八障連通信340号をアップします。
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八障連通信340号【音声版はこちらから】
・事務局通信Vol.53【音声版】
・編集部より【音声版】
・連載コラム 『日々のなかから、』 <心の貯金> Vol.44 八障連代表 杉浦 貢【音声版】
・連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 25【音声版】
・電動車椅子 最近の「傾向と対策」八障連代表 杉浦 貢【音声版】
・事務局からのお知らせ【音声版】
ここからは通信本文です。
【事務局通信Vol.53】
台風が続き、各地に爪痕(つめあと)を残しています。いまだに西日本、北海道の被災地では復興のために被災者やボランティアの方々が協力して進めているようです。被災地では、健常者もそうですが障害をお持ちの方や高齢者の方々で自宅等戻れる状態になく、避難所生活を余儀なくされている方々が少なくないと聞いております。日常の生活ができず不便な状態、周りとの仕切りが簡易なためプライベートは保てないというストレスフルな環境。場合によっては次の生活の場所が見つからず、避難所生活が長期化するケースも少なくはないと聞きます。熊本地震や今年の西日本の豪雨被害、北海道地震と経験をしていく中で、被災していない地域は、なかなか避難後の整備について準備等できていないのも現実。地域でできるケアや対策というものを本当に考え準備していかないといけないと考えます。被災に合われた方々が元の生活に近い状態に戻れるようお祈りいたします。
さて、話は変わりますが、災害時以外でも地域の連携体制や地域の理解...ということをよく耳にすると思います。言葉では簡単に言えますが、なかなか実現は難しくなっているように思われます。障害への理解などは多少の変化は出てきています。しかし、以前障害施設・団体は、市内で必要な社会資源を作る動きがあれば、障害種別関係なく協力し合えていたと思います。これは私個人が感じることではあるのですが、法改正が行われ、個々の施設の運営が大変になり、なかなか周りの施設との協力体制がとり辛くなってきているように思われます。施設としても働き手の方々を勤務時間後に地域の活動に参加させづらい環境になってきていることも理解しております。しかし、このような環境の中、老人福祉にて支援を行っている若手の方々が医療や行政、事業体の種別を超えて勉強会を開催しています。以前「障害分野は連携をしているけど、老人分野は連携していないよな」なんて私も思っていましたが、今は真逆。ましてや、事業者間の交流や意見交換のみではなく、私の参加している勉強会では地域の学生さんや商店街の店主や主婦などなど、ある意味各地域を構成している方々が参加しているのです。(文責/立川)
【編集部より】
八障連通信 340 号をお届けします。今号では「福祉懇談会にむけて」を特集記事として掲載予定でしたが、「障害福祉課」との調整が済んでいない現状があるとのことで、杉浦代表のコラムとしました。「福祉懇談会」関連の記事は、次号の特集となります。なお、福祉懇談会において取り上げてほしい課題がありましたら、事務局までお寄せください。/先号でセカンドハーベストジャパン(2HJ)についてお知らせしたが、さる 9 月27 日、「ほっと車」を走らせて、浅草橋の 2HJ へ食材を引き取りに行ってきた。ドライカレー・ドライチャーハンやモスバーガーの特製スープ(冷凍)、また大根、玉ねぎなどの野菜もあったので引き取ってきた。2HJ の皆さま、ありがとうございました。感謝(!)。 次回引き取りは 10/30 を予定してま~す。また、この訪問で驚いたのは、2HJ への見学なのだろうか、世界各地から大勢の方が訪れていたことだ。2HJ の活動は世界的にも注目されているのですね。(Y)
【連載コラム 『日々のなかから、』 <心の貯金> Vol.44 八障連代表 杉浦 貢】
先天性の重度脳性麻痺(じゅうどのうせいまひ)に起因して、心身にかかる負担が大きすぎるために、長時間働いたりすることがなかなか難しい私なのですが、感情面の労働については、かなり数をこなしている自信があります。自宅に来てくれるヘルパー。時に私的な時間まで共有することもあるボランティ
ア。そして、同じ地域で暮らしている近隣のみなさま。私は日々、こうした人々の支援のおかげで生活しています。物理的な支援のみならず、善意や厚意を受け取ることによる、心の癒(い)やしも受け取っているのです。これには本当に、感謝しかありません。社会的な立場で言えば、私は《支援の受け手》ではありますが、必然的に顧客である私にも感情労働の義務が生じるワケです。すなわち、受けた厚意には厚意を、善意には善意で返す義務であります。物品で返すわけではありません。過去何度か感謝を品物で返そうとしたことがありましたが、いずれの場合も、《こんなものがもらいたくて、アナタに親切にしたのではない》と怒られてしまいました。
以来、人の真心にどう応え、どう形に出すかということに、人一倍こだわって生活しています。小学校や中学校に授業にいく際にも、身体に障害を持つことの不便さ不自由さばかりを語るのでなく、どうしたら子どもたちが自分と接点を持ってもらえるか。彼ら彼女らが将来福祉や医療に関わる事がないとしても、困ってる人や悩んでる人に手を差し伸べる事。人としての支え合い、助け合いが大切である、ということをどう分かりやすく伝えるか、いつも神経を使います。好きでやっている事だし、十分意義も感じているから苦にはならないのですが、終わった後はいつも精神的な疲労でヘトヘトになります。街に出ているときにも、道を空けてもらったとき、エレベーターのスペースを開けてもらったとき、等々。あらゆる場面でなるべく声に出してお礼を言うよう、心がけています。毎日誰かにお礼を言わない日はないくらいの生活なので、正直ウンザリする日もありますが、自分で決めたルールだからこそ、手は抜きたくないのです。
ある年、ある日の昼すぎに、こんな事がありました。知人に手紙を出そうと思い立ち、レターセットを買いに駅前の大型店へ。買い物を終えてエレベーターに乗ろうとしたとき、「乗せてください、お願いします」と自分で声をかけました。すると、先に乗っていたおばさんが私に『アナタは偉いわね。ちゃんと挨拶(あいさつ)が出来るのねえ』と一言。こちらを褒(ほ)めたつもりなのだったのでしょうが、私は腹が立ちました。何かあるときに一声かけるのは、義務以前に常識の範囲内であるし、子どもに言うような褒(ほ)められ方をして、その時とっくに大人になっていた私が喜ぶと思っているようなのが、すごく不快でした。それでも、イラッとする気持ちをぐっと抑え、あたりまえのことですよ、というと、『親切にされるのが当たり前と思っている障害者も多いのよ。えらいわ』とおばさん。確かに、行き過ぎた被害者意識、ひがみ根性が凝り固まって、親切にしてくれた人にまで牙(きば)を剥(む)いて唸(うな)るような...私とはずれた感性の障害者もいます。自分の身近にそんなのがいたら、私もソイツに怒鳴っていたでしょうが、このおばさんの一言も、私という人間を心の中で見下していて、自分が対等の人間として見られていないと感じました。心底ムッとしていましたが、狭いエレベーターの中で口喧嘩をするのもみっともない。善意の受け手としてより良くありたいと思うなら、発する言葉に精一杯の気持ちを込めなければ失格なのですが、この時ばかりは、そっちで勝手に勘違いするなら好きにしろ、と思いながら、気の入らない形ばかりの丁寧なお礼を言って頭を下げました。どうにか我慢ができたのも、日頃蓄えておいた心の貯金のおかげだったと思うのです。減った残高は、喫茶店に寄り道してチョコパフェ食べることで穴埋めしました。
この出来事があってから、私は他者を、自分の勝手な思い込みで見下さないように気をつけています。自分がされてイヤだったことは、他の人にもしたくないですからね。
【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 25】
身の周りにある細菌やウイルスなどの病原体が病気を引き起こすが、自分自身の体内にも細胞分裂の異常に起因する癌(がん)などの病気も発生する。これらの異常を監視し、攻撃して排除する仕組みを免疫システムと呼び、この免疫の不断の活躍で私たちの健康は守られている。先日ノーベル賞を貰(も)っ
た本庶氏は免疫を司(つかさど)る物質のひとつである「PD-1」を発見され、「オプジーボ」という治療薬を開発する糸口になった。インターフェロン(以下 IF)も同じく免疫を司(つかさど)る物質のひとつであり、生体がウイルスに感染した時に細胞が反応して産出される蛋白質(たんぱくしつ)である。その存在をはじめて発見したのも日本人であり、僅(わず)か半世紀ほど前の 1954 年のことである。ウイルスが増殖するのを抑える作用があるので、「邪魔する」
(interfere:インターフェアー)という意味で IF と名づけられた。しかし、それが医薬品として使われるようになるまでには、30 年ほどの歳月が必要だった。遺伝子組み換え技術が確立され、大量に複製することが可能になって、やっと IF 製剤として普通に使われるようになったのである。
私がインターフェロン療法を始めた 1987 年時点では IF はとても高価なもので、薬としての認可も未(ま)だされておらず、投与方法(量、期間など)も手探り状態の段階にあった。現在、標準的な治療法として、長期でも72 週(平均的には 24 週)投与とされているが、私は実に 3 年 9 ヶ月にわたって IF を打ち続けている。始めの8 ヶ月は 1 週間に 2 回、その後週 1 回になり、1987 年の 10 月から 1990 年 10 月 31 日までは 2 週間に1 回の割合であった。IF は今では何種類かの薬があるが、当時は開発途上で、私の場合は途中から薬剤を最新のものに変更されたような記憶が曖昧(あいまい)だがある。治験患者として正にモルモット状態だった。
治験患者としてのデータ収集の為に、最初の注射時には高熱が出るが、何度まで上がるか測定したいので、できるだけ我慢をして欲しいと頼まれていた。IF は体内で産出される身体にとって馴染(なじ)みのある物質ではあるのだが、外部から大量に投与されるとなると、劇薬と化す。つまり副作用が強く出るのである。短期、中期、長期にわたっていろんな副作用が出ることが今では分かっているが、当時分かっていないことも多かった。最初の注射は 1987 年 1 月 28 日の 4 時過ぎであった。注射自体も結構痛かったが、直ぐに身体の真底からじわーっと不愉快な感じが沸き起こってきた。インフルエンザに罹(かか)った初期の感じを少し強くした感じだろうか。正に悪心である。脈が大きく打ち出し、速くなっていった。結果的には 39.9°Cまで我慢したが、頭も身体も内部から爆発しそうな胸苦しさに Ns に連絡を取って貰(もら)って、座薬挿入の許可を得た。身体全体のだるさ、倦怠感(けんたいかん)もひどく、生きた心地がしなかった。食い意地の張ったグルメ通の私もその日の夕飯は食べなかったように記憶している。
このような注射をお尻に 4 年近くも打つのは恐怖でもあったが、Dr が言っていたように、段々身体が慣れてきて、副作用の強さは少しずつ弱くなっていった。しかし、注射をした後は何もする気にはなれないので、できるだけ夜に近い時間にしてもらい、早く床に就(つ)くことにした。フェロンじゃなく、フェロモンなら喜んで続けられたろうになぁ~?
【電動車椅子 最近の「傾向と対策」八障連代表 杉浦 貢】
少し前のお話になりますが...2017 年 11 月 16 日の日刊工業新聞に 6輪の電動車椅子が JIS(日本工業規格)化に制定されたことが載りました。
6輪型は駆動輪の前方と後方に一組ずつキャスターを備えたもので、通常の 4輪型(後輪駆動電動車椅子)に比べて小回りが効き、旋回半径が 4 輪型の約半
分で済みます。旋回半径が 4 輪型の約半分で済みますので、エレベーターをはじめ駅や商業施設などのスペースが限られる場所で使いやすく、狭い日本の住環境や職場環境ではとても大切な規格です。既にアメリカでは 6 輪型の販売は、通常の 4 輪型(後輪駆動電動車椅子)の 2倍以上になっています。経産省は2020年の東京五輪・パラリンピックを見据え、6輪型の普及を促進し、外国人観光客の誘致環境を整えるつもりのようです。
在、6輪型を手がける国内メーカーは、また、現在、国内では6輪型を手がける国内メーカーはまだ少なく、さいとう工房(東京都墨田区)など数少ない企業に限られます。18年3月には、新規格が正式に制定・公示されたようです。今後この規格が広まれば、補装具の対象にも繋(つな)がり、大手企業などが参入する可能性も生まれ、多くの方が狭い室内でも電動車椅子を利用できるようになると思います。
私も 8 年前から輸入品の海外製 6 輪電動車いすのユーザーなのですが...狙(ねら)ったコーナーでキッチリ曲がる。小回りが利いてクリクリ動く。幅寄せの時にも面倒くさい切り返しが要らないなど、とても便利なのです。自分の身体の一部のように動いてくれます。なにより助かるのは...小中学校の狭い廊下、教室の小さな入り口などにも、すんなり入れること。学校訪問時の強い味方です。弱点としては、角度が急で長さが短い簡易スロープ(バリアフリー対応の路線バス=ノンステップバスなどのスロープ)を登るのが苦手というところですかね。
そろそろ、新車に乗り換えたいなと考えています。次の愛車も 6 輪型にする予定です。医師の判定など、複雑なやりとりもこなさないといけませんが、今から楽しみです。
【事務局からのお知らせ】
『保健福祉センターの運営協議委員』の任期が 2018 年 10 月できれます。現在ポリオの会八王子の鈴木房子氏が在任中ですが、新たに引き受けていただける方を公募いたします。お引き受け可能な方は事務局まで連絡ください。(事務局/有賀)
通信本文はここまで。
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・編集部より【音声版】
・連載コラム 『日々のなかから、』 <心の貯金> Vol.44 八障連代表 杉浦 貢【音声版】
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・電動車椅子 最近の「傾向と対策」八障連代表 杉浦 貢【音声版】
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ここからは通信本文です。
【事務局通信Vol.53】
台風が続き、各地に爪痕(つめあと)を残しています。いまだに西日本、北海道の被災地では復興のために被災者やボランティアの方々が協力して進めているようです。被災地では、健常者もそうですが障害をお持ちの方や高齢者の方々で自宅等戻れる状態になく、避難所生活を余儀なくされている方々が少なくないと聞いております。日常の生活ができず不便な状態、周りとの仕切りが簡易なためプライベートは保てないというストレスフルな環境。場合によっては次の生活の場所が見つからず、避難所生活が長期化するケースも少なくはないと聞きます。熊本地震や今年の西日本の豪雨被害、北海道地震と経験をしていく中で、被災していない地域は、なかなか避難後の整備について準備等できていないのも現実。地域でできるケアや対策というものを本当に考え準備していかないといけないと考えます。被災に合われた方々が元の生活に近い状態に戻れるようお祈りいたします。
さて、話は変わりますが、災害時以外でも地域の連携体制や地域の理解...ということをよく耳にすると思います。言葉では簡単に言えますが、なかなか実現は難しくなっているように思われます。障害への理解などは多少の変化は出てきています。しかし、以前障害施設・団体は、市内で必要な社会資源を作る動きがあれば、障害種別関係なく協力し合えていたと思います。これは私個人が感じることではあるのですが、法改正が行われ、個々の施設の運営が大変になり、なかなか周りの施設との協力体制がとり辛くなってきているように思われます。施設としても働き手の方々を勤務時間後に地域の活動に参加させづらい環境になってきていることも理解しております。しかし、このような環境の中、老人福祉にて支援を行っている若手の方々が医療や行政、事業体の種別を超えて勉強会を開催しています。以前「障害分野は連携をしているけど、老人分野は連携していないよな」なんて私も思っていましたが、今は真逆。ましてや、事業者間の交流や意見交換のみではなく、私の参加している勉強会では地域の学生さんや商店街の店主や主婦などなど、ある意味各地域を構成している方々が参加しているのです。(文責/立川)
【編集部より】
八障連通信 340 号をお届けします。今号では「福祉懇談会にむけて」を特集記事として掲載予定でしたが、「障害福祉課」との調整が済んでいない現状があるとのことで、杉浦代表のコラムとしました。「福祉懇談会」関連の記事は、次号の特集となります。なお、福祉懇談会において取り上げてほしい課題がありましたら、事務局までお寄せください。/先号でセカンドハーベストジャパン(2HJ)についてお知らせしたが、さる 9 月27 日、「ほっと車」を走らせて、浅草橋の 2HJ へ食材を引き取りに行ってきた。ドライカレー・ドライチャーハンやモスバーガーの特製スープ(冷凍)、また大根、玉ねぎなどの野菜もあったので引き取ってきた。2HJ の皆さま、ありがとうございました。感謝(!)。 次回引き取りは 10/30 を予定してま~す。また、この訪問で驚いたのは、2HJ への見学なのだろうか、世界各地から大勢の方が訪れていたことだ。2HJ の活動は世界的にも注目されているのですね。(Y)
【連載コラム 『日々のなかから、』 <心の貯金> Vol.44 八障連代表 杉浦 貢】
先天性の重度脳性麻痺(じゅうどのうせいまひ)に起因して、心身にかかる負担が大きすぎるために、長時間働いたりすることがなかなか難しい私なのですが、感情面の労働については、かなり数をこなしている自信があります。自宅に来てくれるヘルパー。時に私的な時間まで共有することもあるボランティ
ア。そして、同じ地域で暮らしている近隣のみなさま。私は日々、こうした人々の支援のおかげで生活しています。物理的な支援のみならず、善意や厚意を受け取ることによる、心の癒(い)やしも受け取っているのです。これには本当に、感謝しかありません。社会的な立場で言えば、私は《支援の受け手》ではありますが、必然的に顧客である私にも感情労働の義務が生じるワケです。すなわち、受けた厚意には厚意を、善意には善意で返す義務であります。物品で返すわけではありません。過去何度か感謝を品物で返そうとしたことがありましたが、いずれの場合も、《こんなものがもらいたくて、アナタに親切にしたのではない》と怒られてしまいました。
以来、人の真心にどう応え、どう形に出すかということに、人一倍こだわって生活しています。小学校や中学校に授業にいく際にも、身体に障害を持つことの不便さ不自由さばかりを語るのでなく、どうしたら子どもたちが自分と接点を持ってもらえるか。彼ら彼女らが将来福祉や医療に関わる事がないとしても、困ってる人や悩んでる人に手を差し伸べる事。人としての支え合い、助け合いが大切である、ということをどう分かりやすく伝えるか、いつも神経を使います。好きでやっている事だし、十分意義も感じているから苦にはならないのですが、終わった後はいつも精神的な疲労でヘトヘトになります。街に出ているときにも、道を空けてもらったとき、エレベーターのスペースを開けてもらったとき、等々。あらゆる場面でなるべく声に出してお礼を言うよう、心がけています。毎日誰かにお礼を言わない日はないくらいの生活なので、正直ウンザリする日もありますが、自分で決めたルールだからこそ、手は抜きたくないのです。
ある年、ある日の昼すぎに、こんな事がありました。知人に手紙を出そうと思い立ち、レターセットを買いに駅前の大型店へ。買い物を終えてエレベーターに乗ろうとしたとき、「乗せてください、お願いします」と自分で声をかけました。すると、先に乗っていたおばさんが私に『アナタは偉いわね。ちゃんと挨拶(あいさつ)が出来るのねえ』と一言。こちらを褒(ほ)めたつもりなのだったのでしょうが、私は腹が立ちました。何かあるときに一声かけるのは、義務以前に常識の範囲内であるし、子どもに言うような褒(ほ)められ方をして、その時とっくに大人になっていた私が喜ぶと思っているようなのが、すごく不快でした。それでも、イラッとする気持ちをぐっと抑え、あたりまえのことですよ、というと、『親切にされるのが当たり前と思っている障害者も多いのよ。えらいわ』とおばさん。確かに、行き過ぎた被害者意識、ひがみ根性が凝り固まって、親切にしてくれた人にまで牙(きば)を剥(む)いて唸(うな)るような...私とはずれた感性の障害者もいます。自分の身近にそんなのがいたら、私もソイツに怒鳴っていたでしょうが、このおばさんの一言も、私という人間を心の中で見下していて、自分が対等の人間として見られていないと感じました。心底ムッとしていましたが、狭いエレベーターの中で口喧嘩をするのもみっともない。善意の受け手としてより良くありたいと思うなら、発する言葉に精一杯の気持ちを込めなければ失格なのですが、この時ばかりは、そっちで勝手に勘違いするなら好きにしろ、と思いながら、気の入らない形ばかりの丁寧なお礼を言って頭を下げました。どうにか我慢ができたのも、日頃蓄えておいた心の貯金のおかげだったと思うのです。減った残高は、喫茶店に寄り道してチョコパフェ食べることで穴埋めしました。
この出来事があってから、私は他者を、自分の勝手な思い込みで見下さないように気をつけています。自分がされてイヤだったことは、他の人にもしたくないですからね。
【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 25】
身の周りにある細菌やウイルスなどの病原体が病気を引き起こすが、自分自身の体内にも細胞分裂の異常に起因する癌(がん)などの病気も発生する。これらの異常を監視し、攻撃して排除する仕組みを免疫システムと呼び、この免疫の不断の活躍で私たちの健康は守られている。先日ノーベル賞を貰(も)っ
た本庶氏は免疫を司(つかさど)る物質のひとつである「PD-1」を発見され、「オプジーボ」という治療薬を開発する糸口になった。インターフェロン(以下 IF)も同じく免疫を司(つかさど)る物質のひとつであり、生体がウイルスに感染した時に細胞が反応して産出される蛋白質(たんぱくしつ)である。その存在をはじめて発見したのも日本人であり、僅(わず)か半世紀ほど前の 1954 年のことである。ウイルスが増殖するのを抑える作用があるので、「邪魔する」
(interfere:インターフェアー)という意味で IF と名づけられた。しかし、それが医薬品として使われるようになるまでには、30 年ほどの歳月が必要だった。遺伝子組み換え技術が確立され、大量に複製することが可能になって、やっと IF 製剤として普通に使われるようになったのである。
私がインターフェロン療法を始めた 1987 年時点では IF はとても高価なもので、薬としての認可も未(ま)だされておらず、投与方法(量、期間など)も手探り状態の段階にあった。現在、標準的な治療法として、長期でも72 週(平均的には 24 週)投与とされているが、私は実に 3 年 9 ヶ月にわたって IF を打ち続けている。始めの8 ヶ月は 1 週間に 2 回、その後週 1 回になり、1987 年の 10 月から 1990 年 10 月 31 日までは 2 週間に1 回の割合であった。IF は今では何種類かの薬があるが、当時は開発途上で、私の場合は途中から薬剤を最新のものに変更されたような記憶が曖昧(あいまい)だがある。治験患者として正にモルモット状態だった。
治験患者としてのデータ収集の為に、最初の注射時には高熱が出るが、何度まで上がるか測定したいので、できるだけ我慢をして欲しいと頼まれていた。IF は体内で産出される身体にとって馴染(なじ)みのある物質ではあるのだが、外部から大量に投与されるとなると、劇薬と化す。つまり副作用が強く出るのである。短期、中期、長期にわたっていろんな副作用が出ることが今では分かっているが、当時分かっていないことも多かった。最初の注射は 1987 年 1 月 28 日の 4 時過ぎであった。注射自体も結構痛かったが、直ぐに身体の真底からじわーっと不愉快な感じが沸き起こってきた。インフルエンザに罹(かか)った初期の感じを少し強くした感じだろうか。正に悪心である。脈が大きく打ち出し、速くなっていった。結果的には 39.9°Cまで我慢したが、頭も身体も内部から爆発しそうな胸苦しさに Ns に連絡を取って貰(もら)って、座薬挿入の許可を得た。身体全体のだるさ、倦怠感(けんたいかん)もひどく、生きた心地がしなかった。食い意地の張ったグルメ通の私もその日の夕飯は食べなかったように記憶している。
このような注射をお尻に 4 年近くも打つのは恐怖でもあったが、Dr が言っていたように、段々身体が慣れてきて、副作用の強さは少しずつ弱くなっていった。しかし、注射をした後は何もする気にはなれないので、できるだけ夜に近い時間にしてもらい、早く床に就(つ)くことにした。フェロンじゃなく、フェロモンなら喜んで続けられたろうになぁ~?
【電動車椅子 最近の「傾向と対策」八障連代表 杉浦 貢】
少し前のお話になりますが...2017 年 11 月 16 日の日刊工業新聞に 6輪の電動車椅子が JIS(日本工業規格)化に制定されたことが載りました。
6輪型は駆動輪の前方と後方に一組ずつキャスターを備えたもので、通常の 4輪型(後輪駆動電動車椅子)に比べて小回りが効き、旋回半径が 4 輪型の約半
分で済みます。旋回半径が 4 輪型の約半分で済みますので、エレベーターをはじめ駅や商業施設などのスペースが限られる場所で使いやすく、狭い日本の住環境や職場環境ではとても大切な規格です。既にアメリカでは 6 輪型の販売は、通常の 4 輪型(後輪駆動電動車椅子)の 2倍以上になっています。経産省は2020年の東京五輪・パラリンピックを見据え、6輪型の普及を促進し、外国人観光客の誘致環境を整えるつもりのようです。
在、6輪型を手がける国内メーカーは、また、現在、国内では6輪型を手がける国内メーカーはまだ少なく、さいとう工房(東京都墨田区)など数少ない企業に限られます。18年3月には、新規格が正式に制定・公示されたようです。今後この規格が広まれば、補装具の対象にも繋(つな)がり、大手企業などが参入する可能性も生まれ、多くの方が狭い室内でも電動車椅子を利用できるようになると思います。
私も 8 年前から輸入品の海外製 6 輪電動車いすのユーザーなのですが...狙(ねら)ったコーナーでキッチリ曲がる。小回りが利いてクリクリ動く。幅寄せの時にも面倒くさい切り返しが要らないなど、とても便利なのです。自分の身体の一部のように動いてくれます。なにより助かるのは...小中学校の狭い廊下、教室の小さな入り口などにも、すんなり入れること。学校訪問時の強い味方です。弱点としては、角度が急で長さが短い簡易スロープ(バリアフリー対応の路線バス=ノンステップバスなどのスロープ)を登るのが苦手というところですかね。
そろそろ、新車に乗り換えたいなと考えています。次の愛車も 6 輪型にする予定です。医師の判定など、複雑なやりとりもこなさないといけませんが、今から楽しみです。
【事務局からのお知らせ】
『保健福祉センターの運営協議委員』の任期が 2018 年 10 月できれます。現在ポリオの会八王子の鈴木房子氏が在任中ですが、新たに引き受けていただける方を公募いたします。お引き受け可能な方は事務局まで連絡ください。(事務局/有賀)
通信本文はここまで。