生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(10) 第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング

2013年09月14日 20時21分07秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts

第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング

・戦略と戦術の違い

 一般的に、日本人は発明・発見はあまり得意ではないと言われている。一方で、応用の得意な人は沢山いる。設計は、創造的だが応用面も多い。だから日本人に向いている。長い間の経験から、欧米人と机を並べて設計をしていると、同じ経験度なら日本人のほうが優れた設計を短時間で完成させることができることを知った。しかし、それでは単なる便利屋になりかねない。日本人が戦術に長けていることは、多くの現場で証明がされているのだが、そこには、戦略と云う言葉は存在しない。
 
国際共同開発の開発設計を長年続けて先ず思うことは、設計に対する概念の違いである。即ち、設計という行為をある目的を達成するための、戦略と見るか戦術と見るかである。勿論、最終的には目的達成のための戦術と戦闘の勝負になるのだが、出発点をどこに置くかである。日本人的発想は、ある新しいものを想定してそれをイメージするところから始まる。即ちWhatとHowである。一方で、近代技術による設計の歴史の古い西欧人の設計は、Whyから始まる。「何故、今我々はこの設計を始めるのだろうか」といった問いから、スタートの時期と目標が定まってゆくのだ。従って、具体的にはP.L.(Program Launch)のタイミングが重要な転換点となるのだが、日本の場合は、このことがひどく曖昧である。しかし、一旦スタートをすると、全速力でまっしぐらに突入して、早く成果を上げることができる。一方で、スタートが曖昧なので、途中での方向転換などが旨くできない。

設計がWhyから始まる例として、最近頻繁に挙げられるのが、ダイソンの扇風機である。あの羽根の無いスマートなものだ。この設計は、「何故扇風機には羽根が必要なのだろうか?」と言ったところから始まっている。しかし、この例はメタエンジニアリングというよりは、むしろ価値解析(Value Analysis)の分野である。つまり、扇風機における羽根の主機能は何かを考え、その機能を達成するための他の方法を色々と考えて、価値工学(Value Engineering)により、新たな設計解を得るという方法の適用と考えるのが、妥当であろう。

しかし、Design by ConstraintsとDesign on Liberal Arts Engineeringの関係で考えてみるとどうであろうか。前者では明らかに最初から戦術思考に突入する。つまり、設計条件を満たす最適解を見つけ出すことである。一方で、戦略を考えようとすると、それは自動的にLiberal Artsの領域に踏み込まざるを得なくなるのではないだろうか。
 戦術で勝ち続けても、最後に戦術で負けると云う失敗は繰り返したくないものだと思う。

 このことに関連して良く引用されるのは、太平洋戦争中のゼロ戦の話しだ。空中戦で連戦連勝だったゼロ戦は、機体重量の軽減のために、薄い鋼板を用い、エンジンも小さめであった。これに対抗する戦闘機として、米軍は大出力のエンジンを搭載したグラマンを大量に生産して、上空から一気に急降下する戦術を立てた。ここまでは、戦術の話であろう。そこで米国が考えた方策が戦略である。米軍の戦術を可能にするには、同じ性能の航空機が大量に必要である。すなわち製造過程における徹底した品質管理手法の開発であった。日本の戦闘機はエンジン部品ですら他のエンジンからの流用が利かなかった、との話は有名である。また、単発機は優れているが、4発機はエンジンの回転数がばらばらで、旨く操縦すらできなかったとも聞いた。
 いまでこそ品質管理は科学的な論理の塊のようなものだが、当時は寄せ集めの人材を急こしらえの工場で作るわけで、品質管理の面でもLiberal Artsの諸分野が必要であったことに疑問の余地はない。


「 日本人のための戦略的思考入門」孫崎 享著、祥伝社(2010) には、こんな記述があったので、いくつかを引用させていただく。



・「日本人は戦略的思考をしません」と、キッシンジャーは小平に言った。
戦略感は一夜にしてできない。異種の多くの人と交わり、異なる価値観に遭遇する。それによって外部環境の把握がすすむ。
・マクナマラ元国防長官(ケネディー大統領時代)の戦略理論(主に、経営戦略に応用される)は、ニーズの研究段階(いかなる環境におかれているかの外的環境の把握、自己の能力・状況の把握)⇒企画段階(目標の提案⇒代替戦略提案⇒戦略比較⇒選択)⇒計画段階(任務別計画提案、計画検討⇒決定⇒スケジュール立案)
・ゲーム理論におけるナッシュ均衡とは、「各プレーヤー全員がゲームで選択する最良の選択は個人が独立して決められるものではなく、プレーヤー全員が取り合う戦略の組み合わせとして決定される」

 断片的な記述で恐縮だが、これらの多くの場面でもLiberal Artsが必要であろう。




メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(9) 第7話 メタエンジニアリングを適用すべき「場」について

2013年09月14日 09時07分20秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第7話 メタエンジニアリングを適用すべき「場」について

メタエンジニアリングが必要とされる場の条件とは何か。それは、第1にメタエンジニアリング特有の「場」であること。メタエンジニアリングと似たような主張や論理は、既に数々存在する。特にイノベーションに関しては、MOTの名のもとに、多くの提案が既になされている。それらとの違いと特徴ある有用性を明らかに出来る「場」でなくてはならない。
第2に、従来の工学やエンジニアリングでは大きな失敗があったり、不充分であった問題や局面が存在する「場」であること。そこには、従来の専門分野からの眼だけでは、明らかな問題が存在した。それらは顕在化されているものもあるが、潜在している問題も多々あるはずである。
第3に、メタエンジニアリングで解けそうな期待が持てる「場」、などであろう。

第2の観点からは、最近かなり明確な問題が続出した。
① 福島原発事故に代表される、「むら」という言葉で表される、専門家の閉鎖集団が原因とされる問題
② 笹子トンネル天井版や、瀬戸大橋の梁のクラックなどで明らかになった、設計時点における寿命とメインテナンスへの配慮不足の問題
③ ローマクラブの指摘以来、それにも拘わらずに半世紀に亘って悪化の一途をたどっている、地球環境問題
などである。

 これらを例に、メタエンジニアリングの特徴をあて嵌めてみよう。メタエンジニアリングの特徴は、「専門領域に分化された科学・技術(人文科学・社会科学を含む)と芸術など諸領域を統合・融合して問題の新たな解決策を見出すこと」である。このことは、特に自然科学と人文科学の乖離が問題を引き起こしていると考えられる課題に適している。この観点から①~③のテーマを考えると、明らかに第1の条件にも合致する。問題は、第3の「メタエンジニアリングで解けるか」である。これはやってみないことには分からないのだが、視点を全く変えることにより、大いに期待は持てると考えている。

①~③の問題を、少し包括的に捉えると次のようになる。
① 原理的にかなりの危険性があるものを、人類の文明として活用してゆかなければならないこと。
② 設計の専門化とマニュアル化(公の基準や規程等も含む)が進み、特に基本設計段階で、思慮に欠ける分野が存在すること。
③ 専門分野化が進み過ぎ、専門外からの主張や反論が正しく反映できずに、真に人類社会にとって正しい包括的な解決策が得られていない環境問題のような時間的、空間的に巨大な問題。

そのように纏める事ができる。


・大型航空機用エンジンの場合
                                                       
メタエンジニアリングが必要とされる場の条件として挙げた3つの条件を元に、メタエンジニアリングの位置が、科学・工学・ビジネスの中間に存在する、との仮定の上で、大型航空機用エンジンの場合を考えてみる。もはや現役ではないので、少し時代遅れの感覚であることをお許し願いたい。

大型航空機は大型化、軽量化、高性能化などの更なる研究開発が巨大な投資の元に続けられている。しかし、「エンジンが止まると、飛行機は石になる」の言葉が示すように、基本的に大きな危険が存在する。しかし、現代社会にとっては必須のものでもある。(条件①)
 エンジン設計の専門化とマニュアル化(公の基準や規程等も含む)が進み、設計者が自由に発想をする問題が限られつつある。一方で、厳しい競争に勝つために、最先端の技術を使いたがる傾向がより強く現れている。(条件②)
 代概燃料問題は、バイオ燃料で経済問題が起こりかけたり、超音速機ではコンコルドの失敗があった。将来航空機のありかたについての検討が、専門化任せになっているのではないか。(条件③)

以上を纏めると、次の図になる。



ここで分かることは、将来の大型航空機の在り方について、専門化が進み過ぎて「むら社会」が形成され、他の分野の専門家の意見が反映されにくい状況が形成されると、思わぬ信頼性の喪失や危険性が顕在化することがあり得ると云うことではないだろうか。航空機に関する工学的な分野は、すでに総合工学として位置づけられているのだが、最近の傾向として「エアタクシー」なる構想が先進国で進められている。私は、かつて航空機用のエンジンの整備の在り方は、かつての自動車のように使用者が安全に触れるようにすべきか、自衛隊員のように基礎から勉強をした専門職に任せるべきかを考えた経験がある。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、航空機が自動車並みになる時代が、来るのだろう。そのようなときに、原子力工学の二の舞になってはならないと、思う次第である。