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ブログのアクセス解析を見ていたら意外にも映画『敬愛なるベートーヴェン(原題:Copying Beethoven)』 のレビューへのアクセスが多かったのもあって、先日本屋のマンガ文庫コーナーでたまたま見つけた手塚治虫原作の伝記『ルードウィヒ・B』上下巻を買って読んでいたら、その中に若き日のベートーヴェンがモーツァルトに弟子入りするエピソードがあった。
ベートーヴェンとモーツァルトの意外な接点を知って驚いていたところ、偶然映画館でモーツァルト最後のオペラ作品にして最高傑作の誉れ高い『魔笛』の映画化作品の予告編を目にし、ちょうどマイレージポイントが貯まっていたのを利用して、後日”タダ”でエグゼクティブシートに座って映画版『魔笛』(←クリックすると公式サイトへ)の音楽と映像を堪能することができた。ミュージカルはまだしもオペラは敷居が高過ぎて、庶民の私は二の足を踏んでしまい未だ行ったことがない(ついでに言うと、狂言は見たことがあるけど歌舞伎は未見なのだ)。入場料が定価でも通常のオペラ観劇料の十分の一以下の値頃感、映画館の敷居の低さと言う点で、本作は私のような庶民にはうってつけのオペラ入門編と言えるのかもしれない。
資料によれば、そもそも『魔笛』はウィーンの一般庶民の聴衆を前提とした、アリアの重唱曲以外はセリフでストーリーを進行させる「ジングシュピール(歌芝居」というミュージカルの原型に近い形式らしい。そして、モーツァルトは『魔笛』の中に、イタリア・オペラのセリア(正歌劇)だけでなくウィーンの民謡や北ドイツの教会音楽の要素も取り入れるなど、当時存在した音楽語法のありったけを詰め込んだらしいのだ。その意味でも親しみやすい作品と言えるだろうか?『魔笛』は今日ではビゼーの『カルメン』と並んで最も人気のあるオペラである。オリジナルはドイツ語だが、本作は英国映画なので全編英語なせいか、歌詞・台詞が比較的スンナリ耳に入って来る。
本作に先だって1976年には、先頃亡くなった巨匠イングマール・ベルイマン監督によっても映画化されている。そこでなぜ今また、シェークスピア劇の演出で名高いケネス・ブラナーによる映画化なのか?なんだけど…
本作では、本格的なオペラ歌手陣(一部ミュージカルスターも)による声量豊かで、超絶技巧の歌唱の迫力(ザラストロと夜の女王が特に圧巻!)とCGを多用しての大掛かりな映像的仕掛けの視覚効果もさることながら、舞台をローマ帝国統治下?(出演者の名前がイタリア的だからそう思っただけです。正確には時代不詳?)のエジプトから第一次世界大戦前後のヨーロッパのとある国へと移し、劇中の夥(おびただ)しい数の墓碑銘に英国人名、日本人名(漢字で)、アラブ人名(アラビア語で)を登場させたことに、単なる名作オペラの映画化に留まらない、国際社会が抱える宗教間、民族間、そして国家間対立問題への困惑と平和の希求と言った作り手の思いが強く印象に残った―いかようにも翻案可能なオリジナル作品の”柔軟性”と”テーマの普遍性”が『魔笛』人気のヒミツだろうか?
そこに何とも言えぬタイミングでアフガンにおける韓国人拉致事件の発生、そして人質殺害である。世界を混迷に追いやる”マイナス要素”に対抗しうる人間の智慧について思いを馳せずにはいられない。どうしたら人々が憎しみ合わず、争うことなく共存共栄できるんだろうか。
それとも人類のこれ以上の繁殖は、地球の生命体としての危機をもたらすものであるからして、絶え間ない争いによる人類の淘汰は地球の自浄作用のひとつなのだろうか?…なんて悲観的な見方に囚われ心が曇ったりもする今日この頃なのだ。
映画『魔笛』より パパゲーノと擬人化した鳥達
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