鹿の子の雑学日記

マイガーデン&家庭菜園&ドライブ&旅行等の出来事。

今季第一級の寒気

2011年12月09日 | Weblog
お稽古事が終わり、MyCarに乗ってみて驚いた。
フロントガラスが全面氷結。

暫らくエンジンをかけ、暖風を当て氷解。
やっとスタート出来ました。

自宅に戻りまた苦労しました。
門のカギが凍ってしまい開きません。

別の門に回ってやっと入ることが出来ました。

外の水栓3か所を点検したところ、
氷結が始まっていました。
水抜き装置を働かし対策を講じました。

明日の朝には、池の水が凍っていることでしょう。
霜柱(植物)も不思議な現象が起きるのかな~

今季第一級の寒気に驚いています。

赤穂浪士討ち入り

2011年12月09日 | Weblog
元禄15年12月14日(1703年)深夜(現在の時間で15日の4時頃)
旧主浅野長矩の家来、
元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士が、
仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、
吉良義央、及び護衛人を殺害した元禄赤穂事件を云う。

かつては赤穂の牢人(浪人)と云われていたが、
明治の中期から赤穂義士と呼ばれ、
戦前の忠孝の教えの観点から、
全国的にも赤穂義士の名称が一般的だった。

戦後、大佛次郎の小説がテレビドラマ化されてからは、
赤穂浪士の方が周知されている。

四十七士ではなく、
四十六士であるという説もある。
討ち入り後、泉岳寺の長矩の墓に行く途中、
突然、姿を消した寺坂信行が、
逃亡者であれば、四十六士となり、
大石良雄から密命を受けて姿を晦ましたのなら四十七士と呼ぶ。

浪士のうち赤穂(播磨国赤穂郡)出身者は大石良雄を含めて半数程度で、
次いで多いのが常陸国(茨城県)の真壁(真壁郡)や笠間(茨城郡)の出身者であった。

正保2年(1645年)に浅野長直(長矩の祖父)が、
赤穂に国替えされる以前の、
真壁藩・笠間藩時代に形成された家臣達が多かったからです。
その為に、同地には現在も浪士の出身家系の旧家が残り、
浪士の遺品も多く伝わっているそうです。

赤穂浪士が葬られている泉岳寺では、
現在も毎年討ち入りの日に、義士祭を催しています。

茨城県笠間市の笠間城址公園(正確には?)
城跡に登った折、大石内蔵助の銅像を見て疑問に思っていましたが、
納得しました。