2011年11月26日(土)
阿波影氏よりメールが着信。メッセージは<武士(もののふ)参集せよ!>です。この檄文に応える為、我らJ南高校映画部OB会の面々が各自夜明け前に家を出て集まります。目的地は<関ヶ原>。毎年恒例のJ南高校映画OB会旅行ですが、今回は関ヶ原古戦場跡サイクリングツアーという事で、各自自慢の折りたたみ自転車を持ち込んでいます。神戸で岡山か ら来た金目校長のハイエースに車を乗り越え名神高速を東へと向かいます。関ヶ原ICを11時前に下り、まずは、関ヶ原町民俗資料館に立ち寄ってもらいます。今回の参加者で唯一、自前の自転車を持ち込めなかった私が、レンタサイクルを借りられるようにとの配慮で、ここを起点に東西武将の陣跡を観て廻ります。私が民俗資料館内で手続きをしている間、各自自分の愛馬?(自転車)の準備をします。各自準備が整い、いよいよ出発となります。
このツアーに参戦するのは【コード名】以下、阿波影氏、金目校長、人間ミサイル各先輩と私こと依頼人、そしてこのツアーのキーとなる後輩の江戸紫褒太郎氏の5名です。
【第壱の跡】決戦地跡
戦国史に詳 しい江戸紫褒太郎氏の先導で北東方向にある、田んぼの中の小さな丘を目指します。大きな旗と決戦地と刻まれた石碑が立っています。ここは関ヶ原の闘い最終局面で、劣勢となった三成の首を狙おうとする東軍諸隊との激しい闘いが繰り広げられた場所だといいます。今の光景からは、そんな血なまぐさい事があった場所とは思えませんが、各自、遥か昔のその決戦の刻に思いを巡らせています。
【第弐の跡】石田三成の陣跡
すぐ北側に見える笹尾山の中腹に石田三成の陣があります。ひと足早く関ヶ原に到着した三成が付近を一望出来る有利な場所に陣を設けた事が良くわかります。布陣だけを見れば西軍が有利な事が現地を見てよく判るといった感じです・・・。
【第参の跡】島津義弘陣跡
笹尾山から南に下り、自転車で走るには打ってつけな細い道を走り始めると、林の中に島津義弘陣跡が静かに佇んでいます。西軍の敗色が濃厚な中、島津義弘は東軍の度肝を抜く<敵中突破>を行います。撤退時に、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという<捨て奸>と呼ばれる戦法を採り、敵側にも大きな損害を与えました。もちろん自軍の損害はすさまじく撤退時300人いた兵で薩摩に戻れたのは80人程度だといいます。これにより薩摩の強さを家康に見せつけ、戦後処理を有利に進める事が出来、領地を安堵することが出来ました。この場合、退却戦の犠牲も無駄ではなく、ここで家康が薩摩を潰せなかった事が、270年後の倒幕へと繋がっていく・・・・この戦いでの忘れがたいエピソードとなっています。
【第四の跡】開戦地跡
島津義弘陣跡から少し西南方向に走ると、開戦地跡に出ます。いきなり時計は戻りますが、この地で福島正則が宇喜多秀家陣地に鉄砲を打込んだのが、関ヶ原の戦いの始まりでした。時に慶長五年9月15日。時刻は朝の8時頃でしょうか・・・。
【第五の跡】小西行長陣跡
開戦地跡とほぼ隣接していたのが小西行長陣跡。小西行長の名前は私が子供のころ熱心に見ていたNHK大河ドラマ<黄金の日々>で現 松本幸四郎演じる主人公の呂宋助左衛門の親友でした。小野寺昭演じる行長は文治派=良心派大名という役柄だったと思います。こんないい人(ドラマの中では)でも闘いに破れて首を打たれてしまいました・・・。ここまで西軍の陣中心に巡って来たので「西軍に勝たせてやりたかったですね・・・」と呟きます。
すると、それを聴いた金目校長が諭すように語ります。「西軍が勝っていたら、その後の日本はとんでもない事になっていたやろ?」(鎖国は無かった→キリスト教勢力増大→内乱→ヨーロッパの植民地→途上国)と言われ、<そうなのか。東軍が勝って良かったんだ・・・・。>と考えを改めます。
すると江戸紫褒太郎氏が後ろから低い声で私にささやきます。「そんな事はありません、あの当時の日本は、世界一の戦闘員と銃の数を有していました。少なくとも陸戦においては、負ける訳ありません。植民地になることは無いでしょう。」とキッパリと言われます。それを聞いて、<そうか、それなら西軍に勝たせてやりたかったな>と意見を変える頼りない自分がいました。
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