松茸の味ですやん
「始まる」は自動詞、「始める」は他動詞、打消表現は「始まらない」「始めない」です。では、可能表現は? 「始める」は「始められる」「始められない」ですが、「始まる」は? 「始まる」は「始まる」としか言えませんね、決して「始まれられない」ではありませんよぉ。もちろん「始まれる」も「始まれない」もなし!
2008年1月15日と19日に「終わる」と「終える」について書きましたが、最近また「式が終えたら」というのを2~3度続けて聞き、なぜ「式が終わる」と「式を終える」の区別ができないのかと・・・本当に不思議です。これも、「終える」は「終えられる」「終えられない」ですが、「終わる」は「終わる」ですね。
もちろん、「以上で説明を終わります」「これで授業を終わります」など、「終える」と同じ意味で「終わる」と言いますから、「式を終わる」もあり。「終われる」はあまり聞きませんが、「終われない」は、「このままでは終われない」という言い方をすることがありますね。つまり、主体の意思や能力、主体の行為ということがはっきりしている場合に可能表現ができる、そうでなければ可能表現にはしない、ということになります。
自発と可能だってそうです。自発は、可能とは違い、自然にそうなるということであり、主体がそうしようと思ってするわけではないのですから「~を」に続くことはなく、「虫の音に秋の訪れが感じられる」「金木犀の香りが漂い、秋が深まってきているように思われた」といった表現になります。
天気予報で「秋を感じられそうです」というのを聞きましたが、これも「秋が感じられそうです」でしょう。例えば、「秋を満喫するぞ!」というツアーを企画するなら、紅葉、ススキ、月、露天風呂、松茸、秋刀魚、栗、などなど、秋といえばこれというものを取り揃えて「秋を感じられそうです」もなくはないですが、天気予報のお姉さんは、別に秋を感じよう感じようと焦っているわけではないですよね。
「あまり意味を感じられない」も、本当は「あまり意味が感じられない」ですね。日本語の形として「あまり意味を感じられない」もありえますが、少なくともそのときは、可能ではなく、「あまり意味のないことのように私には思われた」というつもりで言っていましたから、「意味を」ではなく「意味が」です。
何ですかねぇ、今の日本語は、主体の気持ちと言葉が乖離(かいり)しているような気がしませんか?
「始まる」は自動詞、「始める」は他動詞、打消表現は「始まらない」「始めない」です。では、可能表現は? 「始める」は「始められる」「始められない」ですが、「始まる」は? 「始まる」は「始まる」としか言えませんね、決して「始まれられない」ではありませんよぉ。もちろん「始まれる」も「始まれない」もなし!
2008年1月15日と19日に「終わる」と「終える」について書きましたが、最近また「式が終えたら」というのを2~3度続けて聞き、なぜ「式が終わる」と「式を終える」の区別ができないのかと・・・本当に不思議です。これも、「終える」は「終えられる」「終えられない」ですが、「終わる」は「終わる」ですね。
もちろん、「以上で説明を終わります」「これで授業を終わります」など、「終える」と同じ意味で「終わる」と言いますから、「式を終わる」もあり。「終われる」はあまり聞きませんが、「終われない」は、「このままでは終われない」という言い方をすることがありますね。つまり、主体の意思や能力、主体の行為ということがはっきりしている場合に可能表現ができる、そうでなければ可能表現にはしない、ということになります。
自発と可能だってそうです。自発は、可能とは違い、自然にそうなるということであり、主体がそうしようと思ってするわけではないのですから「~を」に続くことはなく、「虫の音に秋の訪れが感じられる」「金木犀の香りが漂い、秋が深まってきているように思われた」といった表現になります。
天気予報で「秋を感じられそうです」というのを聞きましたが、これも「秋が感じられそうです」でしょう。例えば、「秋を満喫するぞ!」というツアーを企画するなら、紅葉、ススキ、月、露天風呂、松茸、秋刀魚、栗、などなど、秋といえばこれというものを取り揃えて「秋を感じられそうです」もなくはないですが、天気予報のお姉さんは、別に秋を感じよう感じようと焦っているわけではないですよね。
「あまり意味を感じられない」も、本当は「あまり意味が感じられない」ですね。日本語の形として「あまり意味を感じられない」もありえますが、少なくともそのときは、可能ではなく、「あまり意味のないことのように私には思われた」というつもりで言っていましたから、「意味を」ではなく「意味が」です。
何ですかねぇ、今の日本語は、主体の気持ちと言葉が乖離(かいり)しているような気がしませんか?
なるほどぉ!