天台寺門宗 修験道

天台寺門宗の修験道だった祖母の跡を継ぎたくて、日々翻弄しています。

祖母との会話・その1

2020-01-19 18:20:18 | 日記
さて。
思い出しながら、自分の記録のための記事が始まります😅
今回は最後にすべてが繋がって

あぁーー!!ー!!!😱
と、猛反省したのです。
ほんっと、人って自分の欲望が絡むと何も見えなくなっちゃうのよね。
自分では、できている、わかっている、ちゃんとやっている
という自信が、もう驕りですな😑

さてさて。
遡ること8月初旬。
あ!!!!!!!
もしかすると、もしかしなくても
この日記を開設した時から始まっています。
なんと😱
そういうことかーーーーーー。

8月初旬、この日記を開設した時
私は東京にいて帰れなくなって娘の住む駅の近くのホテルに、長期滞在していたんだった。
いや違うな。
その前の8月最初にあった、東京ドーム近くのホテルに泊まった時から始まったのかも。

どちらにしても、8月から始まったこの記録とともに、今につながる出来事も起きた。

8月初旬に私が熱中症でダウンして、夫と下の子と合流するまで滞在していた時

急に介護していた父親から電話があった。
この父親とも地獄のようないきさつはあるものの、しばらく行ってなかったので
この時も「すぐには帰れない」、と突っぱねた。
父が私に甘えていたこともわかったし、私としては「何をいまさら」感も強かった。

そもそも、父親のことで私達家族はどんな想いで、どれだけの苦労をしてきたか…
という恨みもあったりするからかも。

介護はしていたものの父親は一人で暮らしているので、お世話はほとんどヘルパーさんにお願いしてあった。
私以外誰も身内は父親のお世話はしないので、私も父親に対しての傲慢さがここで出ちゃってた。
きっと父は亡くなっても、私以外の誰も弔いに来ないだろうと思う。
なんせ、それくらいの人なのだ。


その後、無事に自宅に戻ってから父親の様子を見に行ったのだが
かなり衰弱していた。
真夏だったので脱水症状も見られた。
私が東京へ行くまでは、毎日スイカを持って行っていたが、東京の間はヘルパーさんが来ると言っても生存確認くらいだったみたい。

歩けないし買い物にも行けない、食事も用意できない、といった状態だった。
そのままにしておいたら、あと数日の命だった。

急いで救急車を呼んで、お世話になっている先生に電話をして受け入れてもらった。

病院に着いて、今後どうするかの相談をした。
父親はもう一人暮らしは無理なので施設を探すことに。

ここから、私の施設探しが始まった。
何もわからない状態で、ケアマネージャー、ヘルパー、役場の人、介護の先輩、施設の人、
いろんな方々に聞いて教えてもらった。

思い通りにいかないことばかりで、何度も心が折れた。
父親も施設は無理だ、行きたくないと言うのを、説得した。
説得したというより、私はキレた。
じゃあ、勝手にしろと。
今の借りている部屋は私の名義なので、それは解約するから一人で部屋を借りろと。
何もかも一人でできるのかと。

相手を思いやる気持ちはほぼゼロで、とにかく私が早く楽になりたかったんだろうなぁ。

事務的作業のごとく施設を決めていき、その後は退院に合わせて施設へ入所した。
入院中は何度も電話があり、不安な気持ちを訴えたいのだが、私は聞く余裕もなく早々に切ったりもした。

なぜだったんだろう??
と思い起こすと、父が入院した約3日後に、伯母が入院した。
伯母の介護も私がメインでしていたので、かなりいっぱいいっぱいだったのかな。

まぁ、そりゃそーだ。
今の私がその時の私に言えるとしたら
「他の人に任せな」しかない。
全て自分でやらなきゃと、背負いすぎてた。


次は伯母の話にしよう。







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