僕も実際のところは分からないのだが、僕の身の周りの若い人にはほとんどおらず、高校時代は親が有名やお寺の住職の息子であるとかいう人もいたけれども、まあほとんどいないのだ。
これは、年配の方では多くなってくるかもしれないが、やはり全体から見たとき、そのような人たちは少数派になってはくるのかもしれない。
だからといって悪いとか、良いとかいうことを言いたいわけではない。
今回の記事を含む、「『宗教』について」の一連の記事では、人にとって「宗教」とは何か、そしてそれはどのような役割を果たしているのか、ということを考えてみて、「宗教」的なものに対して僕たちはどのような関わりをもっているのか、宗教団体に属していなければ「宗教」とは無縁であるとはたして言えるのであろうか、というような事を僕の実体験などを交えて考察していきたいと思う。
まずは、僕自身の宗教に対する関わり方というものを語ることから始めたい。
実は僕は去年の今頃、大学を留年してしまうことが決まったわけであるが、それがきっかけで多少は金を稼いで学費・生活費を賄わなければならなくなり、また時間的に勉強も少なくなって(僕が落ちた科目は一つでそれほど厳しい科目ではない)暇になったのもあり、それまでしていなかったバイトを始めたのだ。
それに関する僕の体験や不甲斐なさなどは半年ほど前にこのブログでも語ったことがあったのだが、時間的に暇になったことで始めた、それまでやっていなかったことはそれだけではない(ブログもそのうちの一つ)。
その中の一つに、祖母が昔から所属しているある振興宗教団体(たしか設立は1930~50年ごろ)にちょこちょこと顔を出すようにした、というものがある。
実は僕の父親もその団体(以下、A会と呼ぶ)にかつて属しており、学生時代は活動をしていたらしい。
また、母方の家系も何かの団体に籍を置いていたはずである。
だが、父自体は「あんな婆さんしかおらんようなところへは行かんでいい。」と昔から言っていたし、母もやはり宗教団体に属することに対しては否定的であった。
そのようなこともあり、また周囲の友達もそんなところへ行ったりしている、という話は聞かなかったから、僕もその宗教に入ろうとは全く思っていなかった。
ここには宗教団体に対する偏見もだいぶあったと思う。
だから、今回A会に属することにもやはりだいぶ抵抗はあったのだ。
だが、実際に入ってみると思っていたほど悪いようなものではないと分かった。
そもそも宗教団体そのものの名目は悩める人、苦しんでいる人たちの精神的救済である。
僕の目には、A会の人と色々話をしてみて、その役割はA会に所属している人にとってはだいぶ果たされているのではないか、と思え、宗教団体はそれが使命なのだから、宗教について考えるときは、それができているか否かが最も重要なところになってくるのではないかと思う。
その対価として、教会へ顔を出す度(教会へ行くこと自体は末端信者にとっては強制ではなく、またA会で何らかの役割をしている人でもよっぽど上の人でもない限りそれぞれの仕事もあるので強制ではない)に100円を払ったり、その他必要な経費をちょこちょこ払う程度のものであれば、まあ安いものなのかもしれない(頻繁に活動する人の中には正月に1000万寄付しただのの話も聞いたことがあるが、それは一握りのお話)。
ただ、やはり一般に思われがちな、無理やりとも思える勧誘なんかも実際にはあって、そのあたりが僕にも受け入れがたい部分ではある。
僕の中でもだいぶうさん臭さは拭い切れていない。
しかし、何らかの団体を維持していくのにはお金の問題を避けては通れないのであって、やはりそこは上層部の人たち個人の生活なども考えれば多少は無理のないことかもしれない。
さて、僕がA会で少しずつ活動していく過程で(といっても僕は本当に顔を出す程度のものであるが)、色々と学ばせていただくことも多かった。
それはこれからの人生で少しでも役立てていきたいと思う。
そのようなことの中で、僕がもっとも勉強になったのは付近の県の教会に属する青年部の人々が一堂に会して行う合宿(その時出席していたのは40人くらい)である。
そこでは青年部の人というのが若い僕のような学生も当然のことながら39歳くらいまでの現在働いている人たちも含んでいたこともあり、いままで学生の身では接することのほとんどなかった人々と接する機会を持てたので色々考えるきっかけになった。
ここまでで、だいぶ長くなったのでここで学んだことに関しては、「『宗教』について ②」の記事としてまとめさせていただきたいと思います。
読んで下さりありがとうございました。
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