爺やの一人暮らしの記録あれこれ

妻に先立たれた爺やの日常生活や心の思いを記録してみたい。子や孫たちが爺やの日常などを知ってもらえたらそれでいいのだ・・。

☆しばらくお休みします・・・・

2015年03月13日 12時57分26秒 | 病気のことなど


体調がよくないため、ブログはしばらくお休みします。
ごめんなさい。
m(_ _)m m(_ _)m





●今日は私の74歳の誕生日である......

2015年03月09日 10時44分05秒 | 日記







今日(3月9日)は私の74歳の誕生日である。感慨無量である。

考えてみると、私が母親の胎内にいた時から、私の心臓は動き始めて、今も不整脈ではあるが確かに鼓動している。73年間、一日も休まず、一度もサボることもなく、不眠不休(?)で働き続けている。まことに、不思議な臓器である。大人の心臓はその人のこぶしくらいの大きさで、重量は200~300gほどの袋状の筋肉のかたまりにすぎないのであるが、実に大きな仕事をしているのだ。

心臓は、血液を体のすみずみまで、まんべんなく循環させるためのポンプの役割をしている。そのポンプの働きを、私たちは鼓動として感じるのである。
心臓は、1日に約10万回もの収縮と弛緩を繰り返し血液を送り出しているのだ。その血液の量は、毎分約5リットル、1日にすると7000~8000リットル、ドラム缶40本分もの血液を全身に向けて送り出していることになるのである。

これを一年に換算すると3千500万回、73年間では25億5千万回以上も拍動した計算になるのである。心臓が一回収縮する時の力は、手のひらにテニスボールを置いてぎゅっと思い切り握る程度の力だそうである。私は、自分の心臓に向かって「ほんとうに、長い間、おつかれさま....」と言いたい気持ちになる。

この心臓は、一体、誰が動かしているのか。ただ、偶然に動いているのか。絶対にそのようなことはあり得ないと堅く信じている。車のエンジンが偶然にできて、偶然に動き出すことは考えられない。私は、世界中のすべての人が無神論者になっても、創造主なる神の存在を信じる。この心臓を動かしているのは全能者なる神以外に考えられないのである。

私は、20代の若い時に神を信じて、73歳まで生きて来た。そのことを一度も後悔したことはない。私がクリスチャンになった時、バカにしたり、嘲って笑った友人もいた。でも、そのようなことは全く気にしていない。私をバカにした同僚の一人は、何故か、生きている意味も分からないまま、若くして胃癌になって死んでしまった。とても気の毒に思っている。しかし、私は、神を信じた時から、自分は日々神に生かされていると実感するようになったのである。

今も、「現代の科学の時代に、神を信じるというのは愚かなことだ。」という人がいるのも事実である。でも、昔も今も、謙虚な科学者の中には神を信じている人が多い。あのノーベル物理学賞をもらった山中教授は、TVの対談の中で、「神」ということばを使っていた。それが、どのような意味で使われたかは分からないが、何か、謙虚な科学者という印象をもったのである。

人間のいのちというのは、実に神秘的である。人間が万能であるかのように言う人もいるが、医学や科学が入ってはならない神聖な領域というものもあると信じている。人間は思い上がってはならない。どのような人間も神になることはできないのである。人間は、神に生かされている存在であり、神の被造物であると、私は、堅く信じているのである。そういう意味において、人は謙虚でなければならないと思っている。

私は、子供の頃、真夏のある日に、緑の草の上に寝転がって、青空を見上げながら、左の胸の上に手を置いて、心臓が鼓動を打っているのを感じたことがある。また、真冬の晴れた日に、やはり、友達と雪遊びで疲れたあと、雪の上に寝そべって、冬の青空を見ながら、やはり、「ドキッ、ドキッ、・・・・」という鼓動を聞いたことがある。何か不思議な思いになったのである。

そして、青年時代になって神に出会ったのである。私が、灯台で無線通信士として働いていた頃、その岬まで徒歩で訪ねてくださった宣教師がいたのである。誠に不思議な出会いであった。「人生は出会いで決まる」ということばがあるが、私がその宣教師に出会っていなければ神に出会うこともなかったのである。神に出会っていなければ、今頃は、人生真っ暗闇であろうと思うのである。私は、神に出会って、本当に良かったと心から思っている。

この原稿を書いていた時に、ちょうど同じ時間に、宅急便で、3人の子どもたちから、誕生日のプレゼントが届いたのである。遠くに離れていても、こんな父親のことを忘れないで覚えていてくれることがうれしいのである。長女からは「高級・冷凍生菓子」、次女からは、いろいろな種類の入浴剤など(ゆずの湯・へちまの湯・生姜の湯・柿の葉の湯・その他、たくさん..)、息子からは、衣類に貼る温熱シートや、(レンジで温めて)繰り返し使える“ゆたぽん”など体を温めるたくさんのグッズである。みな心のこもったものばかりで、うれしい限りである。

それから、今朝、Aさんという人から「誕生日おめでとうございます」というメールが届いた。この人は、子供の頃、日曜学校に来ていた女の子で、いつも笑顔でニコニコしていた子である。今は、もう主婦になっていて、40近い年齢であるが、この人は、一度、誕生日を聞いたら絶対に忘れないという特殊な能力の持ち主で不思議な子である。うちの家族の誕生日をすべて覚えている変わった子である。3年くらい前に、再会したのであるが、子供の時と少しも変わっていないのだ。相変わらず、ニコニコしているのである。

今晩は、冷凍生菓子を解凍して食べて、薬用乳剤を入れた風呂に入って、寝る時はゆたぽんを入れて寝れば、ぐっすり眠れるだろう・・・・。(笑)


「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組はあなた(神)に隠れてはいませんでした。あなた(神)の目は、胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが書き記されました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139:15,16)


●妹のことが、少し心配である

2015年03月07日 20時59分13秒 | 病気のことなど



先日、妹のK子(70)から電話があって、また私のところに来たいということであったのであるが、昨日昼頃に来て、また一泊して、今日夕方電車に乗って帰って行った。今回も、妹は台所を中心とした箇所をあちこちと掃除してくれて、食器棚のガラスまで磨いてくれたりして、大変助かったのである。

そして、夕食後は、前回のように、寝不足になるほど、深夜まで、いろいろと話し込んで、時間を過したのである。しかし、今回は、妹は、明らかに少し落ち込んでいるのが分かった。その理由は、最近、A医大の眼科で受診したところ、あまり聞き慣れない「地図状脈絡膜炎」と言う目の病気があることが分かったというのである。これは、目の病気でも稀なものであるようだ。

これは、決して軽い病気ではないということは、私も理解できた。治療しないで放置すれば、炎症が進み、失明することもあり得るということである。しかし、治療方に、あまり選択肢があるわけでもない。ステロイド(プレドニン)を使用する治療が主なものである。この治療を始めると、一生、このステロイド剤を使用し続けなければならないようなので、大変である。

しかし、そのプレドニンを使用し続けると、様々な副作用があるのである。代表的な副作用は以下の通りである。(1)感染しやすくなる。(2)糖尿病。(3)胃潰瘍。(4)精神症状。(5)副腎機能の低下。(6)骨粗しょう症。(7)顔が丸くなる{ムーンフエイス}・肥満。(8)高脂血症・高血圧・血栓。(9)筋力低下・筋肉痛 。(10)白内障・緑内障。

K子は、病院からもらって来た「ステロイド治療の説明・同意書」の中の、薬の副作用の説明の箇所を読んで、かなり凹んだようである。プレドニンには、これら以外にも、様々な副作用があるが、一人の人にすべての副作用が起こるということではないのある。家内の生前、病気治療中に、この薬を使っていたことがあるので、ある程度の事は知っているけれども、だれでも、この副作用を見ると、心が暗くなって当然ではないかと思う。でも、病院では、このような薬を続けた場合、このような副作用があることを患者に説明する義務があるわけである。

プレドニン治療には、(1)内服と(2)パルス療法がある。パルス療法は、ステロイド剤を大量に注射する方法で、症状が重くて、早急な対処が必要な場合屋、内福では、十分な効果が出ない場合に行われるものである。この治療法は、大量にステロイドを使用しているわりには、副作用がそれれほど出ないとされているようである。全体として治療期間が短く済み、入院日数も少なくて済むし、その後のステロイド剤の服用量もある程度、少なくて済むとされているようである。

こんなことをブログに書いてもしようがないのであるが、少しでも辛い思いをしなくて済むように神様に祈りを捧げたいと思っている。妹は、そんな大変な時期に私のことをを心配して来てくれたのである。普通は、こんな時には、自分のことだけで頭がいっぱいになり、パニックになるのではないかと思う。本当に、妹の優しさと親切に心から感謝したいと心から思っている。

妹は、2年前に、夫を膵臓癌で亡くして、やっと、元気になって前向きに生きようとしていた矢先に、今度は自分が重い目の病気で苦しい思いをしなければならないことを思うと、妹がとても不憫でならない。前回、妹が訪ねて来た時には、妹が私を励ましてくれたが、この度は、私が妹を慰めることになってしまった。人生、何が起こるか、最期で分からないのであるが、まず、すべてのことにおいて、現実を受け入れるところから始めたいと、自分は思っている。そして、妹の晩年の真の幸せを切に祈りたい。

私の腰痛と両足の痺れなどは、今も依然として続いており、足が冷えており、歩行もままならない状態にあるが、神が与えられる試練として、甘受しなければならないのであろうか.....。

「あなたがたの会った試練はみんば人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはありません。むしろ、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)。




●痛みの意味を考えてみた..........

2015年02月28日 22時28分34秒 | 病気のことなど



  
私は、何かの病気で痛みを覚えるときに、「どうして早く痛みが治まらないのか」と思うことがある。子供の時に「痛みがなければいいのに....痛みがなければどんなに楽か....」と、自分勝手なことを思ったこともある。そんなことは誰でも考えることではないだろうか。

ある医者は、“医療は痛みに始まり、痛みに終わる”言ったのであるが、含蓄のあることばである。なるほど、医者の仕事の大部分は痛みを見分けることと言っても過言ではない。「頭が痛い」「喉が痛い」「胸が痛い」「胃が痛い」「関節が痛い」「目が痛い」「腰が痛い」「歯が痛い」「お腹が痛い」.....など、いろいろな痛みをもって人々は病院に行くのだ。

そして、医者はその痛みの訴えを聞きながら、何が問題なのかを探って行くのである。痛みは、私たちの体に何か異常があることを知らせてくれる警報装置のようなものである。

「先天性無痛症」という非常にまれな病気(難病の一つ)があると聞いたことがある。生まれつき“痛み”の感覚がない病気である。痛みがないために怪我をしても気づかないのである。火傷をしても気づかない。凍傷になっても気づかないのである。傷は、そのまま放置されるので、そこからバイ菌が入って深刻な感染症になるのである。

また、制御作用としての痛みがないために力を入れ過ぎて、自分の体の骨を折ったり、筋肉や関節を傷つけたりすることもあるというのだ。自分の歯を抜いたり、自分の眼球まで取り出してしまう子供たちの例もあるというから怖いことである。性格的な特徴は、共通して短気で怒りっぽく、かつ冷淡であるというのである。

☆先天性無痛覚症に関して、次のようなサイトがある。それが、これである
生まれつき痛みを感じないことがどれほど大変なことであるかが、よく分かると思うのである。

これらの疾患を通しても分かることであるが、痛みは生きて行く上で、私たちの健康を維持して行く上で、不可欠のものであることが分かる。また、人格形成の上でもきわめて重要であることを知らされるのである。痛みを感じることを感謝する人はあまりいない(自分もそうである)と思うが、このような事実を知ると、やはり感謝しなければならないと分かるのである。

痛みを知らない者は、他人の痛みを知ることもできないので、思いやりが欠けた人間になるのことは間違いがないことである。いつでも、苦しみは苦しく、痛みは痛いのである。しかし、人間は、苦しむことによって人間らしくなり、痛みを経験して人間らしくなるのではないか....と思うのである。

痛みがいつも人間を成長させるとは限らない。しかし、痛むことなしに、苦しむことなしに、人間は成長しないということは確かであると思う。人生のいろいろな挫折や悲哀、失敗を通して、他人の痛みが分かる人に変えられて行くのではないだろうか。

「徒然草」の中で、吉田兼好は、「友とするに悪しき者」として7つを挙げている。「高くやんごとなき人(身分の高い人)、若き人、病なく身強き人、酒を好む人、武く勇ある兵、虚言する人、欲深き人、」の七つであるが、なるほどと思わせられることもある。

兼好が、その中に、「病なく身強き人」を入れているのは、病気や痛み苦しみを経験しなければ、他人の弱さや痛みを十分に思いやることができないということを見抜いていたのであろうか。これは決して健康な人がよくないという意味ではないということは、もちろん、当然である。

「彼(キリスト)は悲しみの人で痛みを知っていた。........彼は私たちの痛みを負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ書53:3,4)。





●長生きの人は耳が大きい....?

2015年02月24日 14時58分32秒 | 健康の話





昨日、私は腰痛や足の痺れのために、鍼灸院に行って来たのであるが、座席がないくらい満員であった。そして、みな高齢者ばかりである。しかも、私より年齢が上の、70代後半、80代、90代の人たちであった。最近は、どこに行っても年寄りが多い(自分もその中の一人ではあるのだが....)。

待ち時間が長かったので、お互いに、「体調はどうですか?」とか、世間話をしたりしていた。そして、その中に、94歳の男性で、もの凄くお元気なお爺ちゃんがいたのである。戦時中は、シベリヤ抑留で、非常に過酷な状況の中で強制労働をさせられた経験があり、生死の境をくぐりぬけて生き残って帰国された方である。その方は、そんな昔の体験談を語ってくれたのである。

私よりも20歳も年齢が上であるが、声に張りがあり、顔にも艶があって、体は頑健であるが、柔軟性があり、声も大きいのである。そして、いちばん、驚いたのは、その方の耳が大きかったことである。私が、今まで、見て来た人たちの中で、長生きしている人のほとんどが、なぜか、耳が大きいのである。ただ、長生きするというのではなく、元気で長生きされる方のことである。

耳が大きい人はみな長生きするというわけでもないと思うが、なぜか、知っている限りでは、長生きして元気な人は、ほとんどが、耳が大きいのである。これには、何か、医学的な根拠でもあるのか、自分は知らないが、因みに、耳の大きい有名人を考えて見た。

アントニオ・猪木。石坂浩二。松井秀喜。浅田真。安藤美姫。..........etc。
松井秀喜氏の耳は、耳たぶが大きいだけではなく、耳全体が大きく立派で、普通の人の 2倍近いと思われる。同様に、浅田真央ちゃんの耳も大きいだけでなく、耳たぶが大きい、いわゆる福耳の持ち主である。

そう言えば、あの金さん、銀さんも耳が大きかった。高倉健さんは、耳が大きかったが、83歳で既に他界している。米国大統領のオバマさんの耳も大きい。オバマさんは、果たして長生きできるであろうか......? その保証があるわけではない。因みに、耳たぶが全くない人もいるらしいことが分かったのですある。写真を見て気づいたのであるが、アメリカンリーグのイチロー選手である。

ネットで調べてみたが、中国には特大の耳を持ったご老人もおられるようだ。今生きていれば94歳になる張鳳山(ジャン・フォンシャン)さんは、一見普通の老人であるが、普通の人に比べ2倍も大きい耳を持っている。測ってみたところ長さ11cm、幅5.5cm、厚さは3cmもあると言うのだ。写真で見ても、確かにデカイ!!参った~。
それが、コレである。

ある方(H氏)の調査によれば、100歳以上まで長生きされている方の顔に共通点があるという。「みなさん、耳が大きいのです。耳全体が大きい方と、耳たぶの大きい方と、二通りがあるようです」なぜ耳が大きいと長寿なのかは不明だが、こんな仮説が考えられるという。

「耳は軟骨でできています。軟骨は、骨同士が擦れないよう、関節の表面を覆っています。これが足りなくなると変形性関節症になり、膝や股関節が痛くて動けなくなってしまいます」この変形性関節症の原因となるのは、アスポリンという遺伝子で、軟骨の合成に関係する。軟骨の合成が盛んで量が多い人は変形性関節症になりにくい。つまり、耳が大きいということは、軟骨の合成が盛んで変形性関節症になりにくい可能性があるため、元気で長生きできるのかもしれない(これは、あくまでも、仮説に過ぎない)。

百寿者は当然病気には強いのだろうか。「病気にならなければ100歳まで生きられるというわけではなく、老化が進めば、病気をしなくても虚弱になる。この虚弱から免れることが、元気で100歳になる秘訣です。」と言う。虚弱というと風邪を引やすいというイメージがあるが、百寿者は風邪を引かない傾向にあると言う。
こんなサイトもあった。

ところで、新約聖書の中には、次の様な教えがある。
「愛する兄弟たち。........だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」(ヤコブの手紙1:19)。

また、イエス・キリストは、「聞く耳のある人は聞きなさい。」(マルコ4:9、23など)という不思議なことばを何度か、語っておられるのである。

人間の顔には口は一つであるが、耳は二つある。もちろん、耳が二つあるのは、音が立体的に聞こえるためではあるが、その他にも意味があるかもしれないことを教えているのではないだろうか。人は、他人の話を聞かず、ただ、自分の考えや主張だけを語りやすいのである。でも、その反対の方が、実は幸いな人生を送ることができる....と、私は信じているのである。

大切なのは、ただ長生きするだけでなく、どのような充実した人生を送るかではないかと思うのである。