「何かを感じる」、それはその人の自発的な行為の様に普通は考える。しかし、そのプロセスをよく観察してみると、実は意識的に何かを感じているということはほとんどないのではないかと思う。本人の意思とは関係ないところで「感じる」というプロセスは発動していることが多いように思える。感じることは自動プロセスであって一義的には人の意識とは関係がないと言っても差し支えないのではないか。
他方、何かを感じるということは、感じる対象があるということだから、それは自分だけで完結する事柄ではなく、周りとの相互作用の結果生まれているともいえる。純粋に頭の中で起こった妄想でなければ、感じることも外部との関連は深く結びついているともいえるだろう。絵を美しいと感じることや小説に感動することなど、感情には対象が必要である。
では、果たして「感じる」という事象は、外部の対象によって起動された自動プロセスなのか、それとも自動プロセスが起動されたのちに辻褄合わせの様に外部の対象に結び付けられるのか、どっちが先かというとなかなか難しいところだと思う。どちらかというと前者の方が常識的な見方かもしれない。美しい絵を見たから「美しい」と感じたのであって、その逆ではないはずだ。しかし、自動プロセスによって想起された感情によって、周囲の状況とマッチするように状況が取捨選択され、それが体験として認識されるということはないのだろうか。例えば、「美しい」という感情が心の中に湧き上がってくると、何となく上野の美術館に行きたくなって、そこで見たゴッホの絵を見て感動する、みたいに。表面的には美術館で傑作を見たから美しいと思ったということになるけれど、本当は「美しい」という感情の方が先にあったということはあり得る気がする。
もし、そうだとすると、もし自動的な感情を何とかしてコントロールすることができれば、自分の目の前で起こる経験をも制御することができるのかもしれない。もちろん、自動的な感情をコントロールするというのは矛盾したステートメントである。自動的なものは制御できない。でも、人々は長い歴史の中でそれにチャレンジしてきたようにも思える。座禅などの瞑想や、リラクゼーション、運動など、精神的な安定のための方法が様々提案されているし、最近は不調をきたした精神に対する投薬も行われている。自動的な感情プロセスの起動には体のフィジカルな部分も含めて様々なファクターが関与しており、そうした因子を制御することにより感情の自動プログラムをコントロールしようとしているのである。
異常気象や天変地異、政治不信に紛争の長期化。皆、それぞれの人の感情とは別のところで起こっている事実の様に思っているけど、もしかするとそれぞれの個人の心の中で発動している感情ソフトウエアによって自らが拾い上げているにすぎないのかもしれない。
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