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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(73)「ニュートン自然哲学の系譜」

2018年08月04日 09時39分19秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(73)
TITLE: 「ニュートン自然哲学の系譜」

書籍名;ニュートン自然哲学の系譜 [1987] 
著者; 吉田 忠 発行所;平凡社
発行日;1987.11.19
初回作成年月日;H30.8.3 最終改定日;H 
引用先;メタエンジニアの歴史

このシリーズはメタエンジニアの歴史を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
 本の副題は「プリンピキアとオプティックスまで」とある。オプティックスとは「光学」という書であり、後半ではこれをめぐって光の粒子説と波動説が激しくぶつかった経緯が示されている。
 1987年はプリンピキア出版の300年の記念の年で、世界各国で種々の行事が催されたと冒頭に説明があった。つまり、300年間にわたる評価の変遷が主題になっている。

 「はじめに」では、
 『本書の各章は、力学、天文学、数学、時空論、光学、物質論という各分野におけるニユートンの科学研究の諸相と系譜の紹介・分析と、それらを理解するための補助として『プリンキピア』および『光学』の成立と普及の概観に当てられている。』(pp.4) と説明をしている。そして、これらを纏めて「自然哲学」としている。まさに、メタエンジニアの世界だ。

「プリンキピア」の成立については、
『プリンキピア』(一六八七)の成立は、一六八四年のハリーのニュートン訪間から説き起こされるのがふつうである。すなわち、同年八月(五月という説もある)ニュートンを訪れたハリーが、座談の途中、太陽からの引力が距離の二乗に逆比例するとすれぼ惑星の描く軌道は何かと問うたところ、楕円だとニュートンは即座に答えた。喜びまた驚いたハリーが、それはどうしてわかるのかと重ねて尋ねると、計算したことがあるからというのがニュートンの回答であった。』(pp.10) 
その時から、いろいろな議論が巻き起こって来る。

『『フリンキピア』が出版されて後一年の間に四編の書評が出された。一つは英語、二つはフランス語、残りのーつはドイッ語によるものである。英語のそれは王立協会の機関誌『哲学紀要』 Philosophical Transactionsの一八六号(一六八七)に載せられたもので、その著者はほかならぬハリーであった。『プリンキピア』に熱烈なニュートン賛美の頒詩を献げた彼は、「無比の著者」の業績により後に続くものがなすべきことはほとんどなくなったと指摘したのち、簡単に同書の要約を行なっている。グレゴリーは刊行から約ニ力月のち、幾何学で強力な改良を行ない、それを物理学に適用して予期せぬほどの成功を収めたこと、それゆえ現代および未来にわたって最良の幾何学者かつ自然学者(Naturalists)という賞賛に値すること、と絶賛の言葉をニュートンに書き送っている』(pp.24)
という具合に、先ずは平穏であった。
ここでは、「幾何学者かつ自然学者」という表現が適切に使われていると思う。つまり、「力学、天文学、数学、時空論、光学、物質論」などは、自然学なのだ。

ところが、ニュートンの説を裏付ける実験に、だれもが成功しないという事態が生じた。
『ニュートンは自然学者ではないが、自然学の正しい原理を身につけた人々にもその本は面白く有益だし、また優れた数学者であると評して、前掲の評価と同じ立場をとっている。そして、光の性質に関するすべてはニュートンの実験によく当てはまる、と続けている。マールフランシュ自身はニュートンの実験を試みず、そのまま信用したようであるが、一七〇八年ころマールブランシュのサークルの問で追試が行なわれ、ニュートンの実験成果の確認に失敗したことがライプニッツの手紙から判明する。問題は「決定実験」の確認に誰も成功していないことにあった。しかも、前記のマリオットにより、これを否定する論文が公表されていたのである。』(pp.28)

 そして、この議論は延々と続き、ニュートンの死後20世紀にアインシュタインが波動性と粒子性のという津的解釈をするまで300年間も続いた。
『光線が色によって屈折性を異にするというニュートンの見解は、確かに光学史上の大きな達成であった。フックはこの点を承認した。しかし、彼はニュートンの粒子説を認めはしなかった。一方、ニュートンはあくまで光を粒子としたが、 薄膜の現象を説明するために光に随伴するエーテルの振動の存在を承認した。フックとニュートンの対立はこれ以降も続いた。』(pp.217)

 『『光学』に対する評価は時代とともに変遷していった。出版の直後には、まだ波動説も残存したが、光の粒子説が支配的になった十八世紀にはその模範とみなされた。しかし、十九世紀になって、ヤングやフレネルの波動説が盛んになると、偉人の誤りの例とすらみなされるようになった。このような ニュートン理論の栄枯盛衰は、すでにフックとの対立のときから宿命的なものだったと考えられる。それだけに、ニュートンの光学を単に偉大な業績と考えたり、あるいはとるに足らないものと簡単に片づける歴史記述にはいずれも反省が求められるのであろう。』(pp.219)

 現在では、ニュートンの業績は認められているのだが、英国の王立アカデミーのトップに在籍中にすら、このような状態であったことは、単なる理論ではなく、「自然哲学」が底流に必要なことを改めて思わせる。


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