第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング
・戦略と戦術の違い
一般的に、日本人は発明・発見はあまり得意ではないと言われている。一方で、応用の得意な人は沢山いる。設計は、創造的だが応用面も多い。だから日本人に向いている。長い間の経験から、欧米人と机を並べて設計をしていると、同じ経験度なら日本人のほうが優れた設計を短時間で完成させることができることを知った。しかし、それでは単なる便利屋になりかねない。日本人が戦術に長けていることは、多くの現場で証明がされているのだが、そこには、戦略と云う言葉は存在しない。
国際共同開発の開発設計を長年続けて先ず思うことは、設計に対する概念の違いである。即ち、設計という行為をある目的を達成するための、戦略と見るか戦術と見るかである。勿論、最終的には目的達成のための戦術と戦闘の勝負になるのだが、出発点をどこに置くかである。日本人的発想は、ある新しいものを想定してそれをイメージするところから始まる。即ちWhatとHowである。一方で、近代技術による設計の歴史の古い西欧人の設計は、Whyから始まる。「何故、今我々はこの設計を始めるのだろうか」といった問いから、スタートの時期と目標が定まってゆくのだ。従って、具体的にはP.L.(Program Launch)のタイミングが重要な転換点となるのだが、日本の場合は、このことがひどく曖昧である。しかし、一旦スタートをすると、全速力でまっしぐらに突入して、早く成果を上げることができる。一方で、スタートが曖昧なので、途中での方向転換などが旨くできない。
設計がWhyから始まる例として、最近頻繁に挙げられるのが、ダイソンの扇風機である。あの羽根の無いスマートなものだ。この設計は、「何故扇風機には羽根が必要なのだろうか?」と言ったところから始まっている。しかし、この例はメタエンジニアリングというよりは、むしろ価値解析(Value Analysis)の分野である。つまり、扇風機における羽根の主機能は何かを考え、その機能を達成するための他の方法を色々と考えて、価値工学(Value Engineering)により、新たな設計解を得るという方法の適用と考えるのが、妥当であろう。
しかし、Design by ConstraintsとDesign on Liberal Arts Engineeringの関係で考えてみるとどうであろうか。前者では明らかに最初から戦術思考に突入する。つまり、設計条件を満たす最適解を見つけ出すことである。一方で、戦略を考えようとすると、それは自動的にLiberal Artsの領域に踏み込まざるを得なくなるのではないだろうか。
戦術で勝ち続けても、最後に戦術で負けると云う失敗は繰り返したくないものだと思う。
このことに関連して良く引用されるのは、太平洋戦争中のゼロ戦の話しだ。空中戦で連戦連勝だったゼロ戦は、機体重量の軽減のために、薄い鋼板を用い、エンジンも小さめであった。これに対抗する戦闘機として、米軍は大出力のエンジンを搭載したグラマンを大量に生産して、上空から一気に急降下する戦術を立てた。ここまでは、戦術の話であろう。そこで米国が考えた方策が戦略である。米軍の戦術を可能にするには、同じ性能の航空機が大量に必要である。すなわち製造過程における徹底した品質管理手法の開発であった。日本の戦闘機はエンジン部品ですら他のエンジンからの流用が利かなかった、との話は有名である。また、単発機は優れているが、4発機はエンジンの回転数がばらばらで、旨く操縦すらできなかったとも聞いた。
いまでこそ品質管理は科学的な論理の塊のようなものだが、当時は寄せ集めの人材を急こしらえの工場で作るわけで、品質管理の面でもLiberal Artsの諸分野が必要であったことに疑問の余地はない。
「 日本人のための戦略的思考入門」孫崎 享著、祥伝社(2010) には、こんな記述があったので、いくつかを引用させていただく。
・「日本人は戦略的思考をしません」と、キッシンジャーは小平に言った。
戦略感は一夜にしてできない。異種の多くの人と交わり、異なる価値観に遭遇する。それによって外部環境の把握がすすむ。
・マクナマラ元国防長官(ケネディー大統領時代)の戦略理論(主に、経営戦略に応用される)は、ニーズの研究段階(いかなる環境におかれているかの外的環境の把握、自己の能力・状況の把握)⇒企画段階(目標の提案⇒代替戦略提案⇒戦略比較⇒選択)⇒計画段階(任務別計画提案、計画検討⇒決定⇒スケジュール立案)
・ゲーム理論におけるナッシュ均衡とは、「各プレーヤー全員がゲームで選択する最良の選択は個人が独立して決められるものではなく、プレーヤー全員が取り合う戦略の組み合わせとして決定される」
断片的な記述で恐縮だが、これらの多くの場面でもLiberal Artsが必要であろう。