今日は未来の過去である。
Presence day is the past of the future time.
過去は変えられないが、未来は変えられる。
The past cannot be changed but the future can change.
現在とは過去の今日であって、未来の過去である。
The present is today of the past time
and the past of the future.
私達は過去を見ることができる。
We can see the past.
細胞分裂をした有機物、
分子結合をした無機物から
過去の時間の経過が実際見られる。
We actually can see the passage of the past time
from an organic matter cell division,
an inorganic matter molecularly compounded.
夜中の空を眺めると、
何百万年前の前に発せられた星の光も見られる。
When we look at the night sky,
we also can see the light of a star
which was radiated millions of years ago.
全てのものには時間の経過が刻まれていて、
その時間は終わりなく続くように見える。
The time passage is engraved on all matters and time,
it seems to last forever.
私と言う存在も過去の一点から細胞分裂され
人間の形をして生まれた。
The existence as myself was born in human form and
it went through cell divisions from a moment in the past.
生まれてみたら、
私と言う感覚が与えられていて、
周りは私でない他人に囲まれていた。
When I was given life,
there was also given the sense of being "me"
and surrounded by others who were not as "me".
いつから私の身体を私として認識できたか、
私は記憶に無い。
I do not remember what moment
I have begun to recognize that my body is as being me.
私は他人にとっては他人として認識され、
他人にとって私は人類の中の一人にすぎない。
I am perceived as "others"
when be seen by people,
just another human when others see me.
私は鏡を見ない以上、
体の部分しか見えない。
Without using a mirror,
I cannot see my whole body, only part.
自分の頭や背中を私自身が見ることができない。
I myself cannot see my head,
my backside, and my whole body.
自分の頭や顔、背中は他人が見てくれない以上、
どのような形なのかさえ知らない。
Even we don’t know what form we have
unless others take a look and offer feedback
on the shape of our features: head, face, back, etc.
頭や顔は携帯のセルフィーで何とか写真で撮られるが、
背中を撮ることになると外部の手段か、
他人の手を借りて撮ってもらうしかない。
Somehow, we can take a selfie with a cell phone
to catch the appearance of our head or face,
but for the backside need
some posterior exterior help.
自分の手で直接的に自分の後ろを取られないことは
私と言う個人を認識していく過程に、
私だけの見方だけでは不完全であることを
指示しているかのように受け取られる。
This is a contradictory emblem:
We cannot take our back directly with our hands
and self-recognition is incomplete;
the subject sense of "me" is
most assuredly a one-person perspective.
私と言う人間を私だけの見方だけでは
全体像を見ることができない。
Every person cannot perceive their whole picture
with their own view.
もし私が考える自分と
他人が見ている私へのイメージを数値化できると仮定したら、
私のイマージ像(X)
他人の私へのイメージ像(Y)の値がある座標でぴったり合って、
それぞれの値にズレが無いのなら
『私』は自分を確かに捉えていると言えるかもしれない。
If I assume that an image can be digitized with
my own image and reflected an image of me by others.
If I considerably put my own image as X, and
reflected-image of me by others as Y,
and when those two factors were
ever coordinated exactly,
with the result, I can say that
my conceived image would not have a bias.
その私と言う人間は現在の眼では部分しか見ることができないが、
過去の時間の眼から見ると存在の全体像が見える。
Although we can see only part of the timeline
with our eyes at present moment,
with past time we can visualize
the whole image of existence.
過去に思っていたことが行動で表れ、
実体化されている。
What we thought in the past is,
it appears as an action
and it is rematerialized.
私が生きてきた足跡を辿ると
私が何を考えていたのかが証明されている。
Traceback to our footprint the way we lived,
it makes proof what we have thought in the past.
つまりはある個人が只今の中にいる状況や置かれている状態は、
過去に思っていたことが現実で実現されている結果であると言える。
In other words: our individual situation and circumstances
are results of what we thought in the past and
from what we form our distinct in the present.
今思っていること、今やっていること、今やろうとしていることは、
過去の経験と願望が時間と共に結合された状態である。
What we are thinking now,
what we are doing now,
what we are trying to do now,
they are the forms that have combined with
past experiences and desires with time passing.
そうであれば、未来とは、
今やっていることが
時間の経過によって
そのまま現実になって未来の今日になるはずだ。
If so, the future is,
what we are doing now and
it will be a today of the future by time passing.
今の状況が不満足であれば、
満足できるように今の状況を変えることによって
未来は望むようになる。
If the current situation is unsatisfied,
change it now to be satisfied
then the future will be as wished.
皮肉なことに、
現在の眼では見える部分でしか現像を判断できないのに、
過去の時間は今まで成ってきたのが何か
その実体を全部見せてくれる。
Ironically, although we cannot distinguish our circumstances
with the eyes of the present,
but the past time shows all that
has been done and what exactly is.
未来は過去の眼でも現在の眼でも全く見えないに、
人は未来を自分の望むとおりなることを願う。
Future is completely invisible with both eyes past and present,
but people desire that the future be as they wished.
人間は失った過去の時間に心を置き、
まだ訪れていない過去に希望を置く。
People put their mind in the past
which was already lost and then
they put hope in the future which is not yet come.
そのように、現在を見なければならない眼を
過去と未来に向けてしまう。
As such, eyes toward the past and future that
should be faced on the present.
今の自分が今に不在のまま、
こころは時間の経過と分離される。
Oneself is still absent in present,
the mind is separated from the passage of time.
今の自分が只今と分離されると、
そこに無感覚・無感動・無意味の三無の穴が開き、
自分の存在感覚が流れ消える。
When we separates from now-time,
it will open a hole in which lurk three kinds of nothingness:
such as Insensitiveness, Apathy, and Insignificance,
And there the sense of one’s exact existence flows away.
自分の感覚が他人の感覚に依存していく。
The sense of self-existence
becomes reliant on the senses of others.
他人の考えで生き、
他人によく映るために行動し、
他人に称賛されたいことをやる。
Live on someone’s way of thinking,
behave to look well on someone’s eyes,
do what people want to admire.
自分の存在価値を他人が良しとする価値判断によって変える。
Change one’s valuable factors for the existence
depending on what people would judge as good.
結果的に自分を失う…
As those results, you will lose the sense of yourself…
自分が自分を失うと、
自分にもなれず、
他人にもなれない存在になる。
When oneself loses a sense of self,
they can’t be oneself neither be other-self.
生きていて、
死んでもいない存在になる。
While alive become, neither alive nor dead.
心を只今に取り戻す、
過去や未来に走る心をつかんで只今に置く。
Bring back the mind to just now,
grasp the mind and bring back to the present
which is running toward the past or future.
それが坐禅を行う理由である。
That is the reason why do zazen-meditation.
宇宙を創ったのであろう
思索というものは
在るものに対する認識は
在るものに対する抵抗でもある
「分からない」ことへの閉塞感
宇宙を考えることは
まさに自分が居ることの
根拠を問い詰めることになる
何故書くのか
マラルメの純粋詩は
言葉と宇宙とが直結している
「一語の中に宇宙がある」
言語表現の一つの極点であろう
何が何に対して
何をしているのか
自分自身の充実に
耐えきれなくなって
言語が発出してくる
逆に言えば
自分自身が
あるいは存在自身が
自分の空虚を埋めるために
言葉を紡ぎ出してゆく
言葉を持つことは自己確認であろうか
認識と創造とが
紙一重のところに
まあ阿羅漢にならない限り悲しみからは逃げられないですよ。この世界は、つまり人間の心は火炎地獄と変わらないのですから。人間が人間である限り地上天国はできません。「今への期待」にも火が着くことは必然です。
「救い」とは?澤木興道老師が言うところの「座禅とは人間の廃業である」に尽きるのです。自分の心が波立ったら、「君の気持ちは分かっているよ」でいいと思います。過去は未来を置き去りにし、未来は過去を置き去りにする、そんな過去と未来のビジョンが浮かんで、今というビジョンが波立つのです。波が立つたびに平穏にしてやればいいではないですか。生命の望みは結局平和に回収されていくのですから。
禅というと侘びさびの幽玄な禅寺みたいなイメージがあると思いますが、なぜそのような装飾が生まれたのかを考えることが大事だと思います。仏教が徹底したリアリズムであるがゆえのシックな視点をビジュアル化したわけですね。「仏教に形なし」を形にしたと。つまりどこにいたって二千六百年前のブッダの親心にも、人類最後の日にもアクセスできることを知るべきなのです。
いつだって始まりと終わりと涅槃があるだけだよと。そして人間には過去現在未来の幻影があっただけなんだよと。だけど僕はブッダに助けてもらったし、一番最後に置き去りにされたあなたのこともちゃんと考えていたよと。
とっても論理的に書いてありますね。
自分が思う自分って自分の一部分なんですね。確かに頭のてっぺん見えずですもん。
それを補う方法を探し、全て見えてない事を自覚する。
すると自分もとっても楽になるでしょうね。見えなくて当たり前と。でお手伝いとして、こんな良いところあるよって伝える事も他人の使命だとも思います。それで自信を取り戻したり新しい自分の発見が出来たらその人の軌跡もきっと明るい未来へ繋がるでしょうね。
それから今後何が大事か?と言えば今を大事にして自分の軌跡をズラさないようにする事でしょうね。大抵お邪魔が来るんだよって思うと、リセットしやすいんではないかな?疑って慎重に出来ますので。
分からないなら動かない事も大事。日本人ってむやみに動き過ぎ、言われてから動いても十分だと思います。
そう思うと座禅をしてまず自分と向き合い、それが出来てからの行動ってとっても大事ですよね。
子育てでも思うんですけど、失敗しないようにずっとフォローしていたらその人の為にもならないんです。まず自分のやる事とやるべきでない事を明確にして、そこから今どうするべきか?一歩だけゆっくり判断するだけでもいい動き出来そうですよね。勉強になります。
ベクトルをちょっとだけ傾けるだけでも遠い未来は明るくなるかもしれませんね。
廃仏毀釈の時には、後に帝室技芸員(現在の人間国宝に相当)に指名される彫刻家の高村光雲の目の前でそれこそ国宝級の仏像が次々と破壊される悲劇もありました。東京大空襲では歴史的な傑作紙芝居が保管されていた倉庫が一瞬で炎上散華しました。マキノ映画、大都映画の大部分の作品も火災や戦争の影響で消滅した幻の文化遺産です。名女優鈴木澄子の若き日の影を拝むことができるのはほんの数作品…考えてみればそれがほぼ永遠の現実なのです。どのように神々しく見える過去であったとしても、仏教においてはそこで「諸行無常とは何か」を再考察することが求められることは事実です。高村光雲の師匠が彼に言った「もういいにしようよ」という言葉に正に仏心を汲み取る必要がある、というレベルです。結局仏教のレベルの高さに思いが至るのです。かつての心ある日本人の仏教的内面にも頭が下がります。
今回生き残ったアニメーターの方々も甚大な打撃を受けたはずですが、絵を描きたいという魂が消えることはないと思っています。必ず回復するはずです。戦争を生き延びた漫画家の力、左甚五郎や波の伊八や葛飾北斎と同質の力、つまり「生きる喜び」をファンに伝えてほしいと思います。
犯人が言っていた「小説をパクられた」の真相は分からないですが、もしそういった行為が卑劣な形で横行していたとしても、それに対する復讐の結果が罪のない人々の犠牲であってはならないのです。創造とは、初めから壊れている世界で生きる我々人間の、せめて一瞬一瞬に神々しさを見いだす作業であるはずなのです。人間へのなにかしらの「肯定」のみが芸術の入口になるはずです。
変化があっての同一であり、同一あっての変化というわけですから、過去や未来と同じような時間の尺度で同一性は語れないはずです。
その圧倒的な密度を経験することが坐禅によって可能なわけです。
A アクセスと順位維持のためである。
それはまあ、ジョークですが、
思考できるようになった人間が
宇宙に目を向けた、というが科学的な返事でしょうけど、
哲学的に思索すると
思考できる人間がいないと
宇宙も意味を成さないでしょうね。
そういえば、5年か前に
意識という根源が知りたくて
YouTubeを調べまぐりましたが
これと言った正解は得られなかった苦しい記憶がありましたね。
意識の根源が分かれば
思考も思索も
その根源が分かるかなと思ってましたね。
哲学的なアプローチも脳を覚ましてくれるから
偶にはいいかも。
久しぶりに栄久さまのコメントが読めて嬉しいですね。
これは名言ですね。
覚えておきたいほどです。
着地できる今、その刹那もないのに、
未来や過去に同然行けないですもんね。
昔はSiFiが好きで、タイムトラベルが可能かもと
幼い心で期待した時がありました。
実際、其のたぐいの映画やTVシリーズを
マラソンで観たことも多々あります。
2日徹夜で観ましたからね。
時間を浪費した結果になって
自己嫌悪に落ちただけの話ですが。
まあ、坐禅にわびさびを感じるのは
私以外の人達かな。
私には確かな訓練のように見受けるから
感傷が入る要地がないかもです。
京都アニメーション会社は非常によい作品を作っていると思います。
この一年間、ほぼアニメマニアックになっているから、結構比較分析ができるようになりました。
そこに放火した人がいるとは
非常にショックなニュースですね。
その犯人は本当に極悪ですね。
アニメはどこもかしこも何かをパクって
類似していて、似たようなPlot,構成を持つので
それがアニメ特有の性質なのに、
京都アニメーション社は
それでも極力その類似性を破ろうとしていると思ってましたけどね。
アニメオタクみたいになってからは
大体物語の展開が読めてしまって
余りも酷い作品は中間を飛ばして
始まりと終わりしか観ないです。
大概、起承転結が同じで
セリフも性格設定も全く同じパターンだし、
声優の演技も同じで
変わるのは名前だけかな。
それなのにパクったなんかだと言えますかね。
阿修羅というアニメは違いましたがね。
(以下そのアニメのリンク)
https://www.youtube.com/watch?v=gUgsQBylC8s&t=13s
全画面のアニメがありますが、
探せなくて、上記に添付したのは
削除避けるため、小さい画面にしたようですね。
そのアニメは月さんが言っている創作の比重が高いかな。
分からないので全くノーコメントですが、
>失敗しないようにずっとフォローしていたらその人の為にもならないんです<
それには同感です。
失敗から学ぶことが成功のうれしさより貴重だと思いますね。
どうすべきかが分かる子供は少ないかなと思いますが、親が指し示してくれた例で参考にできると思いますね。
子供の成長は植物の手入れみたいな感じかなと、
水が多ければ根が腐るし、
日光が多すぎても葉っぱが焼けて
余りにいじりすぎると
病気にかかりやすくなりますしね。
適切な時に水を与えて
日光に半分ほど当てて
後は自ら生きるように放って置く。
そうすると、植物は自分の都合を見つけて
健康に育ちますからね。
子供の育児は植物より直接的な愛情が必要不可欠ですが、
過剰は過不足より厄介かなと思ったりします。
とにかく、ご育児ご苦労さまでございます。
これは響きがいいですね。
圧倒的な密度ーこれは経験しないと分からないですね。
まあ、経験してもそのレベルに辿るまでには年月がかかるでしょう。
プラトンの哲学に出てくるΨυχή「魂」の語
近代哲学の「意識」に相当する語は、
古代のそれにはない
プラトン哲学の最大のモチーフ
「優れた魂であれ」
これはやはり「魂」でなければ
話しにならない
誰でもあり誰でもないような
意識について
「優れた意識であれ」とは
意味をなさないであろう
より優れた魂になることをこそ
この世の仕事として、努力する
「よりよく生きる」ことと思える