歴史とドラマをめぐる冒険

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ただの歴史ファンです。

秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

2022-11-23 | 権門体制論
このブログは、「露骨に政治的なこと」は書かないし、他にブログもやっていないので、政治的意見の表明は「面倒なので避けている」わけです。ただ私は歴史学者と同じように、「後鳥羽上皇」を基本「後鳥羽」と書きます。「冷静な分析の対象」として「実朝」「後鳥羽」であるべきだと思っているのです。信長は信長です。「信長公」とは書きません。信長は多少好きですが、それでも分析の対象であることには変わりありません。実際、熱烈なファンでもありません。信長関係の本をよく読むというだけです。

「秋篠宮」は「秋篠宮さま」と書くべきなんでしょうか。よく分かりません。「宮」は敬称でしょうか。これは「辞書的問題」ではなく、「今の日本人が秋篠宮の宮を敬称ととらえるか」ということです。本当は秋篠宮さんと書きたいのです。「宮さん」という言葉は、時代劇によく出てきます。でも「秋篠宮さん」では「馬鹿にしている」と怒る人もいそうなので、「秋篠宮」と書きます。あーめんどくさい。

ちなみに「天皇」は明確な敬称なので、「昭和天皇」「現上皇」「今上天皇」です。

本音を書くと、30億のリフォーム代は実はどうでもいい。「警護のための仕組み」が必要ですから、それぐらいかかるでしょう。

私にとって不可解なのは「一体、日本人は天皇や皇族を敬っているのか、いないのか」です。これ「本音を言う人」めったにいません。ヤフコメの「暗黙のルール」では、天皇の悪口は言わない。天皇一家の悪口は言わない。その代わり秋篠宮一家のの悪口はクソみそに言っても構わない、ようです。秋篠宮という尊厳ある個人に対し、実に「失礼」だと思います。悪口言ってもいいのは、政治家だけ、または政治的影響力を持つインフルエンサー(TVコメンテーターとか、学者とか)だけ、が個人的感覚です。秋篠宮は政治的発言は「できない」ので、私は悪口は言いません。そもそも彼の孤高感が好きです。

私の現天皇、皇族観としては、「天皇は象徴として憲法に規定されているから、その規定通りに扱うべきだ」というところでしょうか。人間に貴賤なし、と結構本気で思っているので、貴賤は考えません。人間は基本的にみんな敬うべきだから、人としての天皇、皇族を、他のすべての人間と同じように敬うということです。

生臭い問題はこれぐらいにします。

歴史学者の桃崎有一郎さんが「天皇の敵は社会の敵となる。平清盛や木曽義仲はそれに気が付かなった。源頼朝は気が付いていたので、社交的辞令を散りばめながら、上手にふるまった」というようなことを書いていて、それが気になっているのです。

そこで私は「北条泰時の野望」という「小説みたいな駄文」で、「後鳥羽上皇をうまくあしらう、社交辞令ができる源実朝」を描いてみました。「頼朝と同じように、本音を隠して、うまく上皇を懐柔できるか」を考えてみたかったのです。

桃崎さんは「皇国史観の徒」じゃないですよ。京都学の教授です。たまにTVに出ます。「天皇みんないい人である神話を解体せずに京都の明日はない」と書いていますが、TVでは「天皇陛下さま」と言いそうな勢いで、敬称を使います。「天皇の敵は社会の敵」なので、炎上に気を付けているようです(笑)。著作では後鳥羽も後醍醐も「ぼろくそ」です。

桃崎さんの文章はちょっと「過激に過ぎる」ところがありますし、独断も甚だしいのですが、「礼思想の専門家」であるので、「読まずにはいられない」のです。

朝廷は「儒教の礼の思想に基づいて設計され、礼の思想に基づいて運営されてきた」、これ私にとっては目からウロコです。いろんなことが「すんなりわかる」のです。

人々が飢えて死んでいるのに何もしない後白河法皇を見ると、「なんで何もしないのだ」と腹が立ちます。しかし「やってる」のです。「儀礼と儀礼のための内裏の修築」をやっているのです。「和歌の会」だって開いているのです。人々を救うには儀礼を高め、天皇の徳を高め、徳治を徹底する。そして文章経国の思想に基づいて「和歌、もしくは漢文の隆盛」をはかり、言葉の力で天を動かし、そして人を救うのです。

そのためにはお金が必要ですから、税をとります。ただでさえ飢饉なのですから、人々はばたばた死んでいきますが、儀礼と文章経国の(宴会)の方が大事なので、やっぱり税金が必要なわけです。そして飢饉で人が死にます。

北条泰時が「立ち向かった」のはこういう「異常な現実」です。それを「撫民」と今日ではいいます。私が北条や鎌倉幕府を高く評価するのは、この「礼思想の悪害と戦う姿勢があったからだ」と、実は最近になって認識しています。前から好きだったのですが、好きな理由がよく分からなかったのです。なんとなく「泰時が民を救ったから」というだけでした。しかし朝廷が儒教の礼の思想に基づいて動いている、とわかると、いろんな疑問が解けていきました。思えば、悪左府頼長も、信西も、みんな「儒教の学者」です。

もっとも私の中ではまだ「仮説」です。礼の思想をそんなに学んだわけでもなく、消化しきれていないからです。「秋篠宮のリフォーム」は実はどうでもいいのですが、彼らが「あまり必要もない儀式を毎日やって疲れている」のは確かでしょう。私なぞ結婚式だって疲れるのでなるべく行きません。儀礼、大嫌いです。諸事、儀礼的空間は疲れます。秋篠宮さん、お疲れ様です。


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