天気 晴のち曇がち
そりゃ、自分の歳を考えればおかしくない数字なれども、この身があの玉音放送後77年も生きてきた、とは呆れるとも感無量とも...
そんなに生きられるとは、思ってもみなかった。でも、B29の爆音に怯えた身が、77年後には見えないウィルスに怯えながら暮らす。
なんか、変な一生になりそう。
私は末っ子なので明治生まれの母に育てられた。中学生くらいの時、その母が言ったことが忘れられない。
「KUMIは兄妹の中で、一番幸せかもしれないね。何にもない時代から記憶が始まって、何を見ても初めてで喜べるからねえ」
例えば、大好物の頂き物の羊羮を切れば、薄くたって文句言わない。姉は「昔はもっと厚く切ってたよ」と。昔=戦前の、羊羮を家で買えた、普通に暮らしていた時代を私は知らない。戦後の皆が貧しかった時代なれども、我が家はゆえあってもっとどん底の貧乏だった。中学生の頃からようやく上向きになったのだ。
その子供時代の習慣は抜けないもの。
今も、私はご飯を食べ残すことが出来ない。おかずは不味くて仕方なく残すことはあっても、茶碗にご飯が残ってしまうと母の怒った顔が浮かんでくる。
ここのご飯の盛りの標準は、男性200g、女性150g。でも病気や本人の都合で加減出来る。最初の頃、150gにしていたらおかずを全部食べるとご飯を無理やり食べることになる。以後は100gにしてもらいすっきりした。食事と次の食事の間隔が短いので食べ過ぎ禁物。足りなければ部屋でお菓子をちょっとつまめばいい。
私の前で食べている、お育ちの良さそうなお姉さまは150gにしていて、ご飯をよく残す。なのである日「100gにも出来るのよ」と提案したら、やんわりと言われてしまった。
「自分で調整出来るからこれが気に入ってるのよ。炊き込みご飯ならたくさん食べたいし」美味しい炊き込みご飯なんて、年に数回ですよ。やはり、お育ちのよろしいお嬢様だったようで。
今日は海で亡くなった義弟の命日でもある。2ケ月後に結婚式だった。その2年前、両親が相次いで病死、まだ30歳の我々夫婦が親代わりで結納を済ませたばかりのお盆休みだった。海の事故を見聞きすると、遺族の大変さが解って困る。
ま、色々ありました、77年。
戦(いくさ)なき七十七年敗戦忌 KUMI
戦争は、軍人は加害者でも犠牲者であり‥
小父さんのお父様がエリート軍人、というのは意外でした。
ニューギニアは侵攻の一番遠い端っこですよね。
凄い苦労をされたでしょうけれど、何も話さないでしょうね。
勝っていれば悲惨だったり残酷な話も出来るかもしれませんが・・
家族を貧しくしなかった、のは、お父様の誇りだったような。
我が父は軍人ではなかったのに、それこそ訳ありで戦犯にされ‥
スマホでは文章にするスピードがパソコンの1/3以下、
ごめんなさい、コメントが中途半端で。
ここでは、認知症の人の方がしっかり食べる気がします。
あまり味に頓着しないからでしょうね。
ご主人も山羊の乳、飲まれたのですね。
私も、子供の時から病気がちで栄養補給に山羊のミルク、貰いに行きました。
小学生だったので自分で絞り、瓶に入れて、家で煮沸でした。
77年前は、やはり遠い時代ですね。研ぎ汁、田舎では使いました。
母親の栄養状態が悪くて母乳の出なかった人も多かったのです。
お義父さま、ご苦労されましたね。
確か小学校の家庭調査票?だったか親の学歴を書く欄がありましたね。
そこには父の陸軍士官学校という文字がいつも並んでいて、大阪で結婚式を挙げた時も、仲人の上司に「陸軍主計大佐」だった父と何の疑いもなく話していただきました。
結婚して家内の父からは、「私の弟は戦死したんや」と数回言われましたが、私は「そうでしたか」とさらっとか答えていました。
父は満州に赴任し、それからニューギニアの戦地で2年超ほど逃げ回っていたのか?父からは一言も聞いたことはありません。そして多数の戦死者が出た中で帰国して、疎開先の福岡の田舎で末っ子の私が生まれ、たぶん収入がゼロの時代もあったんでしょうね。
そして日露戦争にも行った祖父の福岡市の家に移り、生活できなくなったからだと想像しますが、その家を売って、私が育った農家から買った古くても大きな家に大学に通うまで暮らしていたわけです。
だからか?小中高等学校の友人の家などを見て自分の家が貧しいなんて思ったことはなかったです。
私は今でも憲法9条は改憲したくない立場ですが、戦争で亡くなられた無数の兵隊さんのことを知るにつけ、我が国の戦争に無知だった自分を恥じるとともに、生んでくれた両親への感謝との間でたぶん死ぬまで割り切れない感情もどこかでくすぶっている気がします。
末っ子の私は、何の苦労も経験せずに75歳になってしまいましたね。
感謝すべきは、神様、仏様なんでしょうか?
このような文字を書き連ねたのは、ここKUMIさんのブログが生まれて初めてです。
有難うございました。
叱られていました。
夫は終戦前の7月に生まれたので戦後〇〇年が常に
自分の歳で、実の母親は夫を生んで半年後に亡くなったのでヤギの乳で育ったそうです。
そのうちにヤギの乳も手に入らなくなってお米の研ぎ汁を飲ませたらみるみるうちに太ってきた、とウソのような話を良く義父が話していました。
私はすぐに胃が痛くなるのですが、今でも夫は胃だけはとても丈夫です。