴れわたって、槍ヶ岳・穂高岳の稜線がくっきり見える。蒲田への道は陰となってまだ暗い。

   双六より見ゆる笠嶽越えいなば我は蒲田の湯にひたるべし    柳瀬留治

 この歌のように、私たちも新穂高温泉の湯に入りたいのだが、弓折岳、抜戸岳を越えて笠ヶ岳までの稜線は見るからに長い。双六のテント場から歩きだすと東の空が明るくなり、槍ヶ岳と穂高岳の上にある厚い雲に光りがあたって、濃い紫色のくもの端が金色に光りだす。朝焼けをみながらつくづく自然の美しさに感嘆してしまう。妻とふたりしてしばらく眺めていた。

   金色に輝く雲のそのしたに黒く鋭く槍ヶ岳あり
     明け抜けぬ空なればこそ穂高嶺の黒々として厳かなりき
     遠目にも近づき見ても美しい笠の笠たる笠ヶ岳あり
 鏡平の分岐からは鏡平小屋の屋根が真下に見える。槍ヶ岳と穂高岳の岩稜線を眺めるポイントとしては常念岳があげられるが、このコースがこれほどまでに素晴らしい展望台はないだろう。弓折岳で一休みして、大ノマ乗越へ。ここから秩父平へもひたすらの登りとなる。秩父平には水場があり、長い休憩時間をとった。遠くから見ると単調のように見えるが、抜戸岳まではかなりの登りがつづいている。ニセ抜戸岳まできたとき、裕子の調子が悪そうなので、寝不足のためだろうと思い、道端で仮眠させる。天気も悪くないし、昼寝をするには最高だ。草の青々とした臭いを嗅ぎながら横になる。いい気分だ。

   ひとときの浅き夢かも高山の高根の花に戯れる蝶
     槍と穂の岩尾の嶺を見つめてるたおやかにある笠ヶ岳は

 陽射しは強いけれど風もあり、薬師岳や黒部五郎岳、槍ヶ岳・穂高までぐるっと見渡しながら、私も少し微睡んだ。三十分ほどして裕子が目覚めたので、いよいよ笠ヶ岳をめざすことにした。裕子の体調も回復したようだ。笠ヶ岳の端正な姿が徐々に近くなる。昼をまわるころから天気が悪くなってきた。笠新道の分岐に一時近くに着いたが、ここから笠ヶ岳の小屋まで一時間半以上かかる。遅くならないためにも先を急ぐ。笠の肩にから小屋が見えた時は少しほっとした。小屋に着いたときは午後二時半であった。周囲はガスとなり、天気は一段と悪くなる。 ともかく山頂をめざす。何も見えない笠ヶ岳の山頂は一種異様な雰囲気がした。山頂は周囲を深い霧につつまれてまったくの灰色の世界。そのなかで、堆く積まれたケルンが何十本もあり、賽の河原のようなのだ。山頂の一遇に石仏があると深田久弥は書いているが、その異様さのなかで気づかないままであった。

     わが立つは賽の河原か頂か笠ヶ岳は霧に閉ざされ
     堆く積まれしケルンは霧の中亡霊のごと我を囲いぬ

 小屋にもどりテント場の状況とトイレのことを尋ねたら、小屋のトイレを使用してくださいと言われた。
 一旦はテント場に行ったのだが、小屋から二百メートルほど下で、トイレも遠い。生憎と雨も降り始めた。今日の裕子の体調を考えると最後の夜は小屋でゆっくり休ませた方がよいと判断して、小屋まで引き返し、宿泊することにした。素泊まりにして、夕食は自炊する。過ごしやすい小屋で、客に親切であった。泊まって正解かと思えた。
 一晩中雨も降り風も強くなり、テントにせずよかったと思ったが、明日のことが配になった。妻は小屋の寝床で安心しきって深い眠りに落ちている。
       笠ヶ岳小屋にて
     憧れていま登り終えたる笠ヶ岳安堵の思い小屋の温もり
     傍らの妻の寝息も穏やかに小屋の灯りに安らいでいる
     夜来より強まり荒れる雨風も小屋にてあれば恐れるもなし

8・20 5:30 笠ヶ岳山荘 6:30 笠新道分岐 6:50~ 7:00 お花畑 10:15~10:30 水場
10:40 笠新道林道 11:30~12:10 新穂高温泉 12:45 平湯 14:50~15:26 松本 17:31 八王子  

 八月二十日。雨は明け方にはあがり、小屋を出るときには、おだやかできれいな朝焼けを迎える。昨日来た道を笠新道の分岐まで下る。 笠新道の分岐に六時半。黒部五郎、三俣蓮華、赤牛、鷲羽、双六、槍ヶ岳、穂高、焼岳、乗鞍、御嶽、富士、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプスまでが見わたせた。きれいな写真が撮れると喜ぶ。
     
はるばると歩み来た峰々眺めれば今日一日も愉快なり
     茜さす槍と穂高はまたわれを誘うように佇んでいる

 分岐からが地獄の下りと言われる大下りなのだが、二十分ほどひたすら下ると一面のお花畑にであった。沢が流れ、冷たい水で顔を洗って目を覚ます。ここで一安心してはいけない。ここから延々と四時間近く下りが続くのだ。この新道は笠ヶ岳への近道ではあるが、登りにとると手強い道なのだ。途中男性三人のパーティと思い気や、先頭の子は体も大きな女の子で短パンに縦走用の特大のザックを背負い登ってくる。男二人女一人の学生のパーティなのだが、いまどきこんな山女がいるのだと感心する。いやなかなかの美人で色白の子で、山には不釣合いな印象を受けたから尚更であった。声を掛けたら、立山まで縦走するのだと答えが返ってきた。男の子も美丈夫で、若者は美しい。 十時過ぎに林道間近の水場に着き、休む。冷たい水が喉を潤し、意識を明瞭にする。裕子も長い下りにうんざりしたと思うが、比較的元気で、昨夜の小屋泊りが効いたのだろう。まもなく笠新林道に出て五日ぶりに人里にもどってきた。

     嵐つき槍ヶ岳より下りきた思い出の道をふたたび歩む
     わが妻と長き山旅無事終えて蒲田の湯にゆったりひたる

新穂高温泉のバス停前の無料風呂に入って久しぶりにさっぱりする。実に気持ちがよかったのだが、のんびりしたおかげで上高地行きのバスを逃してしまった。平湯でバスに追いつけばと考え、タクシーでおいかける。無事、平湯でバスをつかまえることができ、その日のうちに自宅に帰ることができた。



山靴の夢・二人で歩いた山(紀行文)
笠ヶ岳と短歌・逗子八郎のこと笠ヶ岳と短歌・逗子八郎のこと

 「この山ほど名に忠実なものはない。どこから望んでも笠の形を崩さない・・・文字通りの笠ヶ岳である」と深田久弥が書くほどに、どこから見ても「目立つ端正な山」である。円空上人が一六八三年に高山にきて修業をしたときに、多分登っているだろうと、推察するのだが、記録に残るのは、一七八二年の高山の南裔上人で、そのあと播隆上人が一八二三年に登って道をつけたとある。近年はウェストンであったという。ほんとうにこの宣教師はいまで言う「変な外国人」である。それも明治二十七年のことと言うから驚く。昭和十年の「山岳短歌集」にも笠ヶ岳は載っていたない。唯一、新短歌の歌人逗子八郎の「山岳歌集『烟雲』」のなかの二首である。この他には柳瀬の歌が一首ある。
 逗子八郎は新短歌の人である。昭和のはじめ短歌革新の運動とともに、定型短歌の革新を標傍して新短歌運動が起きた。私は偶然であったが、その歴史をもつ『芸術と自由』という同人会に属した。昭和十年頃が最盛期で革新的思想の流れに文学が与していたころである。戦争のはじまりとともに弾圧され衰退していったが、現在でもその流れは残っているが。理論的根拠が脆弱になって、その革新性は薄れている。当時の新短歌の歌人が世に知られていないことや、その歌の親しみ難い面もあり、現代の定型短歌がかなり大胆な革新を短歌にほどこしている現代にあっては、その特異性を維持するのは難しい。
 それはともかくとして、忘れられた歌人としてこの逗子八郎がいる。逗子は「短歌と方法」を主宰した。この人は何冊かの著作を著わしているが、海軍との関わりが深く、官僚して戦中を過ごしたようだが詳細は調べていない。ただ大田区馬込に住んでいたことに親しみを覚え。。ただ一点、「山岳歌集」と銘打って歌集を出した人は、この逗子と柳瀬留治しかいないのではないだろうか。新短歌の課題はそのポエジー性にある。逗子の歌もいくつか紹介しているが、その点に問題があるように思える。
     岩の上に 膝を抱き抱え真向かふ笠ヶ岳 この親しさは雲外のものだ  逗子八郎     夕日の入る西谷に浮く笠ヶ岳は 抜戸岳錫杖岳を踏まへ根張り美しい山  〃

 先の歌は昭和九年、上高地より逗子が穂高岳に登り、ジャンダルムより笠ヶ岳を眺めての歌である。ジャンダルムの岩峰の上で、一人膝を抱きながら飽かず景観を眺めていれば、至福の時を感じないわけにはいかないだろう。この歌は新短歌の中では成功している歌であると思う。 二首目は昭和七年の七月、槍ヶ岳に登ったときの歌。かなり下句が説明的であるが、笠ヶ岳の大きさを表わしている。













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黒部五郎岳・笠ヶ岳縦走(1)1992.8.15-20黒部五郎岳へ

8・15(土) 23:05 池袋  バス14400

 山を復活して、妻の裕子と百名山をめざして、槍ヶ岳・穂高岳・立山・仙人池と登ってきて、つぎは黒部の奥深くにある黒部五郎岳とあの美しい笠ヶ岳を組み合わせた縦走を、テント泊りで計画する。四十七才の夏。コースは富山から有峰口を経て折立へ、太郎平から稜線伝いに黒部五郎岳、三俣蓮華、双六、笠ヶ岳へ、そして新穂高温泉へ下山する。我ながらいい計画であると思った。富山行きの夜行バスに乗る。

8・16(日) 5:50 6:22 富山 6:57 7:25 有峰口 8:30 8:45 折立 11:00~11:30 三角点 14:00~14:15        小屋1km 14:40~14:50 太郎小屋 15:10 薬師峠

 八月十六日。電車に乗る前に駅前の売店でますずしを買い、朝食にした。美味かった。  折立への道はバスがすれ違うこともできないほど細く、険しい谷道を行く。バスは満員である。途中ダムに没した有峰を経由して折立へ。バス代が高い。荷物分も払わされる。二人で六千四百円、いい値段である。
 昭和十五年の柳瀬留治は立から薬師岳を越え流れる縦走をしたおりに詠んだ

     有峰の平家の散り散りて県営発電ダムとならむとす     柳瀬留治

というのがある。この時は雨中、太郎平から有峰に下ったとある。戦前からダム計画があったのだ。有峰というのは、平家のとしてもかなり有名であったところだが、バスで来てみるとすさまじいほどの山奥である。道もあのか細い道路一本しかないわけで、まったく外科医と完全に隔離されているようなところで、そんなところに逃げ延びなければならなかったとすれば、平家追討の徹底ぶりがわかる。
 午前十一時折立到着。無料休憩所の前で準備をして出発。快晴。三角点までの登りはほどほどの歩き易さで、子どもづれが多い。
 三角点(1870M)にでると薬師岳の姿がみえだし、その大きな山容、麓まで緑の樹林帯が前衛をつくっているが、そのはるかに赤茶けた岩肌の豪気な山が聳えている。でかい。実際そう思った。ここで一服する。浦和から来た老婦人からぶどうトマトをもらう。この婦人から教えられたのは、牛乳パックにぶどうやトマトを入れておくと、形崩れしないのだ。次回参考にしよう。この三角点からの登りは樹林帯と草原が交互に現れて、視野がぐーんと開ける。小屋まで1キロ地点で休憩。剣岳も見える。薬師岳はますます大きく見える。
 裕子はやさしい山だと感想をもらす。

     目にちかくどっかりとある薬師岳夏空の蒼に溶け込んでおり

じつに見晴らしのいい場所に小屋は建っている。小屋は大変な賑わいで、少し覗いただけで曽とで休んだ。

     雲の平はみどりなすおだやかな原なり手をのぼせばとどくかも
     わが目指す黒部五郎は午後の陽に深緑り色して高根をしめす

 小屋の正面の展望がすばらしい。黒部五郎や水晶岳に雲がかかっていたが、劒、立山、薬師、雲の平、三俣蓮華、鷲羽、一望である。とくに雲の平の広々とした草原は、早くいらっしゃいと手招きしているようであった。眺望を楽しんだあと、今日のテント場である薬師峠まで行かねばならない。再び樹林の中を歩いてテント場でテントを張った。
 テント暮らしは裕子は初めてであるから、何事も私がしなければならない。特に食事の支度はすべて私の役目。テントの中の整理整頓は裕子の受け持つこととなった。水場も近く、トイレの設備もよいので安心した。夜行バスの疲れもあり、早々に就寝したが、夜はシーンとして山深さをさらに感じさせる。テント場の使用料一人五百円。

         薬師峠・テント場にて
黒い樹林の真夜の天空 星まばたいてわれに来る暗号
深々と夜が重なる奥山の原始の森の囁きをきく

8・17(月) 快晴 4:55 薬師峠 5:15 太郎小屋 7:25~ 7:50 北ノ俣岳 8:20 赤木岳 9:50~10:00 取り付き 11:50~12:00      
黒部五郎岳の肩 12:10~12:20 黒部五郎岳 12:25~12:35 黒部五郎岳の肩 13:05~13:15 カール水場 15:00 黒部五郎小捨

 八月十七日。三時半頃起床する。食事の支度をし、五時前に出発する。今日は長丁場である。太郎平小屋はまだ静かであったが、越中方面を見渡すと、雲海の上に白山が静かに穏やかな山容を薄青く見せていた。
       太郎平にて
     白山の優美な姿あまねく雲海のうえに横たわる朝明け
水晶、鷲羽、雲ノ平黒部川のうぶ声をきく山々親しく見つめる
   
 太郎山や北之俣岳までは気持ちのよい稜線散歩であった。途中で若い女性の二人づれにあう。この二人はお花畑があるたびにとまって、かわいいとかきれいとかはしゃいで、かなりのんびり登っている。そんな調子だと黒部五郎小屋まで今日中に着かないのではないかと心配する。北ノ俣岳では飛騨からくる道と出会う。赤木岳で休憩。順調に来る。眺めはあいかわらずすばらしい。そして黒部五郎岳が段々と迫ってくる。振り替えればあいかわらず薬師はおおきい。いつかあの山を越えなければと思った。黒部五郎岳は目の前にあり、遠く槍ヶ岳や穂高の岩稜が青く黒く見える。今日も天気はよい。
 中ノ俣乗越からいよいよ黒部五郎岳への取り付きが始まる。午前十時取り付き開始。遠くから見ていたときよりもかなり急な稜線である。黒部五郎岳の肩までが遠かった。私はこの登りでアゴを出してしまった。約二時間近くかかって肩に着いた。山頂まであとわずかなのだが、ここで休憩をとらずにはいられなかった。足が動かない。落ち着きを取り戻し、荷物を肩に置いて山頂を往復する。黒部五郎岳到着十二時十分。あいにくと雲がでてきたが、高雲りなので、槍ヶ岳や穂高が更に近くに見える。写真を撮り、肩に戻る。
       黒部五郎岳山頂
     アルプスの名のある山を数えたらきりなし我が立つ黒部五郎岳の上
     わが妻と黒部の奥山踏みきたりいますがすがし夏の風ふく

 裕子が比較的元気なので安心しているが、私の荷物は二十五キロほどあり、急な登りで一気に足にきてしまったらしいが、その程度で弱るとは情けない。いよいよカールへの道を下って黒部五郎の小屋をめざす。今日もテントであるから早く着いてゆっくりしたいと思った。カールの底への道は足場もけっしてよくないが、お花畑があちこちにあり、小川がながれ、なんとも言えない不思議な雰囲気がある。足の裏が痛くて、途中小さな沢で休息し、水に足を漬けて痛みをとった。そして美味しい雪解けの水を思い切り飲んだ。
     
     黒部五郎岳のカールに雪解けの水を口にふくめばわれ蘇る
     谷底のお花畑にわたる風さやさやとして妻微笑んでいる

 私と逆行してきた柳瀬留治は、このカールで道に迷う。
       黒部五郎より谷に踏み迷う                  柳瀬留治
     黒部谷に臨む平あり岩めぐり水の流れて花咲きみだる
     迷い入りここに死なせば白骨と晒るるも遂に人知らざらむ

 たしかに、ここで道を踏み外して迷えば、永遠に出てこれないかもしれぬ。そんな思いをさせる雰囲気がある。顕著に白くちらばる岩は羊群岩というのだそうだ。緑と白い岩とコバイケソウの花畑は幻想的な世界を造り出している。
 カールから一時間半ほどかかって黒部五郎小舎に着いた。この道も気分的には長い道程のように思えた。小舎の回りは草原で池塘が点在している。テント場は小屋の近くにあり、なにかと便利であった。
 あの二人づれの女性は夜七時ごろ小屋に着いた。彼女らが到着すると同時に小屋の人が慌ただしく出ていった。何事かと聞くと、老人が一人まだ帰って来ないのだという。黒部五郎岳へ小屋から日帰りで出かけたのに、夜になってももどって来ないのだそうだ。そういえば、カールへ下る途中で一人で登ってくる年配の男性に出会ったことを思いだした。もしかしてあの人かしらと思った。小屋でポカリスエットと牛乳を飲んだ。
 翌日分かったことだが、その老人は途中で寝てしまったのだそうで、それでも無事山小屋の人に探し出されて事なきをえたということであった。    
 今夜も早く寝ることにしてシュラフに潜りこんだ。

8・18(火) 7:30 黒部五郎小捨 8:30~8:40 2600m 9:10~9:20 三俣山荘分岐 10:10~10:30 三俣蓮華岳           11:45 双六岳分岐 12:15 お花畑 12:50~13:10 交差点 13:20双六小屋
      
 八月十七日。天気は曇り。雨の降りそうな気配である。雲が厚く空を覆っている。明け方は肌寒い。今日は双六小屋までなので、気分的にものんびりしている。
 午前七時半にテント場を出発。三俣山荘へ向かう。
稜線にでるまでの登りはかなりきつい。高まるたびに振り替えると黒部五郎岳のカールの広がりが一望となり、緑の濃い庭園を懐にかかえた黒部五郎岳が、すっきりとした形で大きく美しいのだ。昨日、あの登りの辛さをようがんばったもんだと自分を慰める。三俣蓮華から見た黒部五郎岳はほんとに美しい。高度を上げるにつれて雲ノ平山荘が広い原の中央にぽつんと見える。雲の平と黒部五郎岳の間には深く黒部の源流が流れて、薬師沢に向かい深く切れ込んでいるのがわかる。太郎平から薬師沢におりてまた雲の平に登りかえすコースが手に取るようにわかる。かなりきつい道に思えた。しかし、必ず尋ねてみようと思っている。
ガスがでてくる。三俣山荘分岐で山荘への道を見送って三俣蓮華の山頂をめざす。十時十分
山頂に到着。山頂はガス、霧雨。しかし展望は得られた。立山、劒は雲の中だが、薬師岳、雲の平、水晶岳の頂にはガスがあり、鷲羽岳、三俣山荘の赤い屋根が見える。三俣山荘はその存続をめぐって営林署ともめているそうなのだが、国はあまり理不尽なことを言わないほうがよい。なによりもこれから目指す笠ヶ岳の端正な姿が私達を喜ばせた。もちろん槍ヶ岳・穂高岳はいうまでもない。ここは北アルプスのヘソの位置だ。
                まなか
      妻もにて北アルプスの真中いの三俣蓮華の頂にたつ
      見晴るかす北アルプスの山々を間近に見れば親しみもまし

 窪田空補が赤岳(今のワリモ岳か)の雷鳥の歌を八首残したが、この北アルプスのヘソの位置での歌がないのはまったくもって残念だ。詠われた場所は違うかもしれないが、歌の境地としてはまったく同じものとして次の歌をあげておく。この黒部の山がどこの山を指すのかはさだかではないし、どこで詠まれたかもさだかではないが、心境はその通りである。

      目にせまる雪の黒部の山高しはるけくも来つるわが身を思ふ  藤原染子
 ここから先は、双六岳の稜線づたいにではなく、お花畑のある双六岳のカールの道を歩く。正直稜線づたいの道を間違えたてしまったのだが、あとで分かった。それでも裏銀座の稜線とカールの底はきれいなお花畑があり、気楽に歩いた。裕子も疲れた風もなくにこやかである。次第に天気は悪くなり、ガスが濃くなる。穂高連峰の岩肌が雲の間から見えてくるが、槍ヶ岳は深く隠されている。硫黄尾根が赤茶けた地肌を露にして西鎌尾根から東に伸びて湯俣に落ちてゆく。この尾根こそ私の所属した山岳会の友が、冬に遭難したところで、赤岳、硫黄岳の稜線はひときわ赤みをおびて寒々として見えた。

      霧の間に赤嶽の骨赤ければ険しき岩に足をとどめぬ      柳瀬留治

 妻に私が二十歳そこそこのころの悲しい思い出の場所を指さして教えた。

      雲低く覆い隠せる槍ヶ岳硫黄の尾根はやけに赤らぐ

 午後一時二十分に双六小屋に到着。今日はここまで。小屋の前のテーブルで休息。遅い昼食をつくる。ラールンとパン。小屋でリンゴジュースとコーラを買う。
テント場は小屋からかなり離れた下の開けた台地にある。早い時間の到着したのでよい場所を探し、テントを張った。幕営もなれてすばやくできた。あとは休むだけである。テントの場合、小屋と違い、二人きりなので時間をもてあます。コーヒーを沸かしたりして時を稼ぐ。雨の心配もしたがそれほどのことはなく、やがて夕闇のせまるころ、早い夕食の支度をし、明日も早いので寝ることにする。

      天幕に灯す明りは小さくもほのぼのとしてあたたかないろ夢のなか

2010-12-14 : 山靴の夢・二人で歩いた山(紀行文) : コメント : 0 : トラックバック : 0 Pagetop
黒部五郎岳と短歌・柳瀬留治のこと黒部五郎岳と短歌・柳瀬留治のこと

 『黒部五郎岳』は人名ではないと、深田久弥は冒頭に断って、「ゴーロ」とは山中の岩のことで、それに当てた字が「五郎」となったという。野口五郎岳と区別するために黒部五郎岳となった。その両方の山とも、黒部川の源流深くに位置する山であり、長年の憧れの山であ
た。しかし、その山深さの故に、短歌の世界ではほとんど詠われることがない。黒部五郎岳について言えば、歌人柳瀬留治の歌集「立」
に頼るしかない。この歌人は富山の人で戦前昭和八年から十七年にかけて北アルプスを歩き、それを歌集『立山』にまとめている。この
歌集がないと、「百名山の短歌」は完成しない。来島靖生『歌人の山』の鹿島槍ヶ岳の項でふれている。窪田空穂に師事して唄を詠み、歌
集『立山』の序に空穂は「歌集『立山』を読みつつ、柳瀬君はよくもこんなに山に登れたものだと、登山好きとは知りながらも今更のように感心した」と驚嘆するほどに、登山だけの歌集であり、現在までもこのような歌集はないのではないだろうか。そして黒部五郎岳についての歌はこの歌集でしか見つけられていない。それも黒部五郎岳そのものを詠ってはいないのが残念である。
 私が手に入れた昭和十六年発行の『日本アルプスの旅』にも、黒部五郎岳へのコース案内記事はない。しかし、地図には黒部五郎岳(中ノ俣岳)と記載されており、黒部五郎小屋もすでに建っている。裏銀座のコース紹介はあるが、この黒部五郎岳と雲の平は扱われていない。それほど深い山であったと言うことだろう。柳瀬の師匠である窪田空穂が大正十一年にこの裏銀座コースを縦走しているのだが、槍ヶ岳にのみ集中していて、多分三俣蓮華や鷲羽岳から遠望したであろう黒部五郎岳や笠ヶ岳、はたまた水晶岳を詠っていないのが悔まれる。このことはまた別のところで触れる。いずれにせよ、現代の歌人でも黒部五郎岳を登っている人は少ないだろう。それと同じような山が百名山のなかにはある。この山が世にしられたのも明治四十三年以降のことというから、比較的新しい。それでも山頂には「中之俣白山神社」の祭神が祀られていたというから驚く。
 この山は三俣蓮華の登山路から眺めるとじつに雄大な山である。その大きいカールも広々として美しい。
 柳瀬留治は昭和九年八月十一日より十七日にかけて、槍ヶ岳から立山への縦走を行ない、四十九首の唄を詠んでいる。島々から上高地高知を経て一日目で槍ヶ岳の殺生小屋まで行っている。一応すでに島々から上高地までバスが運転されていた(昭和十六年の「日本アルプスの旅」によれば二時間十分の所用時間でバスの利用が記載されている)。殺生小屋に風呂が沸いていという。そして二日目は西鎌尾根で登山者と行き違いながら、双六から黒部五郎小屋に至り宿泊している。

     ご苦労様どちらからといひお大事にといふは山に逢う情の極みか   柳瀬留治       

昔から、山で行き合う人と挨拶するのは当然のことだが、本当に登山はこの時代から盛んであったのだろうとつくづく思うのだ。

     黒部五郎の小屋の主は越中の訛りなるゆえ一夜語り(蘆くらの佐伯九郎と呼ぶ者なり) 柳瀬留治
 爐に大きとねをばくめつ黒部川ゆ釣り来し岩魚焼くきてくるるも          〃

こうして黒部五郎小屋の一夜が明ける。

     薬師岳に朝日照り初め黒部五郎の暁はつめたし口すすぐ水     柳瀬留治 

と唄がつづくが、この一首をしても黒部五郎岳そのものを詠っててはいないが、残念ながら、この歌しか見当たらない。改めて探したい。この山へは行ってみないとそのよさがわからないかもしれない。しかしまた、行くのがとても大変な山であるのだ。