旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

来迎寺

2023-01-24 18:32:23 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「天台宗月輪山、明石西国33ケ所観音巡礼の第6番札所。717(養老元)年4月に魚住の荘八木の里に来た行基は、十一面観音をここに置き、伽藍を建立して来迎寺と名付けた。その後、寺内には西方坊、吉祥坊、極楽坊など6か坊があり、時の元正天皇の勅願所にもなった。武士の世の中になるに従って寺も衰え、荒れてしまった。南北朝時代中頃、この地方の豪族であった桜井正左衛門が再建、中興の祖になった。墓地には供養塔の宝篋印塔がある。室町時代後期の1578(天正6)年から始まった織田信長の播磨攻め、羽柴秀吉と三木城主の別所長治の戦い、播磨は戦乱で、寺院や神社が次々と焼かれた。1924(大正13)年3月24日、火災によって、すべてが焼けてしまった。観音堂は翌年に再建、庫裏などすべてが元に戻ったのは1932(昭和7)年である。」
明石市大久保町八木309
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山門











玄関

本堂
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長光寺

2023-01-24 18:26:22 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「天台宗の寺院、薬王山。奈良時代の高僧行基(668~749)が開いたといわれ、本尊の薬師如来は行基の作と伝える。播州薬師霊場七番札所卯である。寺伝によると717(養老元)年3月の開基で、如意寺(神戸市西区櫨谷町)の末寺であった。八木の来迎寺も同じころの開基と伝えている。」
明石市大久保町谷八木742
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山門










弁財天

北向地蔵尊

玄関

本堂






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龍泉禅寺

2023-01-24 18:18:20 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「臨済宗妙心寺派鷲峰山龍泉禅寺、1803(享保3)年、火災のため寺の縁起などすべてを失って、わかっていることはわずかしかない。鎌倉中期、1254(建長6)年法灯国師によって開かれた。その後、1701(元禄14)年に、法雲和尚が再興して臨済宗となった。焼失した堂宇は、3年後の1806(文化3)年二再建された。本堂の2階で寺子屋が開かれ、小さな村から50人もの子ども達が学んでいたという。1941(昭和16)年、老朽化した本堂の建て替えが行われた。海の眺望が失われるとして山門は建てられなかった。明石西国33か所巡礼の五番札所で、本尊は釈迦如来、寺宝の青銅製鋳型の涅槃像は、いつの時代のものかなど不明。」
明石市藤江1305
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寺標

鐘楼







玄関







本堂



北向鎮守社
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青竜神社

2023-01-24 18:07:08 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「鎌倉時代の1254(建長6)年9月25日、藤江村に上宮青竜五社大明神(林神社)を勧請、社殿を建てて青竜神社と称したという。土地の伝承によると、昔、ここには厳島神社がまつられていたが、藤江村が盛んになるにつれ、新しい神社を建て、古い厳島神社はその末社になった。」
明石市藤江字出の上1191
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社標

鳥居

参道

石灯籠

境内

遥拝所

藤江出ノ上遺跡
「この場所からは、縄文式土器や石鏃、すり石、たたき石などが出土し、縄文時代中期から後期にかけて、人が生活していたことが明らかになりました。この時期は、気候が今より暖かく、海水面が上昇し、現在の崖の下まで海が入り込んでいたとみられます。縄文人は、この海辺近くの台地上で、狩猟・採種生活を送っていました。」

手水舎



狛犬



拝殿







本殿

末社


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坂上寺

2023-01-24 17:54:42 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「慶命山坂上寺は真言宗の寺で、弘法大師が創建したといわれ、「かにが坂のお大師様」の名で知られている。当初「高野道場」といわれていた。「坂上寺」と名付けたのは、小笠原忠真の夫人が1632(寛永9)年7月に再興、地蔵堂と大師堂を建ててからのことで、江戸時代には船上密蔵院の末寺である。坂上寺は昭和20年の空襲で全焼したため、みるべき建物は残っていない。」
明石市和坂1-8-2
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手水舎

十三重塔



法華塔









大師堂

遥拝所





本堂





香炉
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十輪寺

2023-01-24 17:29:57 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「高野山真言宗宝珠山と号し、もと地蔵院ともいわれ、船上密蔵院の末寺であった。寺伝によると、昔、藤原鎌足の孫宇合が明石郡内に七伝薬師をつくられたさい、もう一体薬師を作られ、ここに安置した。それ以来、八つ目の薬師、八体薬師と呼ばれるようになり、当時は、赤ちゃんが生まれても、母乳が出なく八体薬師に煎麦粉を供え祈ったところ母乳が出るようになった。それから煎麦粉を供え祈る信仰が生まれた。寛永の始め(1620年頃)には、明石城主小笠原忠真の後室が先君の菩提を弔い寺格を上げた。1639(寛永16)年には四代目城主大久保季任が薬師堂を移し、享保年間(1716~1736)に本堂などが整備された。1945(昭和20)年7月7日の明石空襲の戦火で、この寺の全てが焼き尽くされた。その後、本堂は1962(昭和37)年に再建された。」
明石市西新町1-2-11
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手水鉢

焼け残った杉
「豊臣秀吉が、戦勝を祈って手植をした苗木が当時二股に分かれて高さ25メートルとなった大杉はこの付近の名勝だった。1945(昭和20)年、戦火で本堂及び境内の全てが焼失した。焼け残ったこの杉の鋸目は、当時の世話人が焼け落ちた寺の片付け、樹木の大きな物は人が運べる大きさにと作業していた。しかし、口伝によると、門前に居た年寄りが、『それは切らずに残してけ太閤さんの木やで』と、この年寄りの一言がなければ、この木すら残りはしなかっただろう」

地蔵





本堂

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王子神社

2023-01-24 17:21:48 | 明石市
2023年1月24日、お参りしました。
「『王子村』は、ふたりの皇子に由来している。億計王、弘計王、のちの第24代仁賢天皇と第23代顕宗天皇のことである。古事記によると、ふたりは父・市辺が抗争によって後の雄略天皇に殺されたため、自分たちも殺される危険を避けて、針間国(はりまくに)に逃れた。そこで、志自牟(しじみ)という土地の豪族の家に、召使となって身を隠した。雄略天皇が亡くなり、次の清寧天皇も後継ぎがないまま亡くなったので、天皇の代行した市辺の妹・忍海郎女が、後継ぎとしてふたりの王子の行方を探していた。そのころ都から就任した役人が、志自牟の家の新築祝いに招かれた。召使たちが舞を披露する中で、歌を聞いて探している王子だと判った。志自牟は縮見屯倉=押部谷で、そこから王子たちはよく明石の浜まで漁に来て、途中この村で休憩していたところからこの名が付けられたと伝えられている。現在の王子神社は、元は北王子町の白龍神社内にあったが、昭和20年の水害のために移された。古くは古王子村という地神がまつられていたが、『王子権現』を、1609(慶長14)年にここに移したといわれている。』
明石市西新町2-10-5
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社標

拝殿

本殿

白平稲荷社






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