メタエンジニアの眼シリーズ(201)
TITLE: 名画は語る
初回作成日;2021.12.10
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
名画について、特に西洋画については色々な解説本を見かける。この本も、その一つなのだが、著名な日本画家が西欧画について書いているので、ページをめくってみた。千住 博著「名画は語る」キノブックス[2015]。
著者は、日本画家(芸大日本画専攻の博士、京都造形芸術大学学長)で、ルネッサンス以降の数枚の名画の解釈が記されている。他に「芸術とは何か」、「美術の核心」などの著作がある。しかし、私がこの書を選んだのは、そのことではない。ターナーの「雨、蒸気、スピード」という絵に関する記述を見つけたからである。
ターナーとは、Joseph Mallord William Turner(1775 – 1851)イギリスのロマン主義の画家。写実的な風景画家として、同時代のコンスタンブルと並び称せられることが多い。コンスタンブル展は、Covit-19の合間の昨年春に、三菱一号館で行われたが、その時もターナーの絵が、比較対象物として展示されていた。
この展覧会では、ターナーが並んでいるコンスタンブルの絵と比べて、物足りなさを感じて、その場で一筆(確か、赤だったと思う)加えたという逸話が述べられていたから、相当なライバルだったのだろう)
私が、ターナーに初めて出会ったのは、多分開館間もない上野の西洋美術館の展覧会で、学生時代のことだった(半世紀も前のことなので、記憶が曖昧で間違えかもしれない)。宗教や貴族社会とまったく関係ないイギリスの風絵画が、ヨーロッパの自然主義への回帰を思わせた。
Rolls Royceとの新型エンジンの共同開発中には、毎年数回ロンドンで過ごす日があったが、必ず訪れるのは、大英博物館とテート美術館だった。テート美術館は、おそらく半分はターナーの絵で、当時はターナー専門の建物を建設中で、訪問の度に新たな部屋に、数枚が移動されていた。
また、美術館の目の前にはテムズ川の船着き場があり、そこからボートに乗ると、ロンドンの中心部の好きなところで降ろしてもらえるのも、魅力だった。
先週、今年最後の大学院の授業(演題は、環境・エネルギービジネスにおける企業の進化)を行ったが、こんな画面を示して、西欧が環境倫理に目覚めて、ESGやSDGsへ発展してゆく、そもそもの始まりとして話をした。
本題に戻る。なぜ、「雨、蒸気、スピード」なのか。その答えがこの書にあった。たった7ページの文章なのだが、よくまとまっている。話は、ターナーと思しき画家が、ロンドンのパディントン駅からグレート・ウエスタン鉄道(ヒースロー空港からロンドンに向かうには、必ずこの鉄道を利用する)で、西(つまりウエールズ)に向かって、当時走り始めたばかりの蒸気機関車に引っ張られる、あのイギリス独特の客車に乗って出発するところから始まる。
それまでは、馬車で写生旅行をしていた画家は、そのスピードに驚かされる。『巨大な茹で窯の外側に大きな車輪がついているような、実に滑稽で奇妙な形をしていたのです。』(p.158)として、加速されるに従って、死への恐怖まで感じ始める。それが、「蒸気とスピード」だ。
あまりのスピードに、終には景色が全く目に入らなくなり、スケッチどころではなくなるが、そのうちに雨模様になる。『窓の外を見る私の顔を、雨と蒸気が一緒くたになって容赦なく叩きつけます。私は目も開けられないくらいです。それでも頑張って薄く目を開けてみると、午前の光は拡散され、視界全体に光る湯気となり、形はあいまいで大気と光がごちゃごちゃになっています。』(p.161)この時の情景全体が、風景画の体で描かれているのだ。画面のほぼ中央にあるはずの列車は、蒸気機関車の先頭部分しか見えない。あとの風景は全く「大気と光がごちゃごちゃになっている」。
左端には、わずかにイングランドとウエールズの境界にあるセヴァーン・ブリッジの一部と思しき橋が描かれていて、これでGWR鉄道であることが分かる。
ちなみに、この書には、この橋についての記述はないのだが、私はダヴィンチのモナリザと同じで、背景の意味を探りたい。ロンドンという、当時では世界一の文明の場から、未開のウエールズに向かう道が、わずかに一部だけ、かすかに残されているのだ。それが、ターナーの希望への光のように思える。
ターナーがこの絵で示したのは、『非人間的スピードで進む文明に翻弄される人間の哀れさ』であり、『動き出した巨大な文明の中、それは誰にも止められないし、もう後戻りもできないのです。自然を象徴する雨、そして科学技術を象徴する蒸気は、速度を増す文明のスピードの中、そのどちらも不鮮明になり、混濁し、ただただ終焉へと向かって、私達を乗せたまま自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかないのです。』(p.262)で結ばれている。
彼が、この絵を描いてからそろそろ200年近くになるのだが、この「自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかない」状態は、いつまで続くのだろうか。
この書には、他にムンクの「叫び」について書かれており、この絵も文明にたいする不安から、耳をふさいでいるとの解釈が示されているのだが、詳細は割愛する。
TITLE: 名画は語る
初回作成日;2021.12.10
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
名画について、特に西洋画については色々な解説本を見かける。この本も、その一つなのだが、著名な日本画家が西欧画について書いているので、ページをめくってみた。千住 博著「名画は語る」キノブックス[2015]。
著者は、日本画家(芸大日本画専攻の博士、京都造形芸術大学学長)で、ルネッサンス以降の数枚の名画の解釈が記されている。他に「芸術とは何か」、「美術の核心」などの著作がある。しかし、私がこの書を選んだのは、そのことではない。ターナーの「雨、蒸気、スピード」という絵に関する記述を見つけたからである。
ターナーとは、Joseph Mallord William Turner(1775 – 1851)イギリスのロマン主義の画家。写実的な風景画家として、同時代のコンスタンブルと並び称せられることが多い。コンスタンブル展は、Covit-19の合間の昨年春に、三菱一号館で行われたが、その時もターナーの絵が、比較対象物として展示されていた。
この展覧会では、ターナーが並んでいるコンスタンブルの絵と比べて、物足りなさを感じて、その場で一筆(確か、赤だったと思う)加えたという逸話が述べられていたから、相当なライバルだったのだろう)
私が、ターナーに初めて出会ったのは、多分開館間もない上野の西洋美術館の展覧会で、学生時代のことだった(半世紀も前のことなので、記憶が曖昧で間違えかもしれない)。宗教や貴族社会とまったく関係ないイギリスの風絵画が、ヨーロッパの自然主義への回帰を思わせた。
Rolls Royceとの新型エンジンの共同開発中には、毎年数回ロンドンで過ごす日があったが、必ず訪れるのは、大英博物館とテート美術館だった。テート美術館は、おそらく半分はターナーの絵で、当時はターナー専門の建物を建設中で、訪問の度に新たな部屋に、数枚が移動されていた。
また、美術館の目の前にはテムズ川の船着き場があり、そこからボートに乗ると、ロンドンの中心部の好きなところで降ろしてもらえるのも、魅力だった。
先週、今年最後の大学院の授業(演題は、環境・エネルギービジネスにおける企業の進化)を行ったが、こんな画面を示して、西欧が環境倫理に目覚めて、ESGやSDGsへ発展してゆく、そもそもの始まりとして話をした。
本題に戻る。なぜ、「雨、蒸気、スピード」なのか。その答えがこの書にあった。たった7ページの文章なのだが、よくまとまっている。話は、ターナーと思しき画家が、ロンドンのパディントン駅からグレート・ウエスタン鉄道(ヒースロー空港からロンドンに向かうには、必ずこの鉄道を利用する)で、西(つまりウエールズ)に向かって、当時走り始めたばかりの蒸気機関車に引っ張られる、あのイギリス独特の客車に乗って出発するところから始まる。
それまでは、馬車で写生旅行をしていた画家は、そのスピードに驚かされる。『巨大な茹で窯の外側に大きな車輪がついているような、実に滑稽で奇妙な形をしていたのです。』(p.158)として、加速されるに従って、死への恐怖まで感じ始める。それが、「蒸気とスピード」だ。
あまりのスピードに、終には景色が全く目に入らなくなり、スケッチどころではなくなるが、そのうちに雨模様になる。『窓の外を見る私の顔を、雨と蒸気が一緒くたになって容赦なく叩きつけます。私は目も開けられないくらいです。それでも頑張って薄く目を開けてみると、午前の光は拡散され、視界全体に光る湯気となり、形はあいまいで大気と光がごちゃごちゃになっています。』(p.161)この時の情景全体が、風景画の体で描かれているのだ。画面のほぼ中央にあるはずの列車は、蒸気機関車の先頭部分しか見えない。あとの風景は全く「大気と光がごちゃごちゃになっている」。
左端には、わずかにイングランドとウエールズの境界にあるセヴァーン・ブリッジの一部と思しき橋が描かれていて、これでGWR鉄道であることが分かる。
ちなみに、この書には、この橋についての記述はないのだが、私はダヴィンチのモナリザと同じで、背景の意味を探りたい。ロンドンという、当時では世界一の文明の場から、未開のウエールズに向かう道が、わずかに一部だけ、かすかに残されているのだ。それが、ターナーの希望への光のように思える。
ターナーがこの絵で示したのは、『非人間的スピードで進む文明に翻弄される人間の哀れさ』であり、『動き出した巨大な文明の中、それは誰にも止められないし、もう後戻りもできないのです。自然を象徴する雨、そして科学技術を象徴する蒸気は、速度を増す文明のスピードの中、そのどちらも不鮮明になり、混濁し、ただただ終焉へと向かって、私達を乗せたまま自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかないのです。』(p.262)で結ばれている。
彼が、この絵を描いてからそろそろ200年近くになるのだが、この「自ら敷いてしまったレールの上を一直線に突き進むしかない」状態は、いつまで続くのだろうか。
この書には、他にムンクの「叫び」について書かれており、この絵も文明にたいする不安から、耳をふさいでいるとの解釈が示されているのだが、詳細は割愛する。
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