第3話 現代社会における科学とエンジニアリングの大問題
一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事すら散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。
その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化のそこここに誤りが存在すること。詳細は別途述べることにするが、インターネットの普及による情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。
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この問題を根本的かつ持続的に解決するために、科学と工学 (即ち、エンジニアリング)の間に、メタエンジニアリング(根本的エンジニアリングとも云われている)という新たな学問分野を置いてみることを試みてみようと考えている。科学の成果は自然界に存在するあらゆる現象なりものごとを論理的かつ合理的に説明することであり、それ自身に悪は存在しない。なぜならば、この宇宙は127億年の歴史があり、この地球は46億年の歴史がある。その間に全体が最適になるように変化してきた結果が、現在なのだから。従って、純粋に正しい科学を信頼しないことは、明らかに不合理なことに思える。つまり、科学への信頼性の欠如は、正しくない科学を科学と信じてしまうか、科学の使い方(即ち工学)に誤りがあるかのいずれかであろう。その二つの事柄を、より明確にして間違えを正す方法を考えてゆくことに、新たなエンジニアリングを適用する試みが、メタエンジニアリングの狙いである。なぜエンジニアリングという言葉に固執するかと云うと、産業革命に始まる現代の工業化文明下では、かのドイツの哲学者ハイデッガーが明言したように、エンジニアリングが全てを凌駕する時代が続いているからである。知的社会の到来と言われているが、当分の間はエンジニアリングが知的社会においてもその座を奪われることは無いであろう。
更に欲張ってもう一つ「科学・メタエンジニアリング・工学」というテーマでメタエンジニアリングの主機能を提案しようと思う。それは、現代の工学分野に関する分類と纏め方についての新しい考え方である。
工学は約2世紀に亘って様々な分野での専門化が急速に進んだ。そして、その細分化の弊害が顕著になり、境界領域とか俯瞰的統合化や融合・連携など色々な工夫が実際に試まれ始めている。しかし、工学の基本が「人の役に立つものことを、広い意味で設計すること」とする限りにおいて、この傾向には聊か疑問を感じてしまう。それは、私が長年にわたって航空機用エンジンの国際共同の設計開発の現場で色々な変化を見て来たからかもしれない。
世の中のもの作りの産業界は、随分前から技術指向(すなわちシーズ・オリエント)から顧客志向(ニーズ・オリエント)に急速に変化をした。もはや懸命な新技術の研究によるシーズ・オリエントで一時をリードをしても、最終的にはニーズ・オリエントを徹底する企業に負けてしまうという事例には事欠かない状態にあると云えるであろう。
この様な見方で工学の学問分野をみると、依然としてシーズ・オリエントに固執しているように見えてしまう。そこで、メタエンジニアリングの機能との関連が出てくる。
メタエンジニアリングは、工学的な発想や創造を従来以上の範囲に広げてゆこうという思想である。人⇒人間⇒文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学⇒自然科学⇒工学⇒技術という流れの中で、現代のエンジニアリングは、末端の3つのステップに集中して進化を遂げてきた。つまり、自然科学⇒工学⇒技術という流れである。しかし、このことが多くの公害や環境異変をもたらす結果となってしまった。好むと好まざるとによらずに、この傾向はグローバル競争時代にはますます激しくなることが予測されている。そこで、それを正す一つ方法として考えられるのが、エンジニアリング自身の思考範囲を「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という上流まで遡らせるという考え方である。
つまり、工学の価値の原点を科学分野から直接に求めるのではなく、「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場に置いて、そこから生じる価値を上位に置いて括りなおしてみてはいかがなものであろうか。
例えば、幸福度・安心度・環境の向上・文明の進化といった具合である。この価値は、便利とか安いとか簡単にとか、より合理的にといったものとは異なり「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場から生じるものでなければならない。工学は現状の延長上にあるとして、科学と工学の間に思考の場を持つ新しい工学の考え方として「メタエンジニアリング」の主機能を定義する試みを、第2の狙いとしてみようと思う。
このことは、例えばここ半世紀に亘って色々な視点から検討が行われている地球環境問題を例にとると、より明らかになるのだが、詳細は別の話に譲る。更に、大きく考えると、優れた文化の文明化といった命題が見えてくる。文化は本来固有のものであり、文明の視点から見ると不合理な要素が多々存在する。しかし、優れた文化は人類共通の貴重な資産である。そこで、すぐれた文化を文明化することにより、より好ましい持続的社会を構築してゆくための広義のエンジニアリングとしての機能を考えてみようと思う。
この問題は、一見社会学のテーマとも思われるのだが、かのハイデッガーの言葉の通り、現代の技術社会においては、エンジニアリングがその具体化を果たす機能を有すると考えられるのではないだろうか。
聊かドンキホーテ的な発想なのだが、数えてみると今日は私が産まれてから24637日目である。つまり、後1年足らずで目標とする人生3万日に対して5000日を切ることになる。残りの期間にかける一つの夢として、この問題を追いかけてみることにした。
一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事すら散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。
その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化のそこここに誤りが存在すること。詳細は別途述べることにするが、インターネットの普及による情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。
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この問題を根本的かつ持続的に解決するために、科学と工学 (即ち、エンジニアリング)の間に、メタエンジニアリング(根本的エンジニアリングとも云われている)という新たな学問分野を置いてみることを試みてみようと考えている。科学の成果は自然界に存在するあらゆる現象なりものごとを論理的かつ合理的に説明することであり、それ自身に悪は存在しない。なぜならば、この宇宙は127億年の歴史があり、この地球は46億年の歴史がある。その間に全体が最適になるように変化してきた結果が、現在なのだから。従って、純粋に正しい科学を信頼しないことは、明らかに不合理なことに思える。つまり、科学への信頼性の欠如は、正しくない科学を科学と信じてしまうか、科学の使い方(即ち工学)に誤りがあるかのいずれかであろう。その二つの事柄を、より明確にして間違えを正す方法を考えてゆくことに、新たなエンジニアリングを適用する試みが、メタエンジニアリングの狙いである。なぜエンジニアリングという言葉に固執するかと云うと、産業革命に始まる現代の工業化文明下では、かのドイツの哲学者ハイデッガーが明言したように、エンジニアリングが全てを凌駕する時代が続いているからである。知的社会の到来と言われているが、当分の間はエンジニアリングが知的社会においてもその座を奪われることは無いであろう。
更に欲張ってもう一つ「科学・メタエンジニアリング・工学」というテーマでメタエンジニアリングの主機能を提案しようと思う。それは、現代の工学分野に関する分類と纏め方についての新しい考え方である。
工学は約2世紀に亘って様々な分野での専門化が急速に進んだ。そして、その細分化の弊害が顕著になり、境界領域とか俯瞰的統合化や融合・連携など色々な工夫が実際に試まれ始めている。しかし、工学の基本が「人の役に立つものことを、広い意味で設計すること」とする限りにおいて、この傾向には聊か疑問を感じてしまう。それは、私が長年にわたって航空機用エンジンの国際共同の設計開発の現場で色々な変化を見て来たからかもしれない。
世の中のもの作りの産業界は、随分前から技術指向(すなわちシーズ・オリエント)から顧客志向(ニーズ・オリエント)に急速に変化をした。もはや懸命な新技術の研究によるシーズ・オリエントで一時をリードをしても、最終的にはニーズ・オリエントを徹底する企業に負けてしまうという事例には事欠かない状態にあると云えるであろう。
この様な見方で工学の学問分野をみると、依然としてシーズ・オリエントに固執しているように見えてしまう。そこで、メタエンジニアリングの機能との関連が出てくる。
メタエンジニアリングは、工学的な発想や創造を従来以上の範囲に広げてゆこうという思想である。人⇒人間⇒文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学⇒自然科学⇒工学⇒技術という流れの中で、現代のエンジニアリングは、末端の3つのステップに集中して進化を遂げてきた。つまり、自然科学⇒工学⇒技術という流れである。しかし、このことが多くの公害や環境異変をもたらす結果となってしまった。好むと好まざるとによらずに、この傾向はグローバル競争時代にはますます激しくなることが予測されている。そこで、それを正す一つ方法として考えられるのが、エンジニアリング自身の思考範囲を「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という上流まで遡らせるという考え方である。
つまり、工学の価値の原点を科学分野から直接に求めるのではなく、「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場に置いて、そこから生じる価値を上位に置いて括りなおしてみてはいかがなものであろうか。
例えば、幸福度・安心度・環境の向上・文明の進化といった具合である。この価値は、便利とか安いとか簡単にとか、より合理的にといったものとは異なり「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場から生じるものでなければならない。工学は現状の延長上にあるとして、科学と工学の間に思考の場を持つ新しい工学の考え方として「メタエンジニアリング」の主機能を定義する試みを、第2の狙いとしてみようと思う。
このことは、例えばここ半世紀に亘って色々な視点から検討が行われている地球環境問題を例にとると、より明らかになるのだが、詳細は別の話に譲る。更に、大きく考えると、優れた文化の文明化といった命題が見えてくる。文化は本来固有のものであり、文明の視点から見ると不合理な要素が多々存在する。しかし、優れた文化は人類共通の貴重な資産である。そこで、すぐれた文化を文明化することにより、より好ましい持続的社会を構築してゆくための広義のエンジニアリングとしての機能を考えてみようと思う。
この問題は、一見社会学のテーマとも思われるのだが、かのハイデッガーの言葉の通り、現代の技術社会においては、エンジニアリングがその具体化を果たす機能を有すると考えられるのではないだろうか。
聊かドンキホーテ的な発想なのだが、数えてみると今日は私が産まれてから24637日目である。つまり、後1年足らずで目標とする人生3万日に対して5000日を切ることになる。残りの期間にかける一つの夢として、この問題を追いかけてみることにした。