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第1回:日本人と世界の人々が知っておきたい、ヒロシマ・ナガサキの「勇気の真実」ーー新改装した「広島平和記念資料館」で被爆者たちが命をかけて訴え託した世界へのメッセージを見る!

2020-08-06 | プロアスリート羽生結弦と日本の未来を応援する!

2020年8月1日: このページは、2019年の8月に初掲載したため、文中に戦後74年と書かれていますが、2020年の今年で、戦後75年となりますので、どうぞご注意・ご理解下さい。

 

期待も理想も「超えていく」ほどの意欲のある羽生選手を、その情熱を与えられた神様が、徹底的に守り通して下さいますよう、主イエス=キリストの御名でお祈りいたします!アーメン。

祝・羽生選手、Most Valuable Skater 受賞!

(…と言っても、こんな賞を狙ったわけでも何でもないですので、これ以上騒ぐ気もないですが、羽生選手が何を語ったのかは、正確に理解されるべきと思います。)

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2019年9月11日:  9.11メモリアル博物館の副館長が、「過去をどうとらえ、現代にどう提示し、未来にどう伝えるか」という課題で、リニューアルした広島平和記念資料館を訪れました。 こちらNHKニュースウォッチ9より

 

「神よ、わたしに変えることのできないものは、それをすなおに受け入れるような心の平和を、変えることのできるものは、それを変える勇気を、そして変えられるものと変えられないものとを、見分ける知恵を、このわたしにお与えください。

主イエス=キリストの御名によって。アーメン。」

(「心の平和の祈り」より)

 

 

 

8月20日: 一部に解説と、タイトル&説明を加えました。 

10か国語分の、公式リーフレット(PDF)へのリンクを追加しました!

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初掲載: 2019年8月19日

 

前回、国立広島原爆死没者追悼祈念館  (Hiroshima National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims) 

について ご紹介しましたが、

今回は、3回に分けて、最も有名な

「広島平和記念資料館」(公式ホームページ) 

 Hiroshima Peace Memorial Museum  (Official English Website)

について、主に写真で、見ていきたいと思います!

 

こちらが、広島平和記念資料館の、公式のリーフレット(日本語)(Japanese)(PDF)  

以下、各言語での、公式リーフレットです。  日本語もいれると、10か国語に翻訳されています。

英語版 (English)  (PDF)   

中国語 (中文)(Chinese) (PDF)

韓国語 ハングル 한글 (Hangul)  (PDF)

スペイン語  español (Spanish) (PDF)   MUSEO CONMEMORATIVO DE LA PAZ DE HIROSHIMA

フランス語  Le français(French) (PDF)   MUSEE  D'HIROSHIMA POUR LA PAIX

ポルトガル語  Português(Portuguese) (PDF) 

ドイツ語  Deutsch(German)  (PDF)   FRIEDENSGEDÄCHTNISMUSEUM HIROSHIMA

イタリア語  italiano(Italian) (PDF)

ロシア語  pусский(Russian) (PDF)

 

 

戦後74年目となる今年、少しでも「実相」が「伝わること」を最も重視して、リニューアルされました!!

以前有名だった「被爆の蝋(ろう)人形」は、所詮は人形で本物とは違う、ということで、撤去されたことが話題となって大議論にもなっていた広島平和記念資料館ですが、何度か行ったことのある私が見た限りでは、ですが、

今までで一番、「伝わってくる」「胸に迫る」、そんな展示になっていたと、個人的には感じました。

 

時の流れと共に、生存されている被爆者が、毎年毎年減り続け、証言者がいなくなっていく現実。

だからこそ、ねつ造でも嘘でも誤魔化しでもない、「真実」こそを確実に 伝えていかなければという、強い想い。

 

あまりにも悲惨だからこそ、証言することさえ、残酷で苦痛であったからこそ、証言出来ない人たちが多かったほどの、この「世界最悪の悲劇」に対して、日本はどう取り組んでいくのか。

 

ヒロシマもナガサキも、日本のどこの地域よりも、この点においては危機感も強く、「本気」であると、私はいつも感じています。

その「本気」の被爆地が、「今まで以上にさらに強く」「本気になった」----そんな印象を受けました。

 

その場に行かず、現実に見ることなしに、ネット上であれこれ議論しても、何にもならないと私は思います。 

 

しかし、実際には、諸事情で行けない方、動けない方、様々な方がいらっしゃると思うので、

広い広い館内の、ほんの一部の写真に過ぎませんが、少しだけでも伝わるものがあればと願い、ご紹介してみたいと思います。

 

戦争や悲劇に対して、現実感と危機感をなくし、空想でとらえ、ゲームのように簡単に思ったり、悪魔の世界を、軽い気持ちで もてはやし喜ぶような「現実感をなくした」人たちが、平気で偽りを遊びのように流布、残酷なものを喜び、ネットで簡単に洗脳されていくような現代に、

深く強く、真剣に問うてくる、紛れもない日本の歴史上の大悲劇です。

 

日本はもちろん、世界中にいる、羽生選手のファン、フィギュアスケートのファン、そして、

関係なくても、原爆と被爆の現実と真実に関心のある、ここを訪れてくださった全ての方々に、

原爆の現実と、広島だけで1945年のうちに約14万人が命を失った、原爆投下の犠牲者たちの真実が、

少しでもリアリティをもって正確に伝わるならば、幸いです…

 

 

こちらが、公式ホームページの、データベース 

「広島平和記念資料館」平和データベース

Hiroshima Peace Memorial Museum Peace Database (Official English Website)

 

 

まず、 下の写真が、1945年の7月25日に下された、「原爆投下の命令書」です。

アメリカの、国立公文書館が提供して下さった とのことです。

The order to drop the atomic bomb

July 25, 1945    Cortesy of U.S. National Archives and Records Administration

 

広島、小倉、新潟、長崎のうちのどこか一つに、最初の原爆を落とすように、との指示になっています。

 

以下の説明は、写真からそれぞれの言語で読めると良いのですが…

原爆の投下目標として、5月11日(1945年)の段階では、

京都、広島、横浜、小倉 の4都市の名前が挙げられていました。

 

 

原爆投下目標となった都市は、空襲禁止になりました。

最初の頃、検討されていた、横浜と京都が 原爆投下目標都市の候補から外れ、

広島、小倉、長崎、新潟 の4都市が、最終的に残ったのがわかります。

 

 

 

8月6日早朝に、気象観測機が 広島、小倉、長崎、の3都市に飛ばされています。

第一目標だった広島が、天候が良いとの報告が入り、

原爆を搭載した「エノラ・ゲイ」という名前のB-29と、科学観測機、写真撮影機、

の3つの「B‐29」が、広島に、そして原爆投下に至ったことがわかります…

 

 

 

 

下の写真は、「原爆の模擬爆弾の投下場所」

実験のため、「パンプキン」という名の 原爆の「模擬爆弾」(もぎばくだん)が試しに投下された、日本の各地を印した地図です。

模擬爆弾によっても、なんと1600人以上の死傷者が出ました。

1945年(昭和20年)の7月20日から8月14日までの間に、日本の全国各地に、49発が投下されています。

Locations Where A-bomb Practice Bombs Were Dropped

Between July 20 and August 14, 1945, 45 A-bomb practice bombs " pumpkins" were dropped, killing or injuring more than 1,600 people.

白いミサイルの絵が、パンプキンという模擬原爆が投下された場所、

そして赤い丸印が、上の、7月25日に出されたという、「原爆投下命令書」で、「目標都市」と指定されていた4都市です。

広島(8月6日に実際に投下)、小倉(8月9日に投下しようとするも、天候不良で視界不良につき、急きょ取りやめ)、

そして長崎(8月9日に実際に投下)、

 

最後にもう一つ、新潟は投下目標都市として指定されていましたが、実行されませんでした。

 

下の写真は、1945年当時の、広島市内の主要な軍事施設の場所を印した 地図です。

広島市は、日本陸軍のかなりの重要な軍事施設を多数、有していました。

 

下の説明文は、当時、広島市が日本陸軍の重要施設が多数あり、隣の呉市(くれし)が日本海軍の拠点の一つであって、

広島県が 陸海軍の重要施設を要する「軍事県」であったと、述べています。

広島市が「軍都たる本市」と自覚し、そう表現していたことがわかります。

戦後最初の広島市長となった木原市長が、1945年の12月に「平和の都市」として発展していくことを決意表明したそうですが、

被爆前の広島市は、「軍都」であることを誇りとしていたそうです。 それもまた、歴史の一面…

「軍」といっても、大勢の一般市民が動員されていたため、膨大な数の人たちが犠牲となりました。

 

原爆投下後は、高熱火災が広がって、下のような光景になっていたという、

生き延びた被爆者の方が、証言しつつ、後世に伝えるために 絵に描いた作品です。 

言葉にできない、ものすごい絵ですね…

 

この絵には、次のような説明がついていました。

「激しい炎が街と人々を飲み込み、一日中燃え続けました。

倒れた建物の下敷きとなった人々の多くが、這い出ることもできず、生きたまま炎に焼かれました。」

「An intense fire swallowed the city and its people, it burned all day long.

Those unable to crawl out from under collapsed buildings were burned alive.」

 

 

 

下の写真は、「血を吐きながら亡くなった弟」というタイトルの、

被爆して、鼻や口から血を吐きながら亡くなったという、作者(山下正人さん)の弟さんの絵を描いた 絵です。

"My younger brother died vomiting blood."  Masato Yamashita    August 31, 1945

上に載っている説明文を、下に転記します。

「作者の弟の山下伍さん(当時20歳)は、建物疎開の作業中に被爆しました。

一時は歩けるまで元気になりましたが、

8月25日ごろから鼻血が出て髪の毛が抜け、体中に赤い斑点ができました。

8月31日に、血を吐きながら亡くなりました。 意識は確かなままでした。」

"Atsumu Yamashita (20), younger brother of Masato who drew this picture, was demolishing buildings when the bomb exploded. He recovered from his injuries enough to walk, but around August 25, he began bleeding from the nose.

His hair began falling out, and blood spots appeared all over his body. He died vomiting blood on August 31.

He was conscious and lucid till the end."

 

 

 

以下は、説明つきの絵や、写真です。

絵は全て、被爆者で、生き残った方々が、自分の見た記憶の通りを、描いて下さっています。

見るのも辛いですが、描く方は、現実そのものを目にしていたわけですから、もっと苦しくて辛いと思いますが、

この悲劇を繰り返さないため、後世に伝えるために、必死の思いで、描かれたものばかりです。

その想いは、想像・理解しておきたいですね…

 

「赤、青、紫色に変色した死体」  8月8日(1945年) 木原敏子 作

"Corpses turned red, blue, and purple"  August 8,1945     Drawn by Toshiko Kihara

 

上の絵の中に、この光景を目撃して、絵を描いた作者による、説明が書いてあります。

 

「満潮になると、死体は漂い、干潮になると、大きく2倍にも3倍にもふくれた。

赤や青や紫色に変色した死体が、転々と転がっていた。

男か女か、それもわからず…」

「ちょうど鬼みたいなので、赤鬼青鬼といっていた。

恐ろしい… 悲しい… 悪夢のような情景だ。

本当にかわいそうなことだった。」

 

 

 

「川面に浮かぶ死体」  中野健一  作      爆心地から1,300 メートル

"Corpses floating on the river"        Drawn by  Kenichi Nakano

 

Early morning of August 7th,1945  (The next morning of the Atomic Bombing)

1,300 m from the hypocenter

 

 

原爆投下の翌朝、8月7日の早朝に、この絵を描いた作者が目撃した光景です。

横川橋下 上流 というタイトルです。

 

「わたしは生まれて初めてこんな姿を見たので、胸のつまる想いで思わず土手にひざまずき、合掌しました。(※合掌=手を合わせて祈ること)

爆風で飛ばされた人、また、熱気に耐えられず 自ら(川に)飛び込んで水死した人など

市内の各川面には、いたるところ、たくさんの人々が こんな姿で死んでいきました。 合掌 」

 

と書かれています。

 

 

「防火用水で 生き絶えた人々」

爆心地から1,300メートル     小野木明  作

 "People dead in a fire cistern"

1,300 m  from the hypocenter   Drawn by Akira Onogi

 

 

上の衝撃的な絵は、「場所 天満町(てんまちょう)電車通り 」 という説明で、以下のように書かれています。

「人々は水を求めて 防火用水にむらがった。

水を飲むと、そのままガックリと息絶えた。

(水)槽内に浮かんでいた 年若い妊婦の死体

赤絵の具を塗るに 胸が痛む」  

 

…と、この絵を描くとき、赤い絵の具を使うことが辛かったことを吐露されています。

 

以下は、展示されていた絵や写真についていた、日本語と英語の短い説明文のパネルです。。

写真に撮っただけですが、日本語と英語の説明文から、少しでも伝わるものがあれば…

 

 

 

 

 

 

 

次は、被爆関係についての、詳しい説明が書かれているコーナーです。

 

このページは、ここでいったん終えます。

 

今後UPする予定でいる

第2回、のページに、続きます。

 

 

平和を求める祈り

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。

 

人々の身代わりとなって罪を背負い、愛によって赦しを与える、

唯一の神であり 真の救世主、主イエス=キリストの御名によって。アーメン。

 

羽生選手と同じ、イエス=キリストを主と信じる心のある方は、お祈りいただけますと幸いです。

 

※ 注釈 :  

ここでいう「ゆるし」とは、決して、酷いことをした相手の悪行を肯定したり、残虐行為を受け入れたりしなければならない、などという意味ではありません。

自分がその怒りや悲しみや恨みに囚われ続け、苦しめられ続けることを拒否し、それらとは自分の人生や心をもう切り離して、そのことの裁定は天の神様に全て委ねて、

恨みや怒りの中に生き続けることを拒否すること、その選択をする「決断の心」を意味します。

傷が深ければ深いほど、人間の力や思いでは、到底不可能となる この「ゆるし」は、

その「ゆるすという決断」をすると、その「選択をした決断」を神様がご覧になり、そこに本当の神様の力が働いて、天来の平安、心の慰めや癒しを、奇跡的な形で経験できるようになっていきます。

苦しみの果てに疲れている方や、怒りや恨みが深い場合、日々この「ゆるし」を選択・決断して、心の中で宣言していくことをお勧めいたします。

苦しんでおられる一人でも多くの方に、天からの祝福と癒しがありますように…!

歴史上の犠牲者たちの上に、神様からの深い慰めと癒し、長年の苦しみからの解放と名誉の回復、真の救いがありますように…!

主イエス=キリストの御名で祈ります。アーメン。

 

 

 



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