だいちさん今晩は。
8月も下旬となりました。貴方は確か空港にて飛行機の離着陸の様をご覧になるのがお好きだったと記憶しています。丁度私や我が甥が、鉄道駅にて列車の発着を飽かず眺めるのと似た様な心理かなとふと思います。前置きはこれにて。
かなり以前、私がまだ大學にいた頃、ある恩師の著した教科書の冒頭に、極東国際軍事裁判、所謂東京裁判を取上げた記述がありました。
終戦直後、1946=昭和21年春より1948=同23年暮れにかけて審理が行われた同裁判は、一方で問題の多いものだった様ですね。
戦時国際法においても本来は許されていない所謂「事後法」が裁判の根拠に用いられ(「平和に対する罪」並びに「人道に対する罪」)、罪刑法定主義の原則に反し、弁護側の申請した証拠の多くが却下されるなど、どちらかと言えば戦勝国による「勝者による報復裁判」の色彩が濃かったと記憶しています。
そんな中で、被告となった我国指導層の減刑に向け奔走して下さったのがインドの法学者、R・B・パール博士(故人)でしたよね。
審理にも判事としてご参加の同博士は東京裁判の報復的側面を指弾、確かに我国の側にも国際法違反の点はあるものの、原爆使用など同様の罪責を負う合衆国などが我国を裁くのは不当との見解をお示しになり、絞首刑となった東條英機さん、広田弘毅さん等A級戦争犯罪人7名全員の無罪を主張なさったと記憶しています。
まあパール博士の主張とは別に、その判決はかなりきわどいものだった様ですね。
例えば東條さんの主な罪責は日米開戦だった訳ですが、この開戦については前任の近衛文麿内閣の時の既定方針であり、問題にされるならば同内閣の能力についてでしょう。又広田さんは7名中唯一の文民。極刑判決は判事11名中何と6名の賛成で決定と言う疑問符のつくものでした。
又、極刑ではありませんが、戦後外務大臣も勤めた重光 葵さんに対しては合衆国の無罪方針に対し、ノモンハン事件での同氏の対応に恨みを持つソ連邦の強い圧力により有罪になったとの話も聞いております。
1951=昭和26年、我国はサンフランシスコ講和条約に調印、翌年独立を回復して以後戦後発展の道を走る事になります。この条約の第11条に東京裁判の無条件受け入れの項目があり、この事が東京裁判の検証や見直しに反対する勢力の論拠として利用されている様です。有力な1人が何と評論家の立花 隆さん。同氏は前述の講和に際し、東京裁判の無条件受け入れは未来に向かっても覆せないとのご見解を示し、これまで同氏に敬意を示していた私を唖然とさせました。
国際法規や条約には詳しくない私ですが、本当にそんなに厳格なものなのでしょうか。もし、本当は見直し可能であり「見直しはさせたくない」のが理由であるとすれば、同氏の主張は暴論の謗りを免れないと思いますね。
又、この裁判への一連の疑義は1978=昭和53年に決定されたA級戦争犯罪人とされた7名の各位が「昭和殉難者」として靖国神社に合祀される根拠ともなりました。
サンフランシスコ講和条約に於ける「東京裁判無条件受け入れ」は永遠不動のものではなく、時代に応じて見直されるべきと私は信じます。そして、この裁判は絶対に、日本人司法関係者をも交えた関係各位によって、再審されるべきです。
今回の終わりに、前出のR・B・パール博士のお言葉を引用させて頂き、とりあえずの結びにさせて頂きます。
「時が、熱狂と偏見を和らげた暁には
又、理性が虚偽からその仮面を
剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
その所を変える事を要求するだろう」。*(日本)*
8月も下旬となりました。貴方は確か空港にて飛行機の離着陸の様をご覧になるのがお好きだったと記憶しています。丁度私や我が甥が、鉄道駅にて列車の発着を飽かず眺めるのと似た様な心理かなとふと思います。前置きはこれにて。
かなり以前、私がまだ大學にいた頃、ある恩師の著した教科書の冒頭に、極東国際軍事裁判、所謂東京裁判を取上げた記述がありました。
終戦直後、1946=昭和21年春より1948=同23年暮れにかけて審理が行われた同裁判は、一方で問題の多いものだった様ですね。
戦時国際法においても本来は許されていない所謂「事後法」が裁判の根拠に用いられ(「平和に対する罪」並びに「人道に対する罪」)、罪刑法定主義の原則に反し、弁護側の申請した証拠の多くが却下されるなど、どちらかと言えば戦勝国による「勝者による報復裁判」の色彩が濃かったと記憶しています。
そんな中で、被告となった我国指導層の減刑に向け奔走して下さったのがインドの法学者、R・B・パール博士(故人)でしたよね。
審理にも判事としてご参加の同博士は東京裁判の報復的側面を指弾、確かに我国の側にも国際法違反の点はあるものの、原爆使用など同様の罪責を負う合衆国などが我国を裁くのは不当との見解をお示しになり、絞首刑となった東條英機さん、広田弘毅さん等A級戦争犯罪人7名全員の無罪を主張なさったと記憶しています。
まあパール博士の主張とは別に、その判決はかなりきわどいものだった様ですね。
例えば東條さんの主な罪責は日米開戦だった訳ですが、この開戦については前任の近衛文麿内閣の時の既定方針であり、問題にされるならば同内閣の能力についてでしょう。又広田さんは7名中唯一の文民。極刑判決は判事11名中何と6名の賛成で決定と言う疑問符のつくものでした。
又、極刑ではありませんが、戦後外務大臣も勤めた重光 葵さんに対しては合衆国の無罪方針に対し、ノモンハン事件での同氏の対応に恨みを持つソ連邦の強い圧力により有罪になったとの話も聞いております。
1951=昭和26年、我国はサンフランシスコ講和条約に調印、翌年独立を回復して以後戦後発展の道を走る事になります。この条約の第11条に東京裁判の無条件受け入れの項目があり、この事が東京裁判の検証や見直しに反対する勢力の論拠として利用されている様です。有力な1人が何と評論家の立花 隆さん。同氏は前述の講和に際し、東京裁判の無条件受け入れは未来に向かっても覆せないとのご見解を示し、これまで同氏に敬意を示していた私を唖然とさせました。
国際法規や条約には詳しくない私ですが、本当にそんなに厳格なものなのでしょうか。もし、本当は見直し可能であり「見直しはさせたくない」のが理由であるとすれば、同氏の主張は暴論の謗りを免れないと思いますね。
又、この裁判への一連の疑義は1978=昭和53年に決定されたA級戦争犯罪人とされた7名の各位が「昭和殉難者」として靖国神社に合祀される根拠ともなりました。
サンフランシスコ講和条約に於ける「東京裁判無条件受け入れ」は永遠不動のものではなく、時代に応じて見直されるべきと私は信じます。そして、この裁判は絶対に、日本人司法関係者をも交えた関係各位によって、再審されるべきです。
今回の終わりに、前出のR・B・パール博士のお言葉を引用させて頂き、とりあえずの結びにさせて頂きます。
「時が、熱狂と偏見を和らげた暁には
又、理性が虚偽からその仮面を
剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
その所を変える事を要求するだろう」。*(日本)*