メタエンジニアの眼シリーズ(148)
TITLE: 「伝統との対決」
書籍名;「伝統との対決」 [2007]
著者;岡本太郎 発行所;筑摩書房
発行日;2011.3.10
初回作成日;D1.12.7 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
岡本太郎が欧州から帰国後に縄文土器に出会い、その印象を強烈な文章で表現し、そこから日本での縄文文化の再評価が始まったことは、あまりにも有名なのだが、その文章は昭和27年に雑誌「みづゑ」に発表されたもので、中々出会うことはなかった。散歩コース内の大矢壮一文庫に行けば探せると思っているのだが、閲覧もCOPYも有料のようで、中々立ち寄る気にならなかったこともある。ところが、それが「ちくま学芸文庫」に丸ごと掲載されていることが分かり、やっと読む機会に巡り会うことができた。
関連図書を一括した文章が載っている。「角川文庫版の序」で、本人が昭和39年3月に書いている。
『この本の初版は昭和三十一年に刊行され、様々の意味で現代日本に問題を提起した。これを永遠にアクチュアルな課題として、新しい読者にぶつけたいのだ。発表年代は次の通りである。
「伝統とは創造である」昭和三〇年十二月「中央公論」
「縄文土器」昭和二七年二月「みづゑ」
「光琳」昭和二五年三ー五月「三彩」
「中世の庭」昭和三〇年六月ー三一年一月「草月」
「伝統論の新しい展開」昭和三四年四月「文学」』(pp.34-35)
この二番目が、くだんの図書になる。その前に、中央公論に発表された「伝統とは創造である」がある。ここが、表題にある彼の伝統との対決の始まりのようだ。
しかし、この本の裏表紙には、こんな文章が書かれている。
『西洋への追従の裏返しとしての「伝統主義」を真っ向から否定し、縄文の美を発見し、雪舟の絵に挑みかかった
50年代から60年代、岡本太郎はー画家から完全に脱皮し、独自の思想を背景にもつスケールの大きな芸術家へと変貌を遂げる。本巻ではその軌跡を追い、 彼がこの時期集中的に「対決」した「日本の伝統」とは何だったのかに迫る。』(裏表紙)
本文に戻る。最初の章は「縄文土器論―四次元との対話」だ。
『縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもがドキッとする。なかんずく欄熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。
激しく追いかぶさり重り合って、隆起し、下降し、旋廻する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。常々芸術の本質として超自然的激超を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。 通常考えられている和かで優美な日本の伝統とは全くの反対物でる。』(pp.16)
常々思うのだが、火炎土器のような表現が、新進気鋭の芸術家から突然に生まれるのならば、理解は容易なのだが、数千年も続いた縄文文化の中で、なぜ突然に定着したのかが分からない。
一般の伝統的な考えかたとの対比については、
『縄文式の重厚、複雑ないやったらしいほど逞しい美観が、現代日本人の神経には到底たえられない、やりきれないという感じがする。そこで己の神経の範囲で遮断し、自動的に伝統の埒外に置いて考えるのである。』(pp.16)としている。
そして、「伝統」については、このようにある。
『いったい伝統とは何であろうか。やや横道にそれるが、この問題を明確に掴んで行かない限り如何なる精密なる考察も無益であり、現代の日本人として主体的に縄文式文化を把握することは出来ない。本論に入る前に一応この点を検討してみたいと思う。』(pp.17)
『彼らは、「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狭猪に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである 。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのはまさにそれである。』(pp.18)
彼にかかっては、まさに本物の日本人の感覚もこうなってしまう。
この感覚は、彼のヨーロッパ滞在の直後に生まれた。
『久しい間ヨーロッパに滞在して、その非情で強靭な伝統に馴れて来た帰朝以来ふれる、文化、伝統などというレッテルの貼られた全てがひどく卑弱であり、 陰質であるのに撫然とせずにはいられなかった。近世日本の矮小な情緒主義の平板さは敢えて云うまでもないが、大陸から直輸入され、そのまま伝統の中に編入されて我国の最大の古典と考えられている雄渾壮大な奈良時代の仏教美術などを眺めても、素朴な段階にあった当時の日本とはそぐわない、爛熟した大陸デカダンス文化の倨傲の気配に後味の悪さを感じ、更に遡っては埴輪などの余りにも楽天的な美感に、島国的安逸、現代日本人にそのまま通じる形式主義を見て取り、絶望したのである。』(pp.18-19)
ここで彼は、飛鳥仏を通り越して、天平から平安時代の仏像を想定しているように思える。しかし、純日本風の鎌倉仏の逞しさを思えば、縄文の香りがする。
そして、突然の感情に対する原因究明が始まった。
『このように激しく強靭な美感を支えているものはいったい何であろうか。何故その逞しく漲ぎる生命感が突然に絶えて、次代の弥生式から埴輪を通って流れる、平板な、所謂「日本式」伝統と交替してしまったのであろうか。これらの問題こそ究明しなければならない重要なポイントである筈だ。』(pp.20)
その結果、彼の縄文土器の文様に関する表現は、このようになる。
『縄文土器の最も大きな特徴である隆線紋は、激しく、鈍く、縦横に奔放に躍動し展開する。その線をたどって行くと、もつれては解け、混沌に沈み、忽然と現れ、あらゆるアクシデントをくぐり抜けて、無限に回帰して逃れてゆく。』(pp.21)
さらに、文様詳細に対しては、
『そびえ立つような隆起がある。鈍く、肉太に走る隆線紋をたどりながら視線を移して行くと、それがぎりぎりっと舞上り渦巻く。突然降下し、右左にぬくぬく二度三度くねり、更に垂直に落下する。途端に、まるで思いもかけぬ角度で上向き、異様な弧を描きながら這い昇る。不均衡に高々と面をえぐり切り込んで、また平然ともとのコースに戻る。
いったい、このような反美学的な、無意味な、しかも観る者の意識を根底からすくい上げ顛動させるとてつもない美学が、世界の美術史を通じて嘗て見られたであろうか。』(pp.22)
縄文土器を見慣れた私には、これ以上の表現は思い当たらない。
そして、そこから新たな「課題」が提出されている。
『それは習慣的な審美観では絶対に捉えることのできない力の躍動と、強靭な均衡なのである。非情なアシンメトリー、その逞しい不協和のバランス、これこそ我々が縄文土器によって学ぶべき大きな課題であると私は信ずる。』(pp.22)
彼は、その後この課題を克服して、見事な作品をいくつも残してゆく。
さらに、哲学的な考察に進んでゆく。
『縄文式原始芸術の非精神主義的精神の場、つまり精神が極めて即物的、動的に現実に即し、しかも観念的な功利性を持たぬ在り方を直視し、その無目的の目的、無意味の意味を我々の方法として掴み取らなければならないのである。』(pp.29)
つづいて「日本の伝統」の章にうつる。その「はじめに」はこの文章で始まっている。
『伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐しみ、味わうことで終ってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そ ういう激しい精神で捉えかえすべきだと考えます。』(pp.35)
そして、冒頭に記した、日本人の縄文文化への再評価の始まりについての書き出しがある。
『ところが、私の発言がきっかけになって、縄文の美を認める人がどんどんふえできました。私の感動、情熱が、それまで多くの人々の心の奥深くにひそんではいたが、自覚されなかったものを引き出したのだと思います。縄文は日本の誇るべき原始芸術として定着し、今日では美術史の本などでも、弥生よりずっと大きく鮮かに扱われるようになったのです。また単に美術の領域だけでなく、それ以外の部門にまで「縄文的」という言葉が通用するようにさえなりました。 「縄文」は日本の新しい伝統になったのです。』(pp.36)
この書を読んで、伝統に関する考え方は変わった。メタエンジニアリング的に考えると、このことは、芸術の世界の話ではなく、生活一般のことなのだ。日本の教育制度のありかた、国会での憲法問題に代表される法律議論(今朝の新聞に、日本の国会は質問ばかりで議論が全くない、世界的に見て異常国会だとの論評があった)、企業所属の設計技術者の態度、どれをとっても「伝統」に縛られている感じがしてくる。「伝統と対決する心」は、縄文土器を眺めているだけでは、常人には湧いてこないのが残念だ。
TITLE: 「伝統との対決」
書籍名;「伝統との対決」 [2007]
著者;岡本太郎 発行所;筑摩書房
発行日;2011.3.10
初回作成日;D1.12.7 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Exploring
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
岡本太郎が欧州から帰国後に縄文土器に出会い、その印象を強烈な文章で表現し、そこから日本での縄文文化の再評価が始まったことは、あまりにも有名なのだが、その文章は昭和27年に雑誌「みづゑ」に発表されたもので、中々出会うことはなかった。散歩コース内の大矢壮一文庫に行けば探せると思っているのだが、閲覧もCOPYも有料のようで、中々立ち寄る気にならなかったこともある。ところが、それが「ちくま学芸文庫」に丸ごと掲載されていることが分かり、やっと読む機会に巡り会うことができた。
関連図書を一括した文章が載っている。「角川文庫版の序」で、本人が昭和39年3月に書いている。
『この本の初版は昭和三十一年に刊行され、様々の意味で現代日本に問題を提起した。これを永遠にアクチュアルな課題として、新しい読者にぶつけたいのだ。発表年代は次の通りである。
「伝統とは創造である」昭和三〇年十二月「中央公論」
「縄文土器」昭和二七年二月「みづゑ」
「光琳」昭和二五年三ー五月「三彩」
「中世の庭」昭和三〇年六月ー三一年一月「草月」
「伝統論の新しい展開」昭和三四年四月「文学」』(pp.34-35)
この二番目が、くだんの図書になる。その前に、中央公論に発表された「伝統とは創造である」がある。ここが、表題にある彼の伝統との対決の始まりのようだ。
しかし、この本の裏表紙には、こんな文章が書かれている。
『西洋への追従の裏返しとしての「伝統主義」を真っ向から否定し、縄文の美を発見し、雪舟の絵に挑みかかった
50年代から60年代、岡本太郎はー画家から完全に脱皮し、独自の思想を背景にもつスケールの大きな芸術家へと変貌を遂げる。本巻ではその軌跡を追い、 彼がこの時期集中的に「対決」した「日本の伝統」とは何だったのかに迫る。』(裏表紙)
本文に戻る。最初の章は「縄文土器論―四次元との対話」だ。
『縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもがドキッとする。なかんずく欄熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。
激しく追いかぶさり重り合って、隆起し、下降し、旋廻する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。常々芸術の本質として超自然的激超を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。 通常考えられている和かで優美な日本の伝統とは全くの反対物でる。』(pp.16)
常々思うのだが、火炎土器のような表現が、新進気鋭の芸術家から突然に生まれるのならば、理解は容易なのだが、数千年も続いた縄文文化の中で、なぜ突然に定着したのかが分からない。
一般の伝統的な考えかたとの対比については、
『縄文式の重厚、複雑ないやったらしいほど逞しい美観が、現代日本人の神経には到底たえられない、やりきれないという感じがする。そこで己の神経の範囲で遮断し、自動的に伝統の埒外に置いて考えるのである。』(pp.16)としている。
そして、「伝統」については、このようにある。
『いったい伝統とは何であろうか。やや横道にそれるが、この問題を明確に掴んで行かない限り如何なる精密なる考察も無益であり、現代の日本人として主体的に縄文式文化を把握することは出来ない。本論に入る前に一応この点を検討してみたいと思う。』(pp.17)
『彼らは、「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狭猪に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである 。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのはまさにそれである。』(pp.18)
彼にかかっては、まさに本物の日本人の感覚もこうなってしまう。
この感覚は、彼のヨーロッパ滞在の直後に生まれた。
『久しい間ヨーロッパに滞在して、その非情で強靭な伝統に馴れて来た帰朝以来ふれる、文化、伝統などというレッテルの貼られた全てがひどく卑弱であり、 陰質であるのに撫然とせずにはいられなかった。近世日本の矮小な情緒主義の平板さは敢えて云うまでもないが、大陸から直輸入され、そのまま伝統の中に編入されて我国の最大の古典と考えられている雄渾壮大な奈良時代の仏教美術などを眺めても、素朴な段階にあった当時の日本とはそぐわない、爛熟した大陸デカダンス文化の倨傲の気配に後味の悪さを感じ、更に遡っては埴輪などの余りにも楽天的な美感に、島国的安逸、現代日本人にそのまま通じる形式主義を見て取り、絶望したのである。』(pp.18-19)
ここで彼は、飛鳥仏を通り越して、天平から平安時代の仏像を想定しているように思える。しかし、純日本風の鎌倉仏の逞しさを思えば、縄文の香りがする。
そして、突然の感情に対する原因究明が始まった。
『このように激しく強靭な美感を支えているものはいったい何であろうか。何故その逞しく漲ぎる生命感が突然に絶えて、次代の弥生式から埴輪を通って流れる、平板な、所謂「日本式」伝統と交替してしまったのであろうか。これらの問題こそ究明しなければならない重要なポイントである筈だ。』(pp.20)
その結果、彼の縄文土器の文様に関する表現は、このようになる。
『縄文土器の最も大きな特徴である隆線紋は、激しく、鈍く、縦横に奔放に躍動し展開する。その線をたどって行くと、もつれては解け、混沌に沈み、忽然と現れ、あらゆるアクシデントをくぐり抜けて、無限に回帰して逃れてゆく。』(pp.21)
さらに、文様詳細に対しては、
『そびえ立つような隆起がある。鈍く、肉太に走る隆線紋をたどりながら視線を移して行くと、それがぎりぎりっと舞上り渦巻く。突然降下し、右左にぬくぬく二度三度くねり、更に垂直に落下する。途端に、まるで思いもかけぬ角度で上向き、異様な弧を描きながら這い昇る。不均衡に高々と面をえぐり切り込んで、また平然ともとのコースに戻る。
いったい、このような反美学的な、無意味な、しかも観る者の意識を根底からすくい上げ顛動させるとてつもない美学が、世界の美術史を通じて嘗て見られたであろうか。』(pp.22)
縄文土器を見慣れた私には、これ以上の表現は思い当たらない。
そして、そこから新たな「課題」が提出されている。
『それは習慣的な審美観では絶対に捉えることのできない力の躍動と、強靭な均衡なのである。非情なアシンメトリー、その逞しい不協和のバランス、これこそ我々が縄文土器によって学ぶべき大きな課題であると私は信ずる。』(pp.22)
彼は、その後この課題を克服して、見事な作品をいくつも残してゆく。
さらに、哲学的な考察に進んでゆく。
『縄文式原始芸術の非精神主義的精神の場、つまり精神が極めて即物的、動的に現実に即し、しかも観念的な功利性を持たぬ在り方を直視し、その無目的の目的、無意味の意味を我々の方法として掴み取らなければならないのである。』(pp.29)
つづいて「日本の伝統」の章にうつる。その「はじめに」はこの文章で始まっている。
『伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐しみ、味わうことで終ってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そ ういう激しい精神で捉えかえすべきだと考えます。』(pp.35)
そして、冒頭に記した、日本人の縄文文化への再評価の始まりについての書き出しがある。
『ところが、私の発言がきっかけになって、縄文の美を認める人がどんどんふえできました。私の感動、情熱が、それまで多くの人々の心の奥深くにひそんではいたが、自覚されなかったものを引き出したのだと思います。縄文は日本の誇るべき原始芸術として定着し、今日では美術史の本などでも、弥生よりずっと大きく鮮かに扱われるようになったのです。また単に美術の領域だけでなく、それ以外の部門にまで「縄文的」という言葉が通用するようにさえなりました。 「縄文」は日本の新しい伝統になったのです。』(pp.36)
この書を読んで、伝統に関する考え方は変わった。メタエンジニアリング的に考えると、このことは、芸術の世界の話ではなく、生活一般のことなのだ。日本の教育制度のありかた、国会での憲法問題に代表される法律議論(今朝の新聞に、日本の国会は質問ばかりで議論が全くない、世界的に見て異常国会だとの論評があった)、企業所属の設計技術者の態度、どれをとっても「伝統」に縛られている感じがしてくる。「伝統と対決する心」は、縄文土器を眺めているだけでは、常人には湧いてこないのが残念だ。