Eikando Temple, Sakyo Ward, Kyoto City
さてさて、永観堂を訪れたワタクシ達は、見事な紅葉を楽しみながら拝観を楽しんでいました。
釈迦堂の南側に見事な唐門があるんです。唐門というのはどのような門のことかと言いますと、
上半が凸、下半が凹の反転する曲線になる破風(はふ)を唐破風といい、この唐破風のつけられた門を総称して唐門というんです。
また、この唐門は勅使門でもあるんです。勅使門というのは天皇の使い(勅使)が出入りする時に使われた門です。
勅使は門をくぐるとまずこの盛砂を踏んで身を清めてから釈迦堂に入りました。
こういう話を聞くと、京文化の「みやび」というものを感じますわ。
ところで、この永観堂も応仁の乱で大きな被害を受けたのですが、京都に行くとよく応仁の乱という言葉を聞くんです。
京都の人が「先の戦争では…」と言うと、それは太平洋戦争ではなく応仁の乱のことだとよく言われますが、
そもそも応仁の乱とはどういう戦いだったのでしょう。
応仁の乱が起こった室町時代は足利将軍家が権力を握っていた時代で、室町幕府によって政治が運営されていました。
とは言っても将軍家のみで日本を支配していたのではなく、幕府の中枢には守護大名がいてそれぞれの国を任されていました。
室町幕府というのは江戸幕府と違って、将軍家の権力というのが絶大なものではなかったんですね。
そのような状況の中、8代将軍である足利義政には嫡子がおらず、弟の足利義視に後を継がせようとしました。
ところが足利義視が後継者として決まった翌年、足利義政の妻である日野富子が足利義尚を出産したのです。
自分の息子を将軍にしたい日野富子は義政に対して義尚を将軍にするように申し立て、義政も後継者の変更を申し出ますが、
すでに跡継ぎとして決まっていた義視が反対したため将軍家は「義視派」と「義尚派」に対立してしまいます。
つまり、幕府内で大きな分裂が起きてしまったのですな。
その対立に細川、畠山、斯波といった有力な守護大名達の内紛が絡み合い、11年にも及ぶ内乱になったのが応仁の乱なのですが、
東軍は山名宗全、足利義尚、畠山義就、斯波義廉、このほか一色氏、六角氏、土岐氏などの守護大名。
西軍は細川勝元、足利義視、畠山政長、斯波義敏、このほか赤松氏、京極氏、若狭武田氏などの守護大名となるわけです。
ちなみに京都に西陣織で有名な西陣という地名がありますよね。西陣の地名は応仁の乱で、西軍が陣を構えたことに由来するんです。
京都というのは、どこを歩いても日本史で習った出来事や人名が思い出されるんですよ。
ではでは、永観堂の庭園の方に足を運ぶとしましょうかね。
使用したカメラ:1、4、6、8枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2
京都に限らず、どこを訪れる時もそうなのですが、その土地の地理や歴史を少しでも知っていることで、旅の楽しさが増すんですよ。
私はオーストリア、ハンガリー、チェコなどを訪ねたときに中世と近世のヨーロッパ史に関して、知識が薄いことを残念に思いました。
まだまだ勉強しなくてはいけないことが多々ありますが、強いられる勉強は嫌ですが、自ら学ぶ勉強は楽しいですね。
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さてさて、永観堂を訪れたワタクシ達は、見事な紅葉を楽しみながら拝観を楽しんでいました。
釈迦堂の南側に見事な唐門があるんです。唐門というのはどのような門のことかと言いますと、
上半が凸、下半が凹の反転する曲線になる破風(はふ)を唐破風といい、この唐破風のつけられた門を総称して唐門というんです。
また、この唐門は勅使門でもあるんです。勅使門というのは天皇の使い(勅使)が出入りする時に使われた門です。
勅使は門をくぐるとまずこの盛砂を踏んで身を清めてから釈迦堂に入りました。
こういう話を聞くと、京文化の「みやび」というものを感じますわ。
ところで、この永観堂も応仁の乱で大きな被害を受けたのですが、京都に行くとよく応仁の乱という言葉を聞くんです。
京都の人が「先の戦争では…」と言うと、それは太平洋戦争ではなく応仁の乱のことだとよく言われますが、
そもそも応仁の乱とはどういう戦いだったのでしょう。
応仁の乱が起こった室町時代は足利将軍家が権力を握っていた時代で、室町幕府によって政治が運営されていました。
とは言っても将軍家のみで日本を支配していたのではなく、幕府の中枢には守護大名がいてそれぞれの国を任されていました。
室町幕府というのは江戸幕府と違って、将軍家の権力というのが絶大なものではなかったんですね。
そのような状況の中、8代将軍である足利義政には嫡子がおらず、弟の足利義視に後を継がせようとしました。
ところが足利義視が後継者として決まった翌年、足利義政の妻である日野富子が足利義尚を出産したのです。
自分の息子を将軍にしたい日野富子は義政に対して義尚を将軍にするように申し立て、義政も後継者の変更を申し出ますが、
すでに跡継ぎとして決まっていた義視が反対したため将軍家は「義視派」と「義尚派」に対立してしまいます。
つまり、幕府内で大きな分裂が起きてしまったのですな。
その対立に細川、畠山、斯波といった有力な守護大名達の内紛が絡み合い、11年にも及ぶ内乱になったのが応仁の乱なのですが、
東軍は山名宗全、足利義尚、畠山義就、斯波義廉、このほか一色氏、六角氏、土岐氏などの守護大名。
西軍は細川勝元、足利義視、畠山政長、斯波義敏、このほか赤松氏、京極氏、若狭武田氏などの守護大名となるわけです。
ちなみに京都に西陣織で有名な西陣という地名がありますよね。西陣の地名は応仁の乱で、西軍が陣を構えたことに由来するんです。
京都というのは、どこを歩いても日本史で習った出来事や人名が思い出されるんですよ。
ではでは、永観堂の庭園の方に足を運ぶとしましょうかね。
使用したカメラ:1、4、6、8枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2
京都に限らず、どこを訪れる時もそうなのですが、その土地の地理や歴史を少しでも知っていることで、旅の楽しさが増すんですよ。
私はオーストリア、ハンガリー、チェコなどを訪ねたときに中世と近世のヨーロッパ史に関して、知識が薄いことを残念に思いました。
まだまだ勉強しなくてはいけないことが多々ありますが、強いられる勉強は嫌ですが、自ら学ぶ勉強は楽しいですね。
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永観堂の🍁と応仁の乱の話
興味深く読ませていただきました。
歴史の年号を覚えるのは得意ではないのですが、
なぜだか応仁の乱は、1467年から11年続いたというのが頭に染み付いています。
私の前世、関係者だったのかしら?😆
応援📣
モミジの永観堂。
いい紅葉画像ではありませんでしょうか。
とにかく何処にカメラ向けてもいい。
それがこのここの秋のこの風景。
美しいといったらありやしないところ、
それがこの永観堂のモミジでしょうから。🤩
美しい紅葉を拝見しながら
「唐門」「勅使門」
「応仁の乱」などについて
たくさん勉強させて頂きました
ありがとうございます
下調べ?をして訪れること
これからそうします
今年は紅葉写真、1枚も撮りませんでした
ぽち
唐門の説明も、なるほど~と納得。
この唐門は、勅使門なんですね。
盛砂で身を清めてから、釈迦堂に。
まさに、みやびですね。
歴史を勉強してから、その地に行くことは
大切だ・・と思いつつ、なかなか(苦笑)
凸
💻先日は心温まるコメントや応援ポッチを有難う御座いました・感謝&✌で~す!
☺:此方は今日は生憎のお天気で外出も間々ならず朝からブログ訪問で楽しいひと時を過ごしています。
@☺@今日の「永観堂の紅葉・ブログ」も👍&👏ですネ!
☆彡「人気ブログランキング」にも😍&👍&👏をポッチです!
*👴:今朝もblogはアップしてますので遊びにお越し下さ~い<welcome👇>
🎥を見て頂いた感想コメントも楽しみにお待ちしてますネ。
🔶今日も元気で頑張りましょ~👋・👋!
おはようございます
圧倒される美しさです
言葉もありません・・・・
ここの屋根の形何処かで見たことあると思ったら宇和島城の屋根も似たような形してました
唐門,勅使門なんですね
いろんな歴史に詳しいことはいいことです
こちらでは紅葉は終わりました
ありません。美しいですね〜
唐門ですね。覚えました。
先の戦争とは「応仁の乱」なんて
それは京都ならではの言葉ですね〜凸