この夏、いろいろな意味で話題となった「新潮45」が、休刊するようだ。
新潮社:「新潮45」休刊のお知らせ
休刊の切っ掛けとなったのは、杉田水脈氏の「LGBTは、生産性が無い」と書いた内容よりも、その後の擁護論による社会的批判だろう。
杉田氏に対する批判も相当強いものがあったはずだが、その批判に対して「火に油を注ぐ」ような結果を招いたのは、擁護論の内容だろう。
そもそも「新潮45」という雑誌は、どのような雑誌だったのだろう?
新聞などに掲載される雑誌の特集見出しを見ても、興味がわかなかったために読んだことは無いのだが、ここ2,3年は「保守的」というよりも「封建的」な内容が目立つような気がしていた。
封建的の先にあるのは、時の政府寄りの内容ということになる。
だからと言って、それが「保守的」なのか?と言えば、そのような印象も無い。
「保守的」というより、「安倍(総理)的(≠右翼)」という感じだろうか?
そのような印象を持っていた為に、杉田氏の掲載見出しを見た時には、さほど驚きはしなかった。
もちろん、文の内容を知って「こんな内容を名だたる出版社が出して、問題は無いの?」という気はしたが、それはあくまでも内容の話だ。
と同時に「新潮45」でなければ、このような文は掲載されなかったのでは?という、気もした。
それほど、「安倍(総理)的」な雰囲気がここ2,3年強くなっていたように感じていた。
不思議に思ったのは、いくら「安倍(総理)的」だとしても、杉田氏に対する反論文を掲載するのでは?と思っていたのだが、そのような反論は掲載されずに、いきなり擁護論が掲載されたコトだった。
様々な考えを雑誌の紙面で論じあう、ということは「オピニオン誌」と呼ばれる雑誌などでは、度々あった。
それが、議論の平等だからだ。
にもかかわらず、いきなり擁護論を展開してしまった理由を、考える必要があると思う。
なぜならそれこそが、休刊の理由となると思われるからだ。
安倍さんが総理大臣になって以来、ネット上では「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見を多く見るようになった。
「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見は、杉田氏や擁護論の中心的存在(?)である小川榮太郎氏の考えと似ているような気がしている。あくまでも私の印象の中でのコトなので、「ネットウヨ」と呼ばれる人たち全てを指しているわけではない、という点は先に言っておきたいと思う。
そうするとネット上で展開される内容が、あたかも「主流となる意見や考え」だと「新潮45」の編集者は思ってしまったのでは?という気がするのだ。
出版不況と言われる状況が続く中で、活字中心の雑誌の売り上げは大きく低迷している、と言われて久しい。
そのような状況の中で、何とか売り上げを伸ばそうと考えた時、SNSなどで盛んに「安倍さんを支持するネットウヨ」と呼ばれる人たちを、取り込もうとしたのでは?という気がしている。
もちろん、ネット上には「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見以外も数多くみられるのだが、「意見としての方向性がまとまっている」と感じられるのは「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見だったのだのでは?
考えそのものは同じかもしれないが、その表現がバラバラな「ネットウヨ」以外の人たちを、購読者の中心に置くよりも、分かり易く編集がしやすいく、部数も伸ばしやすいという一種の「焦り」のようなものがあったのでは?
実際の「新潮45」編集部の考えは、どのようなものであったのかはわからない。
ただ、発行部数を増やしたいがために、ある特定の意見や考えを持つ人達を取り込もうとした「焦り」が、このような休刊という事態につながってしまったとすれば、「言論の自由と公平性」という、あるべき姿に立ち返る時間が必要のような気がする。