はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

評価軸もさまざま

2015年02月05日 | はなこ的考察―良いこと探し


 昨日、レディースデイを利用して、 (日本人俳優が多数出演しているが歴とした)台湾映画『KANO 1931 海の向こうの甲子園』を見て来た。

 これは、日本統治下の台湾・南部の弱小高校野球部が、ある日本人監督との出会いにより、劇的な成長を遂げて台湾代表として甲子園へ赴き、一大旋風を巻き起こした実話に基づく映画だ。

 Yahoo映画では現在、サイトユーザーから平均値で4.65ポイント(5点満点)と言う高い評価を得ている。ユーザーレビューを見ると、軒並み5ポイントの満点評価が付いている中で、たまに1ポイントや2ポイントと言う低評価も見られる。極端な低評価は何が原因なのだろうと読んでみると、例えば選手の成長過程の描き方が薄っぺらい、無駄な描写が多過ぎて長過ぎる(なんと上映時間はbikkuri3時間5分もある!)など、ドラマツルギーの拙さに言及したものが多い。

 4年前の東日本大震災における台湾の国を挙げての巨額の支援や、WBCで見せたフェアプレイ精神、さらに本作全体を覆う日本&日本人礼讃のムードは、ここ数年のギクシャクした中韓関係にうんざりしている日本人から見れば面映ゆいほど心地良く、同じ近隣国ながら、日本に敵対心剥きだしの中韓に比べて、概ね親日的な台湾への相対的評価が高いものになるのは必然と言える。そのせいか、高評価を与えている人々のレビューは些か情緒的で、映画作品としての評価に大甘なところがあるのは否めない。

 とは言え、本作の高評価の背景には、作品としての完成度以外の別の評価軸の存在も見えるのだ。つまり、日本人の台湾人に対する贔屓目を差し引いても、本作には作品としての拙さを超えて人々の心に訴えかけるものがあった、と言うことではないのか?

 そこで、ひとつ思い出したことがある。先日見た『アナザースカイ』と言う番組での、歌手・中島美嘉の発言である。

 希代のファッショニスタであり(プロも絶賛のぶっ飛んだファッション・センス)、常にクール・ビューティな佇まいで、何となく近づき難い、謎めいた雰囲気を持った彼女。そんな彼女が、番組MC今田耕司の卓越したコミュニケーション能力の賜物か(今田氏は相手の懐に飛び込むのが上手く、誰もがその"今田マジック"で胸襟を開かずにはいられない)、番組では胸の内を赤裸々に明かした。

 「昔から、自分の歌は上手いとは思えない。自分の歌には自信がなかった。その代わり、"伝える"自信はあった。」

 彼女は「完治は難しい」と医者に宣告された耳の病によって歌が思うように歌えなくなり、2010年、逃げるようにNYへと旅立った。しかし、逃避先のNYで彼女が見たものは、「この先も病からは逃れられない」と言う現実だった。そして、歌手としては致命的な病を得てもなお、何かを発信しようとしている自分がいることに気付く。

 彼女は「1曲の歌には人を救う力がある」と信じている。この信念は何があろうと揺るがない、と言う。だからこそ、自分の心からの思いをファンに届けたいと、彼女は再びステージへと返り咲いたのだった。

 それまで公けにして来なかったであろう、自身の数年間の苦悩をひとしきり吐露した彼女は吹っ切れた表情を見せ、その目は真っ直ぐに未来を見据えているように見えた。直後のナレーションは、そんな彼女を「歌姫から表現者へ」と言う言葉で表現した。

 確かに彼女より歌唱力に勝る歌手は幾らでもいるのだろう。しかし、"唯一無二の表現者としての彼女"に代わる者はいない。ファンは"彼女の"歌が聴きたいのだ。

 映画人にしても、歌手にしても、画家・彫刻家・演奏家と言ったアーティストにしても、彼らは等しく「表現者」である(というよりアーティスト=表現者なんだろうか?)。各々に、人々へ伝えたい、訴えかけたいものがあり、それを伝える、訴えかける手段が違うだけだ。

 伝えたいものを人々に届けるためには、当然ながら伝えるための技術が必要である。しかし、技術もまた万能ではないのだ。技術だけ磨いてもダメなのだ。そこで息詰まっている表現者は、この世の中に大勢いるような気がする(最近では、ディズニーアニメ『アナ雪』の日本語版主題歌を巡る女優・松たか子と歌手・May.Jの優劣騒動?が記憶に新しい)

 
 優れた表現者は、その技術の稚拙さを超えて、自分の思いを、伝えたいものを、人々の"心"に届けることが出来るのだろう。その届いた思いが、人々を感動させる。そして、それが表現者の究極的に目指すところであり、最も難しいことでもある。もし、そうでないと言うならば、あらゆる表現活動は、表現者の単なる自己満足でしかない。

 その意味で、映画『KANO』の映画としての完成度はともかく、制作陣が映画を通して伝えたかったこと・思いは多くの人々の心に届き、映画サイトのユーザーレビューの高い評価に繋がったのではないか?

 映画の評価軸はけっしてひとつではないのだ。もちろん、賛否両論あって当然だ(多数派の意見が最大公約数的な似たり寄ったりの内容が多い中で、少数派のそれは個性的で興味深い内容が多いのも、また事実wink)

 参考までに、藤田令伊著『アート鑑賞、超入門!7つの視点』(集英社新書、2015)では、作品と鑑賞者の関係について、以下のように語っている。

 「アートとは多種多様な表現によって多種多様な価値観を発信するものなのに、見るにあたってはひとつの見方しか許されないというのでは、アートの存在意義自体が否定されかねません。

(中略)

 アート鑑賞は個人個人が主体的主観的に見て愉しめばよいものです。アート作品が作者ごとの多様な表現を披露し、多様な価値観を見る者に問うのと同じように、私達見る側もそれぞれの主観的な価値観と感受性で多様にアートを見てよいのです。

 絵や彫刻が作家にとっての「作品」であるならば、鑑賞は見る側である私たちにとっての「作品」です。「作品」である以上、一人ひとりの主体性が反映されていなければ何の意味もありません。ほかの誰でもない「私が見る」ということが大事なのです。」(p.36-37)

 最後に、数多くのユーザーレビューの中に、在日台湾人のレビューがあった。その内容が印象的で、『KANO』と言う作品が台湾で製作されたことの意味とその重みを端的に語っておられたので、以下に付記(一部抜粋)しておきます。

 「(前略)台湾は昔からいろんな国に占領された島で、他国と比べたら、国意識はそんなに強くないが、他民族の良さを客観的に観察できるところは長所です。

 世界歴史と中国歴史を勉強している台湾人は、なぜか台湾歴史はあまり勉強しなかった。そしてKANOの監督は台湾の歴史文化を台湾人に伝えたい気持ちで(筆者注:2本の)映画を作ったら、皆全部大ヒットになり、台湾意識を彼の映画によってたびたび起こし、今台湾で最も影響力を持ってる監督です。

 その監督は、近代台湾の発展は日本とつながっていると感じているでしょう。彼の今までの台湾映画は全部日本とつながっています。

 最初の映画は日本統治時代、一人の台湾の女生徒と日本人の先生との純愛ストーリーで、次の映画セデック・バレは台湾のセデック族(蕃人)は、自由を求めて台湾を侵略した日本軍に抵抗して、最後に日本軍に殺された実話の内容でした。この映画は中国でも話題になって、日本はやはりひどいなという世論が出たが、三番目の映画KANO(筆者注:実際は本作では監督ではなくプロデューサーを務めている)ができた。今回逆転して、日本人の素晴らしい先生によって日本人、漢人、蕃人という最強チームが結成し、甲子園に進出した実話の映画だった。

 映画KANOの中に台湾を愛し、台湾の農産物の研究を進んでいる日本人がいて、台湾の発展に最も大きな影響を与えた嘉南大圳も日本人が作ってくれたという内容もあった。

 要は完璧な民族はない。嫌な歴史があれば感謝すべき歴史もある。そして民族の壁を忘れ、一緒に同じ目標を持って皆それぞれの長所を発揮し一緒に仲良く頑張れば、KANOみたいな素晴らしいチームが出てくると監督がこう伝えたいのではないかと私は思っています。



 
 事程左様に映画から幅広く興味・関心が喚起され、さまざまなことについて学び、考えさせられる。これだから、何をさておいても映画鑑賞は止められない(実は先週末、左足に怪我を負い、靴を履くのも辛い状況だったのですが、その痛みを押して映画館に行ったのでしたwink単なる"映画バカ"ですね。ははは…niko)


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