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「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論

2022-11-27 | 権門体制論
権門体制論には黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」つまり「シン・権門体制論」と、そこから思想性とかいろんなものを抜いてしまった「現代風権門体制論」があります。
多くの学者が、今依拠しているのは単純化された「現代風権門体制論」です。
それは極めてシンプルな考えで、果たして「論」と呼ぶべきものなのかも分かりません。

A,中世(平安末期から室町中期または安土桃山時代まで)において日本を支配していたのは、公家、武家、寺家の3大勢力である。

終わり。基本的にはこれだけです。もうちょっとだけ複雑にすると

B,中世において日本を支配していたのは公家、武家、寺家の3大勢力である。彼らは天皇を中心にしてゆるく結合しながら、相互補完を行っていた。

これだけです。「現代権門体制論」は単純すぎて理論とは言い難い。図書検索をして「権門体制論」を調べてみてください。私の住む東京の某区には20以上の図書館がありますが、ヒットする本はわずか1冊です。
しかも黒田氏の著作ではありません。黒田氏には「権門体制論」という著作はありません。ただし永原氏らが編んだ著作集の一巻は「権門体制論」となっています。論文の題名ではありません。
権門体制論は1960年代に黒田氏が「中世の国家と天皇」という短い論文で主張しました。それは1970年代から唯物史観を凌駕する形で、日本歴史学の主流となりましたが。各々の学者は、自分なりに「権門体制論を理解し、または改変し」つつ使用しました。しかし黒田氏が亡くなった1993年までは、「新権門体制論」や「改変権門体制論」は出ませんでした。1993年以降、この考えはますます日本歴史学の「多数派」を形成しましたが、「権門体制論」という本は、皆無と言っていいほど書かれていません。「理論的な深化」はないのです。

しかも「B」は黒田氏の考えを正確に反映したものではありません。日本語としても極めて曖昧です。「3大勢力である」までに問題はないと仮定(実はあります)しても、「相互補完」とは何か。「天皇が中心」の「中心」とは言葉の厳密な意味においてどういうことか。「ゆるく結合」とは具体的にどういうことか。

説明は各学者によって微妙に、または全く違います。だから「相互補完」を「協調を過度に重視して」考えたり、「中心」を「天皇権威の高まり」として捉える「間違い」が生じます。

私が多少専門とするのは「現代文の読み方」です。歴史学者ではありません。しかし上記の「B」が説明になっていないことは、現代文読みの感覚で分かります。そこでこの半年、黒田氏の著作を「折に触れて」は勉強してきました。以下は私がその作業を通じて得た知識の披露ですが、むろん私が間違っている可能性はあります。でも結構「いい線いってる」のではないかと、私自身は思っています。

「オリジナル権門体制論」からみた場合、今よく言われていることは正確なのか不正確なのか。〇×形式で考えてみます。

1,権門とは荘園から税をとる権利をもった支配層のことであり、公家、武家(幕府)、寺家のことである。これはかなり正確です。

2,権門体制は中世を通じて維持された。これはかなり不正確です。黒田氏自身は、権門体制の始まりを平安末期、院政期が起点と考えています。しかし権門体制の終点については「足利義満の時代」「応仁の乱をもって終わる」とややぶれがあります。権門体制の終わりは「権門体制の克服」と表現されます。「江戸幕府が完全に克服した」ことは述べていますが、応仁の乱で「ほとんど消滅し」、戦国期に衰退を加速させ、秀吉期で「完全に終わる」と述べている、と考えるの妥当です。

3,権門体制が続くためには「荘園」が必須条件となる。これは正確です。だから現代の学者が、権門体制を江戸幕府開府の直前まで「延長」しようとすれば、「荘園」がその時代まで「命を保って活動していた」と言わなくてはならなくなります。かなりの無理をもってそういう言い方をする人がいるのはそのためです。

4,室町末期になっても権門体制は維持されたため、織田信長と幕府は「相互補完の関係」にあったし、織田信長と天皇も「相互補完の関係」にあった。これは完全な間違いです。
まず室町末期には権門=荘園体制は加速度的に崩れ、もはや機能不全の状態です。「幕府と大名の相互補完」というのは一応出てきます。しかし応仁の乱で終わったとしており、戦国大名には「適用できない」とはっきり書いています。さらに「天皇と信長の相互補完」もかなり支離滅裂です。天皇は権門という「私的勢力」に「公的なみかけ」を与える存在であり、権門ではないからです。ただし天皇自身が私的勢力の家長として権門になる場合はあります。いずれにせよ、信長の時代にまで「権門体制を適用」するのは、いわば「濫用」であり、「権門体制、相互補完濫用防止法」があれば、取り締まりの対象とすべき行為です(笑)。これはオリジナル権門体制論から見た場合、完全にアウトです。

5,江戸時代になっても権門体制は維持された。寺家は存在したし、公家も天皇も存在した。天皇は将軍を任命する立場であった。これはどうでしょう。「朝廷が将軍を任命する立場にあった」ことは事実です。しかしこの考え全体は全く不正確です。黒田氏は江戸期まで権門が存在したとは寸分も考えていません。「完全に克服され、将軍が王になった」と書いています。

6,天皇が王として権門の中心にいたのは、実質権力を失っても「権威」を持っていたからだ。これも不正確です。全く逆という言い方も可能でしょう。「権威があったから中心となった」のではありません。「私的勢力に過ぎない権門が、公的政治に関与するため、公的なみかけを獲得するため、天皇に権威を与えた」のです。ただしこれについては、かなり「長文の説明」が必要となるので、今は書く気がありません。

7,当時の支配層は権門体制を維持することを前提とした。したがってどんなに対立しても、相手を完全に滅ぼす、公家をなくす、寺家をなくすことなどはなかった。
これまた不正確です。黒田氏の考えでは権門は私的勢力として「絶えず相手を完全に滅ぼしたいという欲望を持っていたが、力不足でできなかっただけ」です。
「織田信長は中世人であり、当時は権門体制であったので、信長は幕府と対立しても、それを完全に滅ぼすことはしなかった」。まあ史実としても間違いですが、権門体制論に立った場合でも間違いです。
そもそも権門体制ではなかった事実は無視できるとしても、これは黒田氏の考えに見事なほど反した考え方です。黒田氏は「教祖様」じゃないので、反してもいいのですが、考え方としては「権門体制論とは違ったなにか別の史観」です。

まとめ

オリジナル権門体制論には継承すべき知見が大いにあるが、継承するにしても、黒田氏の考えをよく理解し、批判的に継承しないといけない。とこうなります。

私は黒田史観の信徒ではないので、「教祖はそう言っていない」などいう気でこの文章を書いているわけではありません。むしろ私は権門体制論を批判したい。そのためにオリジナル権門体制論について考えています。「聖書を読んだから、イエスは私のものだ」的な志向はありませんが、教祖の言葉を適当に改変して便利遣いする徒が多すぎるので「それは違う。それはあなたの考えだ。権門体制論ではない。」と言いたい気持ちはあります。

蛇足

黒田俊雄氏は後醍醐政権をどう見ていたか。

「権門体制の克服の試み」と考えていました。古代王権の復活ではなく「封建王政」(天皇を首班とする江戸幕府を想像してください)を目指していたと。
しかしそのどうしようもない「反動的性格」(目的は自らが属する大覚寺統を中心とした一部の公家の勢力回復ためであり、国家天下を思ったものでもなければ、広範な支配勢力の支持を得られるようなものでもなかった)、為に各権門の支持を得て、京都政権における大覚寺統の勢力を「認めさせる」以外方法がなかった。結果として後醍醐は既存の「権門」を「安堵」した。
つまり権門体制の克服(天皇のみが最終決裁者である社会体制)を「看板」として掲げながら、現実には全く別の方向に行くしかなかった。最後には権門の支持さえ失い、あっという間に瓦解した。
最後に黒田氏はこう書いている。(中世の国家と天皇)

後醍醐天皇は、封建王政を組織することに失敗しただけでなく、現実の政治に登場しただけに(形式的権威という姿勢を捨てただけに、リアルな政争に巻き込まれることとなり、これは私の注です)、権門としての私的権威自体もまでも根底から失い、ひいては天皇一般にまつわる「古代的」な形式的・観念的権威までも著しく失墜させる結果を招いたのである。以上引用終わり。

なぜ天皇に対して「私的権威」という言葉を使うのか。それは後醍醐天皇が「実際の政治家」としては「権門として振舞っている」からです。つまり私的勢力、王家という権門の長です。権門は国家から公認を受けても、たとえ天皇が家長であっても、その「私的勢力であるという性格」自体が消滅するのではありません。公的なみかけ、を獲得し、国政に関与できるようになるだけです。荘園を「私的家産」ではなく、「一種の公領」と考えるようなあり方は、黒田氏の所論を見る限り、到底容認できない、最も「反権門体制論的」な思考です。
荘園公領制は今は歴史学の通説どころとか「定説」でしょう。私はそれに疑問を呈している。ドン・キホーテ的暴論ということになりましょう。しかしおかしいものはおかしい。

荘園は私領的なものではあるが、公的国家的性格を有している。寄進によって成り立つというより、上皇の「計画」によって上から形成されることが多かった。

上皇が計画しても「公的でない」ことは、オリジナル権門体制論の立場からは明確です。むしろ「公領と言われているものは、その実質を考えるなら私領ではないか」という疑いを持つ必要を感じます。

加筆する必要を感じますが、一応以上です。

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