■大津京に卯年卯月卯日の赤尾神
滋賀県大津、大津散策は京都市内から京都市営地下鉄東西線にて即座に行ける身近な小旅行の旅先です。
三尾神社、兎が鎮座します大津市園城寺町に所在する神社です。大津京とも親しまれる京都と比良山系を隔てたこの歴史都市に鎮座するこの神社のはじまりは、いつ頃に創建されたかについては諸説あるとの事でしたが、七世紀頃には既にこの地に在ったともいう。
赤尾神に白尾神と黒尾神、兎を御使いとする神々がここに降臨した事で兎が溢れる境内となりました。兎の御使い、この兎様ですが安産子沢山ご利益があるといい、安産祈願を願う方々に参拝が多い。お犬様も安産子沢山の守り手ですが、狛犬は多くとも狛兎は稀有だ。
兎の由来はもう一つ、最初に降臨したという赤尾神が卯年の卯月卯日は卯の刻に卯の方角から、降臨した事が兎を掲げる神社の由来とも言われまして、いつごろから安産のご利益が広く祈願されたのかは不詳ですが境内には神々へ三つの腰帯が安産祈願に祀られている。
琵琶湖疏水が近江に湛える湖を京都へと長等山に入る石造りの水回廊、その山の入り口近く鎮座する神社は、考えてみれば兎はよく巣穴を掘るので、ある意味琵琶湖疏水のトンネルの近くに位置し、明治初期という混沌の歴史を知らない当時は妙に納得したものでした。
智証大師円珍が造営したと伝わる三尾神社、智証大師円珍は三井寺開祖です。元々はもう少し山手の琴緒谷にあったといい、山手へ歩みを進めますともう三井寺円城寺となりますが、これはこの神社が三井寺園城寺の一部であったため、元々は一つの寺院だったのです。
応永年間の1426年に造営された社殿などが歴史を伝えています。足利義教が造営を命じたとも言われる社殿は半世紀後、応仁の乱では戦火を免れ、安土桃山時代までに荒廃しますが、豊臣秀吉の京都改造に際し修理が為され、明治時代初期にここに移されたとのこと。
足利義教は室町幕府第六代将軍、かの日明貿易や金閣寺造営で知られる第3代将軍足利義満の子で、生まれて後に青蓮院へ得度し僧侶となるも、第五代将軍足利義量が政争の中に短命に政権を終えた為、なんと石清水八幡宮での籤引きにより将軍襲名となり還俗します。
先代に当る室町幕府第五代将軍足利義量は十代半ばで他に候補者がいない中での将軍襲名となり、若い中での将軍への政治的圧力を躱す目的での管領はじめ側近による反対勢力への粛清政策、父親で四代将軍、大御所の足利義持による飲酒の薦めにより短命に終わる。
足利義教の治世は、先ず御前沙汰という行政調整機構、管領権限を権威に転換し実権を上手く形骸化させ集権化、一方で幕府治世への不穏な動きを抑える目的で富士山遊覧、行楽を装う諸国視閲を行い、二重権力の基となった寺社勢力へも関与し長期政権を実現した。
三井寺園城寺の一部であった三尾神社の社殿再建は、足利義量治世下で行われた粛清への鎮魂や怨霊鎮撫と共に併せて平安朝から度々政治へ強訴として大量の僧兵にて武力介入を行う比叡山への牽制があったと考えられ、実際三井寺と比叡山は天台宗の異なる勢力です。
創建から政治との繋がりあった神社ですが、続く室町の政争応仁の乱からは比良山系が戦火を阻みました。しかし、前述の通り、明治時代の神仏分離廃仏毀釈の影響で1876年に琵琶湖側へ移動を強いられたのです。ただ、移った事で円城寺界隈の歴史街道が形成された。
歴史の大河のような流れに翻弄されつつ、しかし安産祈願というこの世の常の願いそのものは広く支持される事となりました。京都からは比良山系を隔てた位置に在りますが、参拝者が多いとはいえ洛中の喧騒とは無縁、兎の宮は今日も湖西の地に静かに佇んでいます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
滋賀県大津、大津散策は京都市内から京都市営地下鉄東西線にて即座に行ける身近な小旅行の旅先です。
三尾神社、兎が鎮座します大津市園城寺町に所在する神社です。大津京とも親しまれる京都と比良山系を隔てたこの歴史都市に鎮座するこの神社のはじまりは、いつ頃に創建されたかについては諸説あるとの事でしたが、七世紀頃には既にこの地に在ったともいう。
赤尾神に白尾神と黒尾神、兎を御使いとする神々がここに降臨した事で兎が溢れる境内となりました。兎の御使い、この兎様ですが安産子沢山ご利益があるといい、安産祈願を願う方々に参拝が多い。お犬様も安産子沢山の守り手ですが、狛犬は多くとも狛兎は稀有だ。
兎の由来はもう一つ、最初に降臨したという赤尾神が卯年の卯月卯日は卯の刻に卯の方角から、降臨した事が兎を掲げる神社の由来とも言われまして、いつごろから安産のご利益が広く祈願されたのかは不詳ですが境内には神々へ三つの腰帯が安産祈願に祀られている。
琵琶湖疏水が近江に湛える湖を京都へと長等山に入る石造りの水回廊、その山の入り口近く鎮座する神社は、考えてみれば兎はよく巣穴を掘るので、ある意味琵琶湖疏水のトンネルの近くに位置し、明治初期という混沌の歴史を知らない当時は妙に納得したものでした。
智証大師円珍が造営したと伝わる三尾神社、智証大師円珍は三井寺開祖です。元々はもう少し山手の琴緒谷にあったといい、山手へ歩みを進めますともう三井寺円城寺となりますが、これはこの神社が三井寺園城寺の一部であったため、元々は一つの寺院だったのです。
応永年間の1426年に造営された社殿などが歴史を伝えています。足利義教が造営を命じたとも言われる社殿は半世紀後、応仁の乱では戦火を免れ、安土桃山時代までに荒廃しますが、豊臣秀吉の京都改造に際し修理が為され、明治時代初期にここに移されたとのこと。
足利義教は室町幕府第六代将軍、かの日明貿易や金閣寺造営で知られる第3代将軍足利義満の子で、生まれて後に青蓮院へ得度し僧侶となるも、第五代将軍足利義量が政争の中に短命に政権を終えた為、なんと石清水八幡宮での籤引きにより将軍襲名となり還俗します。
先代に当る室町幕府第五代将軍足利義量は十代半ばで他に候補者がいない中での将軍襲名となり、若い中での将軍への政治的圧力を躱す目的での管領はじめ側近による反対勢力への粛清政策、父親で四代将軍、大御所の足利義持による飲酒の薦めにより短命に終わる。
足利義教の治世は、先ず御前沙汰という行政調整機構、管領権限を権威に転換し実権を上手く形骸化させ集権化、一方で幕府治世への不穏な動きを抑える目的で富士山遊覧、行楽を装う諸国視閲を行い、二重権力の基となった寺社勢力へも関与し長期政権を実現した。
三井寺園城寺の一部であった三尾神社の社殿再建は、足利義量治世下で行われた粛清への鎮魂や怨霊鎮撫と共に併せて平安朝から度々政治へ強訴として大量の僧兵にて武力介入を行う比叡山への牽制があったと考えられ、実際三井寺と比叡山は天台宗の異なる勢力です。
創建から政治との繋がりあった神社ですが、続く室町の政争応仁の乱からは比良山系が戦火を阻みました。しかし、前述の通り、明治時代の神仏分離廃仏毀釈の影響で1876年に琵琶湖側へ移動を強いられたのです。ただ、移った事で円城寺界隈の歴史街道が形成された。
歴史の大河のような流れに翻弄されつつ、しかし安産祈願というこの世の常の願いそのものは広く支持される事となりました。京都からは比良山系を隔てた位置に在りますが、参拝者が多いとはいえ洛中の喧騒とは無縁、兎の宮は今日も湖西の地に静かに佇んでいます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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