幸福は足下に合った.

2015-05-18 04:50:52 | 日記

まだ 米の配給制度も 無かった.悪名高い物価統制令もなかった.

庶民の暮らしは それでも貧富の差はひどいものであっ.た.

三反百姓 なら まだましである.一反百姓の子沢山で 見るも無惨な暮らしをしていた.

浜辺の一角にはしらをたて 周囲をむしろで囲った家に 母方のいとこに当たる

重蔵叔父さんの家があった.『雨露を防ぐ』ただそれだけの役割しか 無かったようだ.

高潮で 浪の洗い日などは すんでいられるものではなかった.

『重蔵 おじさんたちを呼びに逝きなさい』とはは荷言われて 一家を呼んですごしていた.

長男の重己,次男の重喜は ほとんど 私といっしょに寝起きをしていた.ひとつには金が無くても

すごすのに不住の無い 温暖な気象に助けられていたのである.

投資の来たの国なんかは ひどいものであったらしい.人身売買も公然と行なわれていた.

とはいっても,白米など食べなれる家庭は少なかった.唐芋を煮干しにして「木っ端にして食べる.

毎日羊羹を食べているようなものだ.副食は大根汁朝5時ごろになると「網引きの呼び込み声

が町中に知らされる.民は 入れ物を持って 網引きに行く.

網があがると 一杯の海の幸が入っている 網もとの旦那一家の分け前を取り上げると

後は皆に分配される・.小魚あり,中には黒鯛.えび,かに,いわしなどである.

結構 貧しかったが自然の恵みにすくわれていた.

ここらあたりの人は 一旦 海神の怒りに触れること和忌み嫌っている.

宗教心が強く信心深い.助け合い 信心と感謝の暮らしを贈る.

朝な 夕なの昇る日沈む日に 深く頭わたれる.

の人達は とても明るいるつきの光の中を「ハンや節・や さのさ節など歌に踊りに

一日の無事と疲れを癒すのである

「乏しき和分かち合い 支えあう」暮らしが出来た次代である.


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