■ジグムント・フロイト
先日、講義でフロイトの精神分析をあつかった。思えば大学院の頃、指導教授がフロイトを援用した「生の作家」「死の作家」という作家の精神傾向を分析して文芸評論を展開していた方であったから、いきおいフロイトの著作全般にもつきあことになった。フロイトの理論は、いまではむしろ「思想」とでもいうべき範疇としてあつかわれていて、現代の心理学や脳科学では古典的なものではあるが、自分はそのなかでも『快感原則の彼岸』とかには、いまでも強い影響を受けていると思う。
とくに、「生の衝動」「死の衝動」という相反した観念の設定には、確実な根拠にさかのぼれなくとも、納得がいくように思われた。曰く、生命体には生きたい、種族を残して生命をつなげたいという無意識衝動があると同時に、かつて生命を持たなかった存在への回帰を願う、破壊的、死のへの衝動もあるという指摘である。死を甘美なものと捉えること。そして死の模倣たる眠りにも、甘い眠りという形容がつけられるように、私たちは必ずしも「生の讃歌」を歌うばかりではない。また生が善であり、死が悪であるというのも、死そのものへの恐れからくる保守的観念にすぎないことも理屈としては理解できるのだ。
人間のDNAに組み込まれた死のスイッチ、老化のプログラムは、生命現象というものの有限性を担保し、かならず死という「物質」に回帰するための自然の方程式ではなかったか。
生命現象とは、物質の遊び、戯れであり、その遊びはいつか終息せねばならぬという大原理が働いているのではあるまいか。いわく「むすんで、ひらいて」理論である。たとえば、宇宙はいま広がりつづけているわけであるけれども、ある時点でその逆回りの収束が始まるのではないか。ビックバンからはじまった宇宙は、拡大がのびきった時点で、また閉じていくいくのではないか。そして、閉じてしまったら、また、拡散がはじまるのだ。
考えてみれば、生命はエネルギーを拡散させる方向にむかわせる機能をもっている。物質に固定しているエネルギーを燃やして分解させ、宇宙空間に拡散させていく。巨大な核融合である恒星(太陽)の燃焼も、エネルギー拡散、あるいは均等化へむかう流れの中のでの現象ではないか。だとすれば、エネルギー燃焼回路(生命といってもよい)が終息することを、死といい、滅びと形容するのは、たんに現状を維持したいと願う保守的衝動にすぎないのではないか。これは大宇宙での話であって、地球人類のローカルな意識や観念の話ではないのはもちろんだが、すべてのものに栄枯盛衰があるというのは、さけがたい法則であろう。
このような、人間にとっては、畏怖すべき「死」=「破滅」の状態こそがごくあたりまえのことであって、「生」=「繁栄」のほうが束の間の珍しい現象なのかもしれない。いや、まちがいなくそうだろう。だから、知性をもちはじめ、意識を肥大化させてきた人間にとって、その珍しい現象がいとおしく感じられてならないのだ。と、思うのだが。こういうことは、講義ではしゃべらない。個人的感想だから。
若い頃、乱読したフロイトの著作を、時間ができたら、ゆっくりと読み返したい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%88