横須賀鎮守府第一特別陸戦隊というと、落下傘部隊を連想するものですが、私の母方の曽祖父がいた同名の部隊は落下傘部隊に再編成する前の部隊で、支那事変にて活躍した部隊だそうです。
「曽祖父は上海海軍特別陸戦隊にいた」と幼少時に祖父から話を聞いていたものの、その部隊ともまた違うようで…
もしかすると、横一特に所属する前後にいたのかもしれませんが…
上海海軍特別陸戦隊というと、映画化もされた有名な部隊ですが、鎮守府から独立した特殊な常設陸戦隊でした。
そんなことで、色々と疑問が浮かび、曽祖父は32歳で戦死してしまいましたが、私も現在29歳…もうすぐその年になることから、曽祖父の生涯を調べてみようと思い、最近その辺りの時代、場所を絞って調査しております。
支那事変というのも、学校では盧溝橋事件が原因と教わりますが、実際はその前から既に戦闘状態になっておりますし、ドイツが中国に加担して日中の開戦工作を仕掛けたり、何より義勇軍と称した事実の上アメリカの正規軍とは日米開戦以前から戦闘状態になっていたりと、教科書でぱっと書けるような単純なものではなく、凄く複雑な背景があるので非常に興味深いものです。
私も高校生の頃に支那事変を調べておりましたが、歴史の見方が大きく変わりました。
そして学校で教わる「歴史」は大抵が嘘ということも、自ら学ぶことによって知りました。
よくテレビに出る松本出身のNHKにいたおじさんのように、8割の事実に2割の嘘を混ぜる所からはじめ、徐々に嘘の比率を上げるやり方も汚いですが、一方的に教わるだけで、情報を取捨選択出来ない年代の子供に嘘を吹き込むのは卑怯です。
さて、話を戻しますが、曽祖父は20歳の徴兵時、戦艦陸奥の右舷測距員であったようで、当時の戦艦陸奥艦長からの辞令なのか表彰なのか記憶にありませんが、賞状のような文書を見た記憶もあります。
今では帝国海軍の戦艦といえば大和と武蔵が代名詞のようになっておりますが、大和型は終戦まで秘匿されていたため、当時の帝国海軍を代表する戦艦と言えば長門と姉妹艦の陸奥でありましたから、とても栄ある軍艦に乗艦していたのですね。
徴兵の後は故郷で農業を営み、再召集されて白襷隊として名高い竹下部隊の精鋭として松門鎮の敵前上陸の武勲を挙げております。
鉄帽を被った司令官が海軍竹下部隊司令の竹下宜豊海軍中佐だそうです。
その際使用した曽祖父の白襷もかつて祖父に見せてもらいましたが、記憶としては「すごく綺麗な字を書く人だったんだな・・・」といったところでしょうか。
そうした曽祖父でありますが、後の昭和17年5月4日に海軍の徴用船であった金剛山丸に乗船中(金剛山丸の行動記録によると、伊勢湾の警備にあたっていたようですね)、アメリカの潜水艦トラウトの雷撃によって三重県熊野市猪ノ鼻沖で撃沈され戦死しております。
戦死を伝える埼玉新聞の記事が曽祖母によって遺されておりますが、「昨年4月染谷隊の一勇士として松門鎮敵前上陸に偉勲を樹てた」と記載されております。
この「染谷隊」というのは、落下傘部隊で壮絶な最期を遂げられた染谷秀雄大尉指揮の部隊のようで、染谷大尉は竹下部隊の写真帳にも写られております。
かの有名な染谷大尉指揮下で戦っていたのですね。
また、曽祖父が銃剣を携えて警備している背面に「堀内部隊枋湖社分遣隊」との看板が掲げられており、「堀内部隊」とは落下傘部隊で名を馳せた堀内豊秋大佐のことなのかという疑問が残っておりますが、そもそも「枋湖社」は上海付近ではなく、さらに南に位置する現在の福建省厦門市にある地名なので、一体曽祖父はどこを転戦していたのだろうか?と謎が深まるばかりです。
曽祖父の動向については時系列もどのような関係であったのかもイマイチ分からないのが現状です。
昭和15年10月と書かれた橋の上で撮られた写真も、ココは一体どこなのだろうか?
余談ですが、戦前、戦中生まれの日本人というのは目つきが鋭く、凛々しい顔立ちですよね。
現代はボーッと覇気のない顔つきの人が年々増えており、同じ日本人とは思えないというのが率直な感想ですが…
自分は自分で、仲間から目付きが鋭いとは言われますが、睨んでいないのに睨まれたと言われ、対処すべく口角を上げたら怖いと言われ…そんなもんですかね。
大学生の時に曽祖父の動向を調べていれば、国立国会図書館などに行って調べることが出来ましたが、信州では図書館にも戦史や軍事関連の書籍が乏しく、インターネットが頼りになってしまい、情報が限られるのです。
これが都市と地方の情報格差というべきでしょうか。
また、堀内大佐や染谷大尉など、士官級の軍人については様々な戦歴を拝見する事が出来ますが、どんなに偉勲を樹てたところで、一等水兵(戦死による二階級特進で三等兵曹)であった曽祖父が歴史の表舞台に立つことはなく、祖父から聞いたこと、曽祖母が遺したスクラップ等が唯一の頼りです。
32歳の若さで曽祖父が戦死してしまったため、祖父と弟を女手一つで育て上げた曽祖母の苦労は言うまでもありませんし、いわゆる「名もなき一兵卒」にも、そうした大切な家族がいる「一家の大黒柱」であり、大切な故郷があったのです。
ドラマでもドキュメンタリーでも小説でも、日本軍は極悪集団のような書かれ方をしておりますが、こうしたものを背負って出征した人達がそのような悪行を働くはずが無いと私は思っております。
勝てば官軍負ければ賊軍なので、勝者によって歴史は簡単に塗り替えられますが、少なくともある程度の教育を受けさせて貰えた私たちは、その埋められた歴史の中から真実を探す義務があるはずです。
そうして国の為、故郷の為、家族の為に、かけがえのない命を懸けて名誉と言えども哀しいかな、故郷から遠い地で散華され、戦後は酷い謂れも受けた英霊の御霊は靖國神社、護國神社にお祀りされております。
A級戦犯だとか軍国主義の象徴だとか批判する人もいますが、一度は九段のお社へ足を運び、感謝の気持ちを伝えることが、先人達の意に沿う唯一無二の行いと言えるでしょう。
今では想像もつかない動乱の時代、国や大切な人の為に必死に生きた、まさに「英雄」なのですから。
天皇皇后両陛下もサイパンやパラオなどへお出ましされるのではなく、宮城の目の前に鎮座される靖国神社へ真っ先に親拝されるべきで、今のパフォーマンスのような「慰霊の旅」を見ると、正直なところ憤りを覚えます。
曽祖母は私が幼い頃に他界してしまったので、あまり記憶にありませんが、昭和14年に招集され、32歳で戦死してしまった事を考えると、夫婦として共に生活できたのは僅か2~3年しかなかったというのは、実に無念だったと思います。
そのためか、曽祖母の墓石は実家の墓石とは別に隣へ建てられており、夫婦として、曽祖父と一緒に眠っております。(曽祖父の遺骨は当然戻って来ていないため、魂として一緒になったのでありますね…)
トップ画像の母方の実家から譲り受けた海軍竹下部隊のアルバム「聖戦記念写真帳」も、曽祖母や祖父が遺してくれた私の貴重な研究材料ですが、いずれ私が歳をとって衰えた時には誰かへ譲り渡さないといけない物です。
しかしながら、市井の歴史博物館などへ寄贈してしまった場合、反日教育、自虐史観のプロパガンダとして使われたり、廃棄されるおそれが非常に高い事を案じており、やがては靖国神社の遊就館など、善良な見識ある所へ寄贈出来ればと思っております。
そして、もし何か情報や知識をお持ちの方がこの記事をご覧になり、何かしらの知識を下されば非常に幸いです。
曽祖父は横須賀鎮守府第二特別陸戦隊にも所属していたのですね!
曽祖父の軌跡を知れてとても嬉しいです!
昭和16年4月の松門鎮敵前上陸時の染谷隊は竹下部待麾下の部隊のように写真帖に書かれていたので、時系列からすると、横二特(堀内部隊)から横一特(竹下部隊)へ転属したということなのでしょうかね?
ひたすら歩く陸軍と違って、船に乗っているだけで楽そうということで海軍を希望したそうですが、厦門攻略戦や松門鎮上陸など、大変な任務に就いていたのですね。