
先週の土曜、引っ越しがやっと終わった
Last Saturday, moving finally finished
新しい住まいで二日目を迎えている
Having second day in my new residence
窓からは何百年の木々が見え
I can see hundreds of years old trees from the windows
春の花が咲き始めている
Spring flowers has begun to bloom
夜になると完璧な暗闇で
When night comes, it is perfectly dark
灯りが全くないから夜空の星が良く見える
Can see stars well in the night sky because of there is no lights
何万億光年前の星の光を見ている
Watching the star light of ten billion light years lighted
この家にいると
Be in this house
『次はより良く』という心の言葉が出てこない
The inner voice of 『Make next better』is gone
死ぬ時が来たら完璧に受け容れられる
When the time to die comes I will accept perfectly
求めてきたものが全て満たされ
What I have been wanting at all are satisfied
居たかった場所に今いる
I am at the place when I have been wanted
夜中の空気は清く澄んで
The night air is purely cleared
吸うと木の根のように足元から地に延びていく感じがする
When I inhale, it I feel like rooting to the ground from my feet
着くべき終点について
I reached at terminus point where I should be
これからは今まで背負ってきた荷物を降ろしていく
Now on I will do unloading burden that I have been carrying
凄すぎ・・・・100点満点。
偏差値75間違いなし。
いや違う!!300点進呈!!
この世の平均点が20点とすれば、
偏差値=50+(300-20)/2=190、わォ!!
此処だったら誰にはばかる事無く、認知症予防対策歩行運動が開始出来ますね・・・
家の周りを一回10分、一日3回グルッと何周かして、
(多少早めに)大股歩き(=有酸素運動)して、10,9,8,7、~~、3,2,1,10、9、8、~~、1、10~~、~~と頭の中で逆算しつずけて(一歩one数字)、
二つ飛びの数字を大きな声で天に向かって叫ぶ!!
例えば、10(声)・・・7(声)・・・4(声)・・・1(声)・・・8(声)・・・5(声)~~、~~の様に(注;Tは有言タマ実行ジャガイモ!!)。
注;原型話は曜日の逆算であったが曜日の逆算は最初からやるのはかなり難しいと思ったのでTが改変した。
良い日差しならセロトニン分泌上昇は確定的なり!!
幸福度増進も確定的ナリ!!
正常睡眠、清浄便通も確定的な理!!
脳を使い続ける・・・@しゅうてんハウスで水平飛行。。。。
Only T with us in this blog town.
Lazyしたいのですが、まだカーテンを注文してなくて日が射してきてもう眠れないですけどね。
(ФωФ)フフフ・・・
清浄便通も確定的にツウジています((ΦωΦ)フフフ…
@しゅうてんハウスで水平飛行
(Tよ!水平飛行のための翼をください)
カンニングしていなかったかCIAが調査にきて審問されて、嘘探知機で陰性が出たから、名誉回復できましたけど、今思うと当時は勉強ゼロだったのに、解答が全部見えてましたね。
以後、世を騒がすのも面倒くさくなって平均点少し上をキップするようになりましたね。
よい時代でしたね。
暗記だけで点数取れる時代でしたね。
Tは100点じゃないとテスト受けなかったとかの噂ですが??
幾つかの期末試験(解剖学とか動物学とか生理学的心理学など)の時に時間が足りなくて(=速読力不足)、もっと時間を呉れと言ったら、どの教授も自分(=教授)の部屋で続けろとか、そのまま教室に残って、私一人だけでやれといって受験続行させて呉れました(=終わったら教官の処に提出する形・・・)。
なんて懐が広いんだろうと何回も感激した想い出がありますね。
だって幾らでもカンニングして100点取れるチャンスがあるわけで・・・
それを私を100%信頼してくれるんですから・・・・。
B.日本の大学(工学部)1年生の時の英文学のクラスで100点を取った事を思い出します。通年教材は「Marius,The Epicurean」(快楽主義者マリウス)で教授皆の前で曰く、「こんな難解な(英文)哲学書で100点を取るなどは、今迄で初めてだ。英文科の生徒でも未だに100点取った生徒はいなかった」と・・・。
処がそれには深い事情が在ったのです(じゃじゃ~~ん!!)。
それは、マリウスが言う、「この世の中に、我が教えこそ真理だと自称する宗教が沢山あって、
それならこれこそが正真正銘な真理だと言える唯一の宗教というモノが此の世に存在し得るものなのか??」と煩悶する処が、私にとっては妙に気にいってしまって、構内図書館で見つけた分厚い翻訳本を予め通読していたからでした。
当時私は、我が教派こそは唯一絶対の真理を掲げる教会であるという原理主義的キリスト教団に属していて、汚れ満ちた世俗から孤立無縁していましたから、
このマリウス・ザ・エピキュリアンは一生心に引っかかる本となった訳です。
エピクロス(エピキュリアン派の祖師)の信条は、肉体的快楽を抑える事による精神的自由こそが真の快楽であるという思考方式ですから、
ある時恐山ブログで釈迦にそっくりだと書いたら、コメ者の誰かから「イヤまったく違う。釈迦には勝義諦がある!!」と反論を喰らった事がありましたね。
勝義諦とは「言葉で言い表せない絶対的真理」らしいですね(=東洋的仏教専門用語『不言真如』に相当)。
『肉体的快楽を抑える事による精神的自由こそが真の快楽であるという思考方式』私も10代から今までやってきている思考方式に似てますね。
体を喜ばせることを徹底的に控えて、
肉体的快楽は必要最低限に抑えていますが、
どれも個人レベルのモットみたいな、決め事だから宗教とはほど遠いといえば、まあ~そうですけどね。
快楽を求めて行為をした覚えがあまり無いのは事実です。
楽にいると罪意識みたいなのがむずむずしていてられないですよね。
私の父の教えその①
そんなにぼけっといるなら本でも読め
その②
勉強に参考書は要らない、教科書に全て書いてある、分かるまで読め
その③
お金が無いから病気になるな
父のその①の裏の本当の意味(理由)
常に仕事しろ、時間を無駄にするな
②の本当の意味
参考書を買うお金が無い
その③の本当の理由
健康保険に入ってなかった
それにしても、急に父の教えを振りかえてみると、一家の父親として教えるべきことを教えたように思えますね。
Tのコメントはいつも私の裏の脳を刺激して、外から開けてくれる感、ありますね。
常に何かの本を持ち
ランチタイムにも本を副菜にして齧り、
辞書類(Googleが無かった時代)を詰めたバックを肩に掛けて(バックの紐が切れたことは数回)
歩く時も暗記したものを確認して、
試験の時は鬼のように書きまくる!
試験後はAの数を稼ぎ、
次回のAll Aへのまっしぐら!
女の子とも遊べばず、修行そのもの!
そうでしたよね????
そんな諦があったのですね。
何か、それって
E=mc²な感じしますね。
世俗の言葉では語り得ない究極の深遠真理を「勝義諦」と言うというのが佛教体制派の言い分だよね。
で、高橋氏が言うには、それ故に、勝義諦を無理して言葉で表現しようとすると、結局それは世俗諦に変化してしまうじゃね~か・・・という訳だよね。
じゃあ恐山禅師は何て言っているかと言うと、
表現できない真理は真理じゃないという反体制側見解をもっていて、兎に角七転八倒しながらでも言語体系の中で表現せねばならんのだ・・・と言っているよね。
(注;ちなみに、西洋哲学での『真理』の定義は言葉で表現できる事が前提条件にある。なぜなら表現された言語で無ければ第三者が認定合意出来ないからね)。
そこで「勝義諦」に対する恐山禅師の定義は「相依性縁起」の事だといっているよね。
つまり「勝義諦とは、現象生起の因果関係がめぐるましく入れ替わって、因と果がお互いに影響しあって、どちらが因でどちらが果とは見分けられない状態の事」という定義を与えているようだよね(=恐山見解)。
ならTとしてはなるほどそうだよねと(納得+了解)²の二乗則を直ちに発令できるから、
「な~んだ、そんなことが、仏教徒の宝である勝義諦かァ~」で終わってしまうというものだよね。
それだったらやっぱりエピクロスのエピキュリア二ズムと全然違わないじゃん!!とかね。
仏教ってほんと複雑怪奇だよね。
ところで2Rの法則というよりR²の法則のほうがレンさん向きだよね。
R²=(納得+了解)²
「言葉では言い表せない真理」なんていう事になったら、
それは本当に真理なのか、悪魔的欺瞞・謀り(たばかり)なのか、まったく意味の無い戯言(ざれごと)なのか夢遊病症候群なのかなんて、
第三者には判断付かない事だから、
ただ単に当事者の本人が好き勝手に命名しているだけな訳で、考え様によっては何か誤魔化された気分になる事はあるよね。
同じ類で、恐山禅師のいう、坐禅という特殊な身体技法で得る体験は、【変性意識だ】というのはどう考えても真理で在る訳だ。
彼が言う如く、それにどういう命名をつけるかは個人の嗜好に過ぎないのだという言い方は正鵠(せいこく)を得ているよね。
ある原始仏教ブログ管理者が「悟りを得た」って感激してた事が有ったけど、それを聞いた周りの人は醒めた反応を示していたよね。
その人が「自分は変性意識を体験した」と言ったのなら
勿論全ての人が同意する真理だけどね・・・
人の目は曇っているから「ありのままの世界」が見えていない。よって修行して眼の曇りを取り去れば、「ありのままの世界」が見えるようになる・・・という言い方のようだ。
ここで暗示している事は、KやEやTやZやバアヤが今見ている世界は「ありのままの世界」では無いと宣言している訳である。
レンさんの手にいれた新居は「ありのままの世界」で無いわけだ。手に触れている庭の木々も「ありのままの世界」で無い訳だ。
しかしそうであろうか???
そうではなくて、誰もがいま現在、見て触れて感じている、今現在のこの世界が、
自分にとってはそっくりそのままの、「ありのままの世界」という事で在るのだろう。
いま目の前にある世界が、偽の、虚構の世界だ、などと言う事は無いのであろう。
たとえ認知症の人にとっても、
一階段15cmを下りようとする時に、3階建てビルの屋上から飛び降りる様に見えてしまうのも、それが「ありのままの世界」で在り、
そばを歩いている猫が忽然と消えたり、空中を飛んで自分に飛び掛かって来るのをみるのも、
又、20年前に死んだ家族が目の前に立っている様にみえるのも、彼等にとっては、それが「ありのままの世界」にみえるわけである。
つまり人間の脳は常に真剣勝負で、脳が認識する「ありのままの世界」をみているという事だ。
さすれば【修行】とは、
Aの形をした「ありのままの世界」から、
Bの形をした「ありのままの世界」への視点の水平飛行を果たすという事で在ろう。
言い換えれば、
Aを描いていた脳回路を排して、Bを描く脳回路に切り替えるという事にすぎない。
現実の世界・宇宙の在り様は変わらない。脳の認識回路だけが変わると言う訳だ(=これは完全に心理学の世界だ)。
注:今回のコメの意図は、どこか遠くに「ありのままの世界」みたいなモノがあるとかではなくて、今此処に或るモノそのものが「ありのままの世界」であるのだという視点の水平飛行を試みたということだ(アア、気分が楽になった感じ!!)。
山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人の言う
アア、われ人と尋(と)め行きて
涙(😢)さしぐみ帰りきぬ
山のあなたになお遠く
「幸い」住むと人の言う・・・・
ではありましぇ~~ん!!。
「幸い」は今此処にレンさんの眼の前にある!!
手を延ばして、それを掴む(つかむ)のみ!!
R=mC²が発見されていたわけですね(per K²感性法則)。
「世俗諦」は世俗的・社会的・人間主体的に把握・受容【される世界】での真理なので、言語化されねばならぬのに対し、
「勝義諦」はそれを超越した(=~~【されない世界】での)【Theありのままの世界】の実相・真理を表す。
と定義されている訳ですから、
勝義諦は言葉で表現出来ない「ありのままの世界」、
すなわち
「山のあなた(=かなたむこう)の、更にあなたの、永遠にあなたの・・・空遠い向こう世界に存在するのが【ありのままの世界】となってしまう感じですね。
で、Tが【ありのままの世界】とは眼の前に現成している(=脳が実体験している)世界の事だとクレイムをつけ、
O(=恐山禅師)が相違性縁起の事だと言語化運動を起こした…と言う事になる訳です。
自分という物体(細胞の結晶体)が
草や木々の如く
石ころや
ザリの如く
地に落ちている葉っぱの如く
自然の部分の、欠片であるという現象として
自分を見る、ということです。
Tの観ている現象とも根本的に同じだと思います。
私は木であり
木は私でもある
私は石ころであり
石ころは私でもある
私はザリの一粒であり
ザリの一粒は私でもある
私は燃やすべき落ち葉であり
燃えていく落ち葉は私でもある
ですが、Tの想い描ける学問の絵は
私のものには決してならない
それが自他の区別であろう
なんか、偉そうに書いてみましたが、
『ありのままの世界』とは
木が木であり
私は生命体であり
四季は繰り返す、という
自然の摂理に入り込んでいく、そのことを言いたかったです。
昨夜は寝る前に前庭で走ってみましたが、
運動不足で息切れしちゃいました。
引っ越しで重労働するのはそんなに、ジムで体を鍛えるような種ではなさそうです。
悟ってないと思います。
本当に悟りに達しているなら
その頂点には
Tのいう『ありのままの世界』だろうから
それは今現在の世界と何の変わりのない世界なはずでしょう。
私は悟りに達してはいませんが
頭ではイメージすることはできます。
恐山のいう『変性意識』という言葉のアヤともみえる、捻くれた言葉遊びは
悟りを表現する絵のようなもので
悟りそのものを
表してはいないと思います。
悟りを得れば極楽浄土を見るという教えは、詐欺みたいな感じを受けなくもなく、
人を誘う意味ではいいと思いますが、
それに引かれていく人に取っては
餌に食いつく貪りとなんの変わりが無いと思います。
思うに、仏教の教えは矛盾も多く
真理も多く
作り話のようなストーリStoryも多いですね。
言いたかったのは
悟りを得たという人の話は
私はお金を得た、という話に似ていて
得てない人に取っては、全く、関係の無い自慢話に過ぎないということです。
私が最初に「ありのままの世界」という言葉に接した、乃至、その中身に深く触れたのは、鈴木隆泰氏の研究論文【「諸行無常」再考】を読んだ時でした。
ci.nii.ac.jp/naid/11000404047240
で出て来る画面での右端にある日本語文章部分をクリックすると論文全体が出てきます。
知っておくべき言葉として「サンスカーラ」がありますが、一応、念の為、意味を記すと、
「現世又は前世の経験が意識下(無意識)に刻み込まれたものを指し、その人の心の在り方や行動などを形成するもの」とされています。
だからいつも、ある状況になるとパターン化した決まった行動や心の態度を取ってしまう、自分ではそんな態度は取りたくないのに・・・。そんなコントロールの効かない自動化された反応、心の癖・・・の事を指している。
そんな事を『サンスカーラ』と言う訳だから、結局の処、人間はサンスカーラの支配下にあって、脳が物事を知覚する時は(自分好みの)虚像・幻想を創り上げるに過ぎなくて、【その人にとっての世界】を構成してしまう。
そういう「虚構の世界」である「その人にとっての世界」と、「ありのままの世界」の間のギャップが佛教的に言う「苦」をもたらす、と定義ずけている様です。
つまり、人がサンスカーラを発動させて構想した世界は自分の思い通りにならない、と言う事から発生して来るものが仏教の言う「苦」だから、
(真実の)現実認識(=ありのままの世界)と、サンスカーラの虚構世界(=その人にとっての世界)とのギャップを無くせば苦を厭離(滅尽)できる、となる。(注;此処では現実の世界は苦の世界では無い、脳の虚構の世界が苦を生産する世界だと言っている事に成る!!)
ーーーーーーー
左様な思考方式に対して、
T的には、脳の知覚認識作用は、
その人にとってはそのまま「ありのままの世界」と言う意味で在り、
仏教の言う天国的な特別の「ありのままの世界」(=勝義諦の世界)は、
心理学上の「ありのままA]から「ありのままB]への水平飛行なのだ、と言ってみた訳でした。
だってわざわざ「ありのままの世界」って別格扱いしてみてもねェ~??、・・・・脳にとっては今の儘感じるのが「ありのまま」だろうし、幽霊見るのだって「ありのまま」だし。。。。。脳的には「有りのまま」も、「有らんのまま」も、「嘘のまま」も区別出来無い訳だし・・・、
単に、今はこう思って、10分後にはああ思って・・・、という時間関数として「思う」事が変化するに過ぎない訳でして・・・
脳の見る世界はサンスカーラによる虚構の世界である。
だからサンスカーラを滅すれば「ありのままの世界」を見出せる。そうすれば人は「ありのままの世界」と調和出来るから苦の滅尽(めつじん)が出来る=悟り・解脱・涅槃を味わう・・・此れが仏教の教えで、
Tの疑問は、「ありのままの世界」とは、
脳科学的にどういう脳状態の事なのか(まさか右脳世界ではあるまい??)、
心理学的にどの様な意識状態(=意識構造)を指しているのか、
物理的な現世とどう関連しているのかが、
いま一つスッキリしない、という事。
という括り方は出来る訳だが、
そう言ってしまう事は「言葉で表現できない世界」という逃げを打った事に成る(と思う!!)。
仏教の究極の粋(釈迦の瞑想坐禅で体得した悟りの中身)である勝義諦とは、
世俗的・社会的・人間主体的に把握・受容される事を真向こうから拒否するTheTheThe「ありのままの世界」が現す実相・真理をさす。
mmmmmこれってわかったようで全然わからない。
この世に神がいないとすれば、すべて釈迦の脳内反応の枠内から出て来た概念であり、
釈迦の脳が知覚したこの感覚は、
それまでに釈迦が脳内に蓄積していた意識・無意識・潜在意識的な点・点・点の情報群から抽出され描き出された一枚の絵である筈であろう(2500年前の情報量は非常に限定的・局所的で在った)。
だから現代社会において、今、分かっているさまざまな情報・知識から「ありのままの世界」の解剖学・生理学を追求したいと思う訳であ~るあ~る(R²、ジャン!!)。
Tが共感したのも納得できます。
質量保存の法則から考えると
人が死んで炭素になり
その炭素が他の生命体に結合し、
これらのことから推慮すると
動物が生まれてからも
自ら生き方を知っているように
私達人間の意識は
前世で覚えたパータンを自然に思い出せるシステムに関連付けて考えられますね。
前世の記憶が現世に何らかの影響を及ぼすなら、
前世のありのままの状態は
前前世のありのままの状態に引きつられるとも言えるので
そうしたら
全人類は
現×前=前²
が成立するでしょうね??
TはR²を
私は現×前=前²を書いたから
これらも前世の成す技?
その気×根気×ウィット=MaxのN乗
同種の齟齬(そご)は、釈迦が言ったと言う『道理から【神は居る】と私は知る!!』とかの、
解った様な、しかし、有神論支持なのか無神論支持なのか実は全然分からない釈迦の言語が飛び出したりすのが仏教の難解さを生み出す。
(注:)釈迦は形而下学的に自らの体験から出て来た思考から、『我が体験から、~~は居る、または~~は居ない筈である』というのが常である訳だが、
「神の存在実存」については、
自らは体験・体感出来無い訳だから、
道理(=理屈)から考えて見ると『神は存在する筈だ』と釈迦が判断を下した、という解釈は充分ありえる。
では釈迦は有神論者になったと言う事であれば、
今迄の無神論派の仏教論理は破綻するように見える。
これは【縁起】の解剖学は何か??でも同じだし、
【空】の解剖学は何か??等の全てに共通する疑問を提起する。
結局の処、全て【無記】として黙して語らず・・・
全てが「言葉では表現できない真理なのじゃ!!」という域へと押し遣る事になりそうだ。。。
注;瞑想坐禅と仏教理論は別の物(byS長老)。
修所断の煩悩で
貪瞋痴&慢の執念深さに
辟易あるのレンさんが
その原因である
人間相手を極力避けて
隣家遠くあるが故
夜ごと完璧な暗闇で
地上の灯りが一切見えず
天空の星のみキラキラ輝く
そんなしゅうてんハウスで
ただひたすら独り
心静かに瞑想に耽り、
木と語らい、小石と語らい、星屑と語らって
もはや貪瞋痴慢も消えてなくなり
「ありのままの世界」に我が身を浸す
そんな世界をレンさんは見つけた
今、目の前にある
「ありのままの世界!!」
心の原風景
ゼロポイントの世界!!
いま此処からの新たな一歩
ペガサスに跨って天空を駆け巡る
黄金の翼をもった
星の如く輝く正義の女神
アルトライアこそが汝の前世
鈴木隆康氏の「諸行無常」再考は、日本仏教界体制派の打ち立てたThe【常識】に一石を投じる、即ち、あえて異論を唱えて見る(=それが「研究論文」というものの本質である)という点で、
初読の時点では共感を感じた・・・ということですね。今は多少違う視点から眺めている訳です。
我流南節仏教論にも同じ匂いがありますね。
しかし一旦それに慣れてしまうと、今度はそこには自分とは全く同一でない何かがあると気付くものです。
それは全く当然の事で、
それを自我というか、「自分」の再定義というか、自己の確立と言うか、新たな旅立ちと言うか、新発見と言うか、出藍の誉と言うか、ゼロポイントからの再出発というか、天上天我唯我独尊と言うか、~~、~~、
兎に角、誰かの考え方にベッタリにはなれない訳です。
実際恐山禅師自身も言った様に、自分にベッタリ張り付いて、自分の言いなりになる様な、あたかも神様を崇め奉るような妄信南教信者が出るのは「はなはだ気持ち悪い、はなはだ迷惑だ」みたいに言っている訳ですから、
批判精神こそが人間の持つべき精神的自由を担保しているのだと言う事なのでしょうかね。
あとは追求せずに「無記」を採用している様子だったけど、
彼の深層心理では【道理から『神は居る』と私は知る】と思って居るのかもしれない??
来るべき8月、我が黄金の翼を羽ばたかせての恐山訪問の際、しかと確認する必要がありそうですね、正義の女神アストライアー代理人様!!
(過って宝塚バレエ歌劇団員で今はジャーナリストの)遥(はるか)洋子さんの4月28日記事で、
『フランス語と大阪弁、目を見て話せば』(バレエ界の巨匠、マニュエル・ルグリ氏に「一流」を学ぶ)、
と言うのを読みました。
非常に興味深い内容でした。レンさんが以前書いていたバレエプリマの記事にじっくりと生命を吹き込んだ様に身近に思い出しました。一流とはこういう事なのだ・・・とか。
認知症患者の症状も人間関係の軋轢から深刻問題となる。
人間関係の軋轢を取り去れば、
仏教者は貪瞋痴慢から解放される。
認知症患者は自分らしい生き方を全うできる。
マッコト、仏教者の悟りと認知症患者の抑圧開放はよく似てる。
有神論者にとっては、「真理=神の意志」でザクッと言い切って仕舞えると思われる。
しかし無神論者にとっては、神羅万象全ての現象が「偶然」であるに過ぎず、根源的には無根拠で無意味で無価値なのだとしたら、「真理」と名付けるモノが存在出来得るのか??
しかも本来の『真理』の定義が、
確実な【根拠】に拠って本当であると認められたモノ、と言う事で在るならば、
いかにしたら「言葉では言い表せない真理」なるモノがが存在し得るのか??
まさに心理学者としてはお手上げだろう。
仏教学者の石飛道子女史の『釈迦と龍樹の論理学』とかの中では、
自転車に乗る事に喩えて、
言葉で説明解説された「自転車に乗る方法」が世俗諦の真理の事で、
実際に自分が自転車乗りを実体験した事で初めて理解出来る感覚的覚醒が、「言葉では表現できない真理」である「勝義諦」だと説明しているようだ。
では幾ら言葉で説明したとしても、一度もそれをしたことが無い人にとっては、その実状(内実)は分からないという論法で、
寝る事、朝起きる事、顔を洗う事、歯を磨く事、食事する事、噛む事、飲む事、歩く事、走る事、トイレに行く事と言う様な、およそ全ての日常動作でも、
言葉では言い表せない真実故に即ち勝義諦だ!!って言う訳なのだろうか??
・・・であるならば、
仏教定義では、全ての森羅万象はサンスカーラによって作り出された(脳の)虚構だという解釈だから、
ではその虚構の中の何処に【本当である】【真実である】【真理である】という現象が存在し得るものなのか??
「言葉では言い表せない真理」が脳の外に別途存在するのだという水掛け論に終わる様だ。
勝義諦=マミラピンアタパイ=何も言わずともお互い了解している事=目と目が見合って脳波が交信している様な感じ!!=一目ぼれ心理学(但しKには無縁じゃが・・・per K言語録)
ホモサピエンス・サピエンス(=現代人)のDNAを勝義諦と呼ぶなり・・・ということか!!
現世・前世の無意識の伝承であるサンスカーラそのもの。。。
そ~か、言葉で言い表せない究極の真理って、これネ!!
斯くて、「言葉で言い表せない」ことこそが「真理」の絶対条件だとかいう新説誕生・・・とか??
師匠どう?
Z(じー)やバーやはあまりに意味深!!
またまた認知症予防においしいコメント!!
『勝義諦=マミラピンアタパイ』
新語に新現象ですね。
脳波が交信するには
波長が同じ周波数になる必要があって
高い周波数、中間周波数、低い周波数の3つに便宜上区別されているようです。
確か記憶にしか、残っていないのですが、
その周波数について
ワークショップみたいな、スピーリチュアル系のYouTube動画を見たことを思い出せます。
その動画によると(2年前に1度みただけ)中間レベルの周波数のレベルに達した人は
高いレベルの周波数を発する人(ハイな性格、攻撃的、押しつけがましい性格)
低いレベルの周波数を発する人(鬱な性格、悲観過ぎる性格)達に影響されることなく
逆に彼らを中間レベルの周波数に誘う力を持つらしいです。
よって、脳波が交信することができる、と言っていましたね。
ちょっと、思い出したので因んで書いてみました。
既に『ある』大前提があるので
『無い』ことを証明する必要がありますね。
神が在ることを証明するのは科学では困難ですが、
かと言って、神が居ないことを証明するのも、それ以上に難しいようですね。
若かった頃、私は言葉で全て表せると思ってまして、実際それを可能しようと実践したことがあります。
結果、人から説教の鬼と言われただけで、
話しが長いと嫌われただけですけど、
試しただけでも私には意味がありましたね。
ことばで表現できない真理は無いと思いたいのですが、
それを証明できる論拠や論破する力量も無いので、せめて自分に限る経験談だけで我流に徹底するのみですけど。
ことばで表現できなかったら体で表現する
なので、表現できる!と言いたいです。
時代によって、バレエの世界での一流ランク付けは変わっていく感じがしますね。
ソビエト時代の一流のプリマバレリナーは
現代のバレリナーより
テクニックも違って、難易度も比較的に低く
身体条件も違って、Long足にもなっていない場合も多く観てると変な感じさえ受けるのです。
一時期、毎日バレエを観て研究した時があって、ソビエト時代のプリマバレリーナのYouTubeを片っ端から観てましたね。
がっかりすることが多かったです。
偉大だと言われていて観たら
実際はそんなに大げさに言ってるほどでなかったみたいな感じがしましたね。
一流も時代によって定義付けが変わって
10年前のバレエの一流とも大きく変わってましたけどね。
こんなに個人的な偏見のコメントを返してすみませんという感じですが、
バレエの一流にいる人は
一流を語らないです。
何故なら一流を『見せられる』からです。
誤解がある様なので補足します。
あの記事を書いた遥洋子さんが、インタビュー相手のxx氏を評して、流石(さすが)Theプロフェッショナル『仕事の流儀』は一流だな~と感激した・・・という意味です。
それは丁度プリマのOOさんの動作をみて、Kさんが感じた感激を、Kさんがそのプリマの事を「一流ってこういう事なんだなァ~」と思うのと同じ事でしょうね
「無常で無いかも!!」に触発されたアタマの体操・・・
「諸行非常」が釈迦の真意かもと思えて来た(by言葉を鍛え、思考を磨く!!)
その理由;
釈迦曰く、
A.「我が体験からは【アートマン】は見つけられなかった」=私が体験的に言える事は「~~はアートマンに非ず」=諸法非我。
B.「私的に考える道理(=理屈)からは【神が居る】と私は知る」
A+B=Cの方程式を解こうとすると
C=「諸行非常」が正解の様だ。
釈迦曰く(by釈迦私感)
『体験(修行)から言える事は諸行は【常に非ず】、
しかし道理(理屈)から言える事は【常は有る(=神は有る)と私は知る】、
という二段構え論法が言語論理学的に釈迦の言葉に整合性を与える。
(注;「無」は「有」を全面否定する。 「非」は限定的否定の枠内で、~~にあらず!!と言う)
その定義の仕方に該当しない事象に対しては、その事象を「真理」という言葉では語れないというのが論点でもある訳です。
「言葉で言い表せない真理」といわずに、単に「言葉では内実を表現できない感情・感性」というならなんの異論も出て来ない訳です。
(例;萌え
というのはあくまで比喩的な表現に過ぎなくて、実際の物理学では在り得ないと思いますね。
スピ系の人は本当だと言うかも知れないけれど、
T的には単なる思い込みに過ぎない過剰反応と考えています。
何故なら脳科学的に脳の活動を観測する為にfMRI端子を沢山、頭部に密着装着しますが(うろ覚えですが・・・)、
頭から観測端子を取り外しても、尚且つ他者と交信できる様な脳波が出ているなんて実証的に観測出来ない筈だと思われます。
まったく他人の二人が、目と目を見合わせないで、単に後ろ向きになって後頭部の頭と頭をくっつけ合って居たら
脳波交流で会話が出来てしまう??・・・なんていくらスピリチュアリストでも思わないのではないかと・・・・
(まあそう思うスピリチュアルパラノイア人種は存在するかもね・・・)
脳波とは物質的エネルギーであり(=電線の中を流れる電流回路)、それが時空を超越して発生する(=伝播する)という思考は短絡的で全く科学的ではない。
脳波の空中伝播説は、物質的次元を超越した現象である事を前提としているので、人間が肉体だけの存在でなく(注;脳は肉体の一器官)、人間が霊的存在である事を認知する事が必要となる。
人間は肉体だけの存在ではなく、肉体の他に霊体を持っており、その霊体に様々な能力が有るのだと説く訳だ。
折角釈迦がアートマンは観察できなかったと言っているのに、今までの釈迦の苦労をまっ向こうから否定することに成る。
南禅師に知れたら、レンさんは横っ面を張っ倒されるかも???
8月には鎧兜(よろいかぶと)を身に着けて恐山訪問した方が安全かもね。。。。
そこで言語のない修行体験によってのみ得られる「無分別智」が大切で、そこに勝義諦の存在価値が見いだせる。
しかしながら、これは同時にThe「論理」を否定する事でもあり、概念なしに認識を認識の儘受け入れると言う事であるが、
脳科学的には「左脳機能と右脳機能の調和説だ」と善意に解釈すれば、
勝義諦は、精神的縛り(抑圧)を超越した天才の発想であると解釈できる。
が、しかし・・・・
それによると、「ありのままの世界」(=即ち勝義諦)というのは、瞬間的に写真機で景色を写し取った写真の様なモノなのだと言う。人間はその写真を見て感情・情緒・感性を作動させる。個人用として画像を変質・虚構化させる。付随して貪瞋痴漫が自然と沸き起こって来る。
したがって最早「ありのままの世界」が跡形も無くゆがめられてしまう(=脳のサンスカーラ)。
これを人間性の発露、情感・情緒を持つが故の人間性の本質であると言うならば、
写真(乃至、フォトグラフィックメモリー)である「ありのままの世界」をキモとした勝義諦は人間性否定説だとなるようだ。
無常とは、同じものは無いーこの解釈になりますか?
万事の行いには同じものが無い、すなわち常に変化しているとのことでしょうか?
それにしても無と非を置き換えるだけで、隠れた意味がドラマチックにかわりますね。
言葉の力量を感じる次第でございます。
その故、芸術があり
視覚を通して、言葉が欠けている現象を
表現する訳ですね。
坐禅道場で説明しないで、ただ坐れという指示に繋がる説明だと思います。
Tの解釈や砕けによって
私には仏教知識を消化できるようになっていますが、
依存心が懸念されます。
分かることに甘やかされている、感じです。
それを望んでいますが、自律心がピンチ??
屁理屈ですが、
頭の後ろが妙に痒くて振り向いたら
誰かが私を見つめている時があって、
また、目をつぶっているのに
人の気配を感じるとか、
そういうのも物質的な働きでしょうかね?
その隠喩は分かりやすいです。
まだ恐山コメ修羅場には行ってないですが、
明日くらいに読んでみますね。
新記事は短くて面白いですよね。
空気の入れ替えみないな感じですよね。
まだ、新記事コメも読んでないのですが、
相変わらず、文句書く人もいるのやら、さすがに文句、屁理屈書けないでしょうかね。
中学生の時のトラウマを思い出した。
あれはテレパシーだったのか?
8月に恐山主催の坐禅会に行けるように予定しているのですが、はがきを出せるのは来週くらいになると思います。
Zさんは南師の親友のようで、私の席を確保してくれるバックアップ頼めますかね?
恐山にも後に寄ってコメ読みます。
T便でたかはし名のコメ者が新気風みたいな感じだとか。
ゆっくり読みたいですが、箱がまだまだ山積みなんで。。。
しかし、仏教の教えで未だにトラウマを管理できないというのは、執着の現象でしょうね?
電話で申し込みしてないの?
旦那さんの分と合わせて2名でいいのか?
キープできるかどうか分からないけど?
代わりに申し込んで下されば助かります。
一人だけです。
知り合いでも何でもないのに、双子のようにコインの裏表みたいな感じしますね。
電話は国際電話の使い方を学ぶ必要があって...
いつもはSkypeとかMessengerの無料通話をしているんで...
結果はコメントします。