2023年1月24日、お参りしました。
「天台宗月輪山、明石西国33ケ所観音巡礼の第6番札所。717(養老元)年4月に魚住の荘八木の里に来た行基は、十一面観音をここに置き、伽藍を建立して来迎寺と名付けた。その後、寺内には西方坊、吉祥坊、極楽坊など6か坊があり、時の元正天皇の勅願所にもなった。武士の世の中になるに従って寺も衰え、荒れてしまった。南北朝時代中頃、この地方の豪族であった桜井正左衛門が再建、中興の祖になった。墓地には供養塔の宝篋印塔がある。室町時代後期の1578(天正6)年から始まった織田信長の播磨攻め、羽柴秀吉と三木城主の別所長治の戦い、播磨は戦乱で、寺院や神社が次々と焼かれた。1924(大正13)年3月24日、火災によって、すべてが焼けてしまった。観音堂は翌年に再建、庫裏などすべてが元に戻ったのは1932(昭和7)年である。」
明石市大久保町八木309
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山門
玄関
本堂
「天台宗月輪山、明石西国33ケ所観音巡礼の第6番札所。717(養老元)年4月に魚住の荘八木の里に来た行基は、十一面観音をここに置き、伽藍を建立して来迎寺と名付けた。その後、寺内には西方坊、吉祥坊、極楽坊など6か坊があり、時の元正天皇の勅願所にもなった。武士の世の中になるに従って寺も衰え、荒れてしまった。南北朝時代中頃、この地方の豪族であった桜井正左衛門が再建、中興の祖になった。墓地には供養塔の宝篋印塔がある。室町時代後期の1578(天正6)年から始まった織田信長の播磨攻め、羽柴秀吉と三木城主の別所長治の戦い、播磨は戦乱で、寺院や神社が次々と焼かれた。1924(大正13)年3月24日、火災によって、すべてが焼けてしまった。観音堂は翌年に再建、庫裏などすべてが元に戻ったのは1932(昭和7)年である。」
明石市大久保町八木309
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山門
玄関
本堂