『悲しみよこんにちは』フランソワーズ・サガン/河野万里子 訳(新潮文庫)
7月なかばに読書会のテーマ「夏休み」のため新訳を購入し再読。前に読んだのは朝吹登水子訳で、私は19歳くらいだった。
あらすじ:17歳の美少女セシルは、南フランスの海辺で父親(妻は他界)とその恋人とともに夏のヴァカンスを過ごす。そこに、母の旧友である女性アンヌが合流。セシルはセンスがよく聡明なアンヌを心から敬愛していたが、同時にその存在はヴァカンスが気楽なものではなくなることを意味していた。やがて、父親の心は若い恋人から大人の気品を持つアンヌへと移ってしまい……。
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まずパパ(40歳)のプレイボーイぶりがひどい。
一応そのときの恋人であるエルザ(29歳)と娘の3人でバカンスにきたというのに、アンヌ(42歳)をその別荘に招待する神経がおかしくない?ところが、このパパがやるとなんでもないことのような雰囲気にされ、何故か納得させられてしまうのだ。
最初に「なんだコイツ」となったのは、アンヌが到着した翌朝の場面。アンヌがセシルに朝食をちゃんと食べろと説教しているとき、パパは「おしゃれな水玉模様のガウン」を着て現れ、
「すてきな眺めだ。ふたりのブルネットのお嬢さんが、太陽の下でパンの話をしている」
と能天気なことを言う。けっこうピリついた緊張感のある場面だったのが一気にうやむやになったのだが、わざとやってんだか天然なんだかわからない。
しかも、4人で夜遊びにでかけたカンヌで、パパとアンヌはふたりで車で「先に帰る」と言い出す。置き去りにした恋人エルザに、それを告げる役目を娘に押し付ける始末だ。彼らは人の気持が本当にわからないのか、自分の気持以外は重要じゃないと思っているのか。誰かが傷つくことも恋愛の楽しみのうちの一つと思っているふしさえ感じてしまった。とくにパパ。
後にセシルは、父親とアンヌを別れさせるためにある計略をめぐらすのだが、その内容はけっこう不遜で稚拙なものだ。しかし、このパパはあらゆる意味でちょろ過ぎだった。セシル親子とアンヌの感覚はけっこうズレているため、価値観の対立が重大な結果をもたらした悲劇のようにも思えた。
紺碧の海が広がる自然描写の美しさや、セシルが語る心理描写などが巧みでこまやかなため読み応えがある。観念的な思考のなかでぼんやり享楽的に生きてきたと自覚するセシルが、むき出しの感情に衝撃を受ける場面は、大人への転換点だったかもしれない。