1953年秀吉の側近で名護屋城の普請や朝鮮進攻の後方支援にあたった「寺沢広高」はこの地に封じられ、1602年より唐津城の築城を開始し、1608年に完成しました。
建設にあたっては廃城となった名護屋城の建材が使われました。
1.初代城主「寺沢広高」
「寺沢広高」は城下の河口を大改造し、新田開発のために東に延びる砂州に黒松の植林(現在の虹の松原)を行い、漁業振興のために紀州より漁夫を雇い入れ捕鯨を導入しました。
しかし、善政もむなしく広高の子「堅高」は島原の乱での失態で失脚し、寺沢家は2代で改易となりその後、御家断絶となりました。
一時天領となりましたが、以後譜代大名5家が入れ替わりました。
2.第二代城主「大久保忠職」
1649年播磨の国明石城主「大久保忠職」が城主となりましたが、1678年には下総国佐倉城に転出しました。
3.第三代城主「松平乗久」
1678年下総国佐倉より「大給松平乗久(おぎゅうまつだいらのりひさ」が入城しましたが、
1691年には志摩国鳥羽城へ転出しました。
4.第四代城主「土井利益」
同年志摩国鳥羽より「土井利益」が入城。
1762年には下総国古河城に転出しました。
5.第五代城主「水野忠任」
同年、三河国岡崎城より「水野忠任」入城しました。
1817年に「水野忠邦」の代には遠江国浜松城に転出を希望しました。
「4代水野忠邦」は江戸幕府老中時代に天保の改革を行いました。
6.第六代城主「小笠原長昌」
後任は陸奥棚倉城より小笠原長昌が城主となり明治維新まで居城としました。
歴代譜代大名が藩主となりましたが、幕府は唐津藩を長崎の監視役として重視していたとされます。
7.石垣修復
現在石垣の大修理が行われています。
撮影:CANON EOS RP + RF24-105mm F4-7.1 IS STM
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