ぽかぽかyukotan

台湾生活を終え、2013年に結婚出産。二人の子育てに奮闘中!!日々のこと、台湾・香港・たまに中国の思い出旅日記。

台湾で訪れた日本人おばあさんの話~其の4~

2020-06-16 15:45:00 | 台湾思い出日記
永康街の日本人おばあさんを訪れた話、今回は最後です。

私と友達と横並びでソファーに座り、おばあさんは向かい側に座る。おばあさんに、どうしておばあさんに会いたかったか、会いに来たかを説明。

日本の新聞記事で読んだこと、自分のおじいちゃんも台湾に昔住んでいたことなど。

おばあさんの話によると、この古い日本家屋は日本時代に台湾大学の先生が住んでいたとのこと。この辺り(永康街)には当時、台湾大学の教師の家がたくさんあったと。日本人がたくさん住んでいたらしい。

日本時代も終わり、日本人教師も徐々に日本に帰国。その時、日本人教師の一人にここを譲ってもらったのが、このおばあさんの旦那様らしい。

なるほど、そういうことなのかと思い、もっと質問をしたかったのだが、おばあさんも疲れている様子だったので、長居はしなかったことを覚えている。

私のおじいちゃんのことになる手掛かりは、一つだけ教えてもらえた。台北市内にある、日本語を使って過ごすご老人のホームには、日本語を話せる台湾人の方々がたくさんいるとのことだったので、紹介していただいた。

こうして、私の台湾=日本の気持ちが一層強まるのでした。

※写真は、おじいちゃんが昔お酒をよく呑みに行ったという淡水の丘から撮った写真。

台湾で訪れた日本人おばあさんの話~其の3~

2020-06-09 15:40:00 | 台湾思い出日記
前回に続きます。

日を改めて、おばあさんの家に行ってみることに。ちょっと緊張しながら呼び鈴を押す。

中からお手伝いさんのインドネシアのお姉さんが出て来た。

そして、中に入るようにと。友達と、ドキドキしながら中に入ることに。目に飛び込んで来る物全てが目新しいというか、日本の古い家屋の造りが私には珍しく、あっちを見たり、こっちを見たり。

玄関の二枚戸の上には立派な日本家屋ならではの木の板の彫刻。それを見ただけでも、ここは台湾の中に日本が生きていると感動。

家の中は、もちろん靴を脱いで入るスタイル。入ってすぐに黒光りする長い廊下が横に続く。
先に案内されたのが、廊下の右にある台所。最近の造りではなく、もちろん昔ながらの造り。土間があったが、少しリフォームした雰囲気だった。

次に案内されたのが、玄関上がってすぐ目の前にある客間。そこには立派な床の間があった。床の間の立派な柱は本当に立派だった。何の木かは忘れたが、とにかく立派で、いつも拭いているのかピカピカ黒光りしていた。

その客間にはガラスのテーブルと、ソファーが置かれており、私達二人はそのソファーに腰掛けた。

隣の部屋はおばあさんの寝室兼居間のようで、介護用に見えるベッドが置かれていた。

もちろんこの続いている二間は和室で畳が敷かれていた。そして、私達が座っている後ろは縁側のような廊下が広がっており、そこから見える緑の木々は素晴らしかった。

本当にここが台湾なのか?建物は日本だし、おばあさんは日本人だし会話は日本語だし‥‥日本なんじゃないか?何で台湾の中に日本があるんだろう?頭の中が不思議な感覚になっていったのを今でも覚えている。

続きはまた次回

※写真は台湾台中にある東海大学内の日本家屋。

台湾で訪れた日本人おばあさんの話~其の2~

2020-06-05 14:10:00 | 台湾思い出日記
続きの思い出日記です。

台湾で仲良くなった日本人の友達(女性)と、そのおばあさんの家に行くことに。新聞記事に載っている住所を探してたどり着いた。

何とも立派な門構え。というか、台湾の一般家屋ではお馴染みの銀色の大きい塀のような玄関扉。呼び鈴はあるが、外からは全く中の様子は伺えない。

いろいろな角度から家の様子を見ては友達と「日本ぽい作りが見えた」だの、あ~でもないこ~でもない話ながら、その呼び鈴を押してみることに。

ピンポ~ンか、ジーどちらかの音が鳴っていたはず。出てきたのは「???」どう見てもおばあさんでは無く、だからと言って、家族のようでもない。間違ったか?と不安に思いながら、日本語で会話。
なるほど、インドネシア人のお手伝いさんだったのだ。台湾ではお手伝いさんがインドネシア人というのは珍しくないこと。話によると、おばあさんは出掛けていて留守だったらしい。

どうしてもおばあさんに会いたいことを伝え、次の日に行くことに。




台湾で訪れた日本人おばあさんの話~其の1~

2020-05-29 14:05:00 | 台湾思い出日記
台湾に中文の勉強をしに行くと決まった時、私は父から一枚の新聞の切りぬきをもらっていた。
それは、台湾に日本時代から住む日本人女性(おばあさん)の写真入りの記事だった。

今から約10年前の話。新聞の記事の詳しい内容は忘れたが、多分住所が載っていたはずだ。

私が中文を勉強したのは台北市にある国立台湾師範大学。その語学中心(語学センター)となる所。

語学中心の裏口を出ると、ガイドブックでも有名な永康街に出る。ここは、昔ながらの日本家屋もあり、おしゃれなカフェやお店なんかもある。瓦屋根の昭和を思い出させる建物は、私は見る度に自分のおじいちゃんもこういう所に住んでいたのかもと思い出させていた。

ある日、語学中心で仲良くなった友達と、この新聞記事の話をしていたところ、行ってみようということに。永康街は近いんだし、私のおじいちゃんのことも何かわかるかもと。

続きは次回へ

※永康街の写真が見つからず、台北101の写真です。

生きていくには食べないと!!

2020-05-26 15:25:00 | 台湾思い出日記
さて、台湾に到着し、二日目の食事から思ったこと。食べるためには少しは話せないといけなんだと。

メニューが予め用紙であるお店に入れば、注文数を、ペンで正の字や数字で記入すると店員に伝わった。夜市では、適当に指差しでも伝わった。しかし、細かく味付けやサイズを聞かれると答えられない私。笑顔で首を傾げると、店員も適当な味付けにしていたはず。

ということで、食事に行く前には、頼み方を手の甲にペンで書き、発音練習してから出発するようになっていた。

そして、歩きながらブツブツ練習し、お店に着いたら見なくても言えるように。

ちょっとお恥ずかしいが、これは本当にやっていたこと。

現地で語学勉強とはこういうことかと、つくづく思ったのはこの時。日本でテキスト広げて暗記していただけでは、この感覚は養えないなと。
そう、現地で生きていくには食べていかないと。食べていくためには、多少とも話ができないと‥‥と。そして旅行で数日過ごすのとは違うなと。

因みに大好きな「牛肉麺」も、四声(発音記号)書いて覚えました。



台湾初日の晩ごはん

2020-05-22 14:20:00 | 台湾思い出日記
台湾に着き、マンションでオーナーさんと別れ、一人になった私。

やっと台湾に着いたんだ‥‥そして台湾での生活が本当に始まったんだ‥‥と思っていた。

一息ついて思ったのは、そういえばお腹が空いた!!もう夜の7時過ぎだし、お腹空いて当たり前の時間。
しか~し、何食べる?今晩は台湾人の友達に会う予定はしていなかったし。
どこか、ごはん屋さんに入りたいけど、言葉は通じる?いろんな不安とドキドキ感が生まれてきた。
とりあえず、すぐ目の前は公館夜市だし、歩きながら探すことに。

早速外に出てみると、たくさんの屋台と人。喉が渇いていたので何か飲みたいと思ったけど‥‥何て言って注文する?
台湾はそれまで三回来ていたけど、いざ1人で注文となると、なかなか行動にうつせない。いつも、台湾人の友達が一緒だったから。

しょうがなく、ジューススタンドはやめて、屋台のジュース屋さんへ変更。最初に選んだのは「西瓜汁(スイカジュース)」。何か聞かれても笑顔でウンウンと頷くだけの私。何言ったのか、とても気になっていたけど、聞き返す言葉も出てこない私。

あとは、メインの食べ物は何にしようかと歩き回った。「葱餅(ネギ餅)」の看板に目が行き、良い香につられてこの屋台に決定。ここでも何か聞かれても聞き取れず、適当に返事する私。

とりあえずお腹を満たす物は揃ったけど、言葉がほぼというか全くできないことが判明!!「謝謝」しか話してなかったような。
この時、明日の朝からどうやってゴハンを食べていこうかと少し悩む。少しじゃなかったかもしれない。ゴハン食べるって大変なんだな~と。

こうして、晩ごはんは自分の部屋で眼下に広がるプールを見ながら、そしてプールから聞こえてくる台湾ポップスを聞きながら食べることに。

この時の食事は写真を撮って当時、台湾のブログに載せていたけど、写真もブログも迷子。

※写真は「地瓜球」。この時食べた物ではありません。

台湾に着いた日のこと

2020-05-21 14:25:00 | 台湾思い出日記
台湾の国立台湾師範大学に中文を学びに行ったのは、今から約10年程前。
台湾に興味を持った最初の最初のきっかけは、私のおじいちゃんが台湾が日本時代に台湾の総督府に勤務していたから。
それで、いろいろ調べているうちに台湾の魅力にはまって行った。因に中国語は大学時代の授業&語学学校のみ。通じるかもわからない中国語!!

台北に着いたその日、その日から入居するマンション目指し台北駅から重いスーツケースを持ち、タクシーで公館駅前まで行く。朝日本を出発、台湾に着いた時には外は真っ暗。この時、公館駅出口の場所を間違えたのか、なかなか留学仲介者の日本人女性と会えなかった。タクシーの運転手のオジサンも、一生懸命に探してくれて、台湾人の優しさを感じたのを覚えている。

さて、無事に日本人女性と会うことができ、マンションに到着。ん?私はあることに気付く。マンション入り口に並んだポスト。私の部屋の番号が無い。聞くと、実は私の部屋は、マンション屋上に後から作った部屋。だから、ポストは無く、郵便物はマンション管理人に渡されるというわけ。

なるほどというか‥‥違法な作り?の場所に私は住むのか?ちょっと不安になりながらも、8階の部屋から見える隣にある市民プールの賑やかさ、聞こえてくる台湾ポップスに癒され、これからどんな台湾生活が始まるのかと、心ウキウキしていた。

私の住んだマンションは7階までが本当のマンション。私の部屋はその屋上に作られた6部屋くらいある中の一室。7階まではエレベーターで上がり、そこから上は階段で行く。こういう部屋を「鐵皮加蓋」と言うらしい。もちろん洗濯機も屋上に何機か並んでおり、小銭を入れると動く。

入り口の扉を開けると両脇に部屋が三部屋ずつ並んでいる。隣の部屋が多分台湾大学の男子学生さんで、いつも友達が遊びに来ていて大声が聞こえていた。

私の部屋は、かなり広く、正方形。9~10畳はあったかな?キッチンも付いていたけど、初日にキッチンの扉を開けた瞬間ゴキブリ君と目が合ってしまったからか、自炊したい気持ちが無くなってしまった。棚には、前に住んでいたという日本人が置いていってくれた食器があった。

ベッドはさすが台湾。でかい!!ダブルベッド。しかも、ビニールカバー付き。暑い台湾では蒸れる蒸れる。でも、文句言ってられない、ある物で生きなければと、この時勉強したのかも。

あとは、シャワールームにトイレと、大きなクローゼットと机。そして冷蔵庫の上にはテレビ。あとは電子レンジと、いたって普通の部屋。机とクローゼットが暗めの色で、ちょっと私好みでは無かったけど、ガマンガマン。

そういえば、この部屋のオーナーさんは若夫婦で部屋を幾つも持っているお金持ち‥‥に見えた。

因みに、無収入の私にとっては、どこかで節約しなければと思い、洗濯は徐々に手洗いになっていった。

今思えば、よく1人で行ったな私!!やっぱり両親は心配しただろうな。



ボポモフォ

2020-05-19 15:09:59 | 台湾思い出日記
中国語は大学時代少し勉強していたけど、中国の中国語。漢字も簡体字で。

卒業後、社会人になってから数年して台湾に勉強しに行くことになった。その時、「台湾の、あいうえお」から勉強したいと思い、台湾人の親友に話したところ、この一冊をプレゼントしてくれた。

そう、台湾の子供向けの国語の絵本。中にはCDも2枚。書き順なんかも説明してくれていて、なかなかの親切な一冊。

その後、この本を持って台湾に渡ったのでした。