歴史とドラマをめぐる冒険

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麒麟がくる・第三十一回・「逃げよ信長」・感想

2020-11-08 | 麒麟がくる
家康と十兵衛が再会し、家康はなぜか昔の十兵衛(農民姿)の正体に気がついていました。菊丸から聞いたのか。菊丸はどこに行ったのか。家康と十兵衛が同じ価値観を持っていることが判明した回です。

1、松永久秀がいるのは定番ではない。

このシーンは繰り返し繰り返し描かれていますから、ほぼフォーマットは出来上がっています。

①金ヶ崎城を奪う
②そこで浅井長政の離反を知る
③「誰か」が「両面攻撃、越前になだれ込み、朝倉義景を葬り、返す刀で浅井を殲滅」と主張
④信長がそれを退け「逃げる」と宣言
⑤藤吉郎がしんがりを申し出る

「逃げる」と決めた軍議に十兵衛がいることはありません。徳川家康もいません。松永久秀もいません。十兵衛たちは前線に、松永は後ろの守り、朽木谷あたりにいることになっています。もっとも松永久秀がどこにいるか描かれたことは大河ではありません。大河的には松永久秀はまだ「新人」なのです。

例外として「徳川家康がいる」ことはありました。大河「徳川家康」です。そこで両面攻撃を主張するのは「信長」です。すると家康が「これは織田殿とも思えぬご短慮。ここで命を捨てては、天下太平という我々の目標が遠くなります」と「しんがり」を買ってでます。これは家康が主人公だからで、それ以外の大河では家康はいません。

誰が「両面攻撃」を主張するのか。柴田とか信長の家臣です。それを退け「逃げる」と宣言することで「信長スゲー」と思わせる演出がとられてきました。今回は予告編段階で「信長が両面攻撃を主張する。十兵衛が止める。つまりかつて家康が止めたシーンと同じだが、家康の代わりに十兵衛が止める」と分かっていました。

その後信長が「うー」とか「ぐー」とか悩みます。これはたぶん「冬彦さん」だと思います。「冬彦さん」というキャラがいるのです。この信長はほぼ「あれ」です。冬彦さんもマザコンの塊です。もっともあれは「怒っているシーン」らしいのです。わたしは冬彦さんだと思いました。

ちなみに大河「信長」はエンタメ度が少ないので、さほど劇的なシーンはなく、しずしずと撤退します。再現フィルムみたいに地味な作風なのに、「神格化」を描いたために「見ていない人」から、大きく誤解されている作品です。実に地味なんです。

とはいえ、このシーンはもともと信長の見せ場です。「逃げる」の速さが勝負です。勝ってるのに逃げる。そこで周囲が驚く。信長スゲーとなるシーン。個人的にはそっちが見たかったと思います。

2,いくさのシーンで現れる人間性・藤吉郎

「麒麟がくる」はいくさのシーンが少ないのですね。コロナのせいもあると思います。私も、他の戦国ドラマファンも別に「戦争が好き」なわけはないのです。ただいくさのシーンになると、ギリギリの人間性が描かれることが多く、だから面白いのです。

藤吉郎がしんがりを申し出る。普通は信長に対してです。そして通常、柴田権六がこの時ばかりは「トウキチ、生きて戻れ」とか言います。

今回は十兵衛が「しんがりの総司令官」でしたので(なんと柴田にまで命令していた)、藤吉郎は十兵衛にしんがりを申し出ます。むろん史実ではありません。史実としては十兵衛は「しんがりには、いなかった」という人もいます。史料的には一色藤長の伝聞史料で十兵衛がいたことになっているだけだからです。まあともかく十兵衛が総司令で、藤吉郎が十兵衛に許可を得る。むろんこんなことは史上初です。こう書いていて気になったのですが、十兵衛は幕臣であって、織田家家来ではありません。史実は両属ですが、設定はそうです。十兵衛が総司令というのはその点からも変なのですが「勢いでそうなっていて」、特に変だとは感じませんでした。あと徳川実紀では家康も「しんがりだった」とされますが、今回は採用されなかったようです。

「ここが藤吉郎の運命の分かれ目であった」という点では、過去の大河は共通していて、その点は「麒麟がくる」も変わりませんでした。実にオーソドックスな「ほぼ定番通りの」越前撤退です。ただ藤吉郎が十兵衛に申し出るという点だけが違いました。藤吉郎の「しんがり」が嘘とされるという設定でもありました。本来は信長が認めるか否かだけなのですが、信長が「ふて寝」しているので、十兵衛が秀吉の武功を認めるという設定でした。ここも実は、ここで初めて「信長が藤吉郎の真の姿に気がつく」という鉄板のシーンなので、十兵衛と信長に向かって「しんがり」の許しを迫ってほしかったとは思います。

蛇足ですが、藤吉郎の告白。前段は妹の芋を食って、自分がみじめに思えたこと。後段が「飛べない虫」で終わりたくない。死んでも名を残せればいいこと。「つながっているようで、つながっていない」気がします。自分は死にゆく妹の芋を食ってしまったどうしようもない人間だ、だから名誉が欲しい、というのは少し変です。「だから」の部分がつながりません。
藤吉郎の「凄み」としてよく指摘されるのは「死んでもともと」という気迫で、「どうせ信長様に拾ってもらった命、どうせ炉端で死ぬ運命だった。いつ死んでもいい」という感じになることが多いのですね。この「拾ってもらった命だから、いつでも捨てられる」という「凄み」をもう少し描いてもいい気がしました。

3、浅井長政はなぜ裏切ったのか

説明的なセリフが多かったわですが、
どうも朝倉と内通しているらしいこと
内通しているのはオヤジの方とも言えるが、長政も同意していること
「弟を殺した信長だ、まして義理の弟を攻めても当然だ」という風に描きたかったこと

は分かりました。「弟を殺したから、義理の弟など」という描き方がされたのは初めてだと思います。これ以外は全く「定番通り」と言っていいと思います。今までは「お市が必要以上に活躍しすぎ」な面もありましたが、今回のお市さんは地味な感じです。

4、変貌する将軍義昭

信長や信長の価値観、義昭や義昭の価値観、それがまったく「等価」なものとして描かれたら面白いと思っていました。今の所そこそこ等価です。信長がありがたがる御所に対しても、義昭は「御所の修理も大切だろうが、貧困対策の方が先だろう」と言います。この足利将軍家の天皇への冷静な姿勢は史実通りです。ほとんど参内することもありません。なお、御所の塀が崩れていたというのは江戸時代に流行したデフォルメです。

殿中掟条らしきものについて摂津が言及していました。掟条そのもの(形式的には光秀宛)の解釈はいつも通りみたいです。今流行している「室町幕府を縛ろうとしたものではない」という解釈ではありませんでした。幕府は「相手にしない」という魂胆のようです。義昭も同じで、印は押したが従わないと、徐々に戦闘的になっています。でもどうして?数話前は信長の手を握っていた。どこで決定的な亀裂ができたのか、それは描かれていません。手を握りあう前は、信長は石仏をぺんぺん叩いていた、あのシーンです。そっからどう変化したのかが全く描かれてないような気がします。

義昭と信長は、今のところ等価なんですが、来週の予告編あたりを見ると、信長に対抗しようとするようです。そうなってくると「今までの義昭」になってしまい、私は別にいいのですが、新鮮さは減少するかも知れません。

来週はどこまで飛ぶのでしょう。鉄砲200丁が活躍するようです。普通は「姉川」ですが、いくさのシーンには見えませんでした。もとの「宮廷劇」に戻るのかも知れません。「いくさ」がないと、韓国史劇と同じように、どうしても権力者同士の「宮廷劇」になってしまうような気がします。

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