徒然草の中の医療
もくじ
000 序
001 もくじ
002 第四十二段
003 第四十九段
004 第五十三段
005 第六十段
006 第六十八段・(兵になった大根)
007 第八十四段
008―第九十六段(めなもみと蛇)
009 第百三段・(斜視)
010 第百十七段
011 第百二十段
012 第百二十二段
013 第百二十三段
014 第百二十九段
015 第百三十一段・(己が分)
016 第百三十四段
017 第百三十六段・(塩・鹽・鹹)
018 第百三十八段
019 第百四十七段
020 第百四十八段・(三里のお灸)
021 第百四十九段・(脳を食べる虫)
022 第百五十五段
023 第百七十一段
024 第百七十五段
025 第二百十七段
026 第二百二十四段
027 第二百四十一段
(リンクは、記事を公開後、行ないます)
第九十六段
(原文)
めなもみといふ薬有。くちばみにさされたる人、彼草をもみて付けぬれば、すなはち、いゆとなん、見しりてをくべし。
〇
(解説)
めなもみという薬があって、くちばみに咬まれた人は、この草を揉んで付けると癒える、見知っておくべし、ということです。
そのままですね。短くて単純で、何の解説も要らない一文のように見えます。
でも、その裏には不思議なことがあります。
実は「めなもみ」だと考えられている植物は、ざっと数えて3種類あるのです。
メナモミは現代の植物図鑑にしっかり収載されていて、
例えば、平凡社の『日本の野生植物』Ⅲには、
キク科メナモミ属、学名は、Siegesbeckia pubescens Makino、
メナモミ(Siegesbeckia pubescens Makino・稀薟)、『日本の野生植物』Ⅲ 平凡社
山野やごみためなどに多い一年草で、茎は高さ60‐120cm、特に上部には開出毛が密にはえる。葉身は卵形または3角状卵形で、長さ7.5‐19cm、幅6.5‐18cm。花は9‐10月に開き、総苞片は5個、長さ10‐12mm。舌状花冠は長さ3.5mm。温暖~暖帯に生育し、北海道~九州、朝鮮・中国に分布する。
とあります。さまざまな植物学の本の中で、メナモミは、Siegesbeckia pubescens Makino です。
でも、
岩波文庫の『新訂徒然草』(西尾実・安良岡康作校注)では、「めなもみ」は、
やぶたばこ( Carpesium abrotanoides L.)。漢名、天明精。『本草綱目』巻十七に、「悪蟲蛇螫ノ毒ヲ解ス」とある。
とあって、異なる植物を指示しています。
ヤブタバコ(Carpesium abrotanoides L.・天名精・地菘)、『日本の野生植物』Ⅲ 平凡社
また、青木信一の『妙藥植物圖鑑』の「蛇咬傷」には、
凡そ蝮蛇に嚙れたるには蒼耳(おなもみ)の葉を揉みて傷口に附れば効があることは徒然草にも見えて古き方である。此蒼耳は原野に生えて高さ四五尺の草で葉は菊に似て心臓三角で夏梢に緑色の花が開く實には刺が密生して衣類などに着きやすいのである。
とあって、この蒼耳(おなもみ)は Xanthium strumarium L. のことです。
オナモミ(Xanthium strumarium.L・蒼耳・枲耳)、『日本の野生植物』Ⅲ 平凡社
松尾聡は、『徒然草全釈』(清水書院)で、「めなもみ」は、
稀薟(きれん)という菊科の一年生草本とする説、地菘(天明精ともいう)(やぶたばこ)という菊科の二年生草本とする説などあり、たしかでない。
と言っています。
ちなみに稀薟は、現代では、メナモミ(Siegesbeckia pubescens Makino)の別名とされていますが、
江戸時代の貝原益軒は『大和本草』において、「稀薟」を「和名ヲナモミ」と言っていて、はなはだ混乱が見られます。
ということで、
「めなもみ」は、
Siegesbeckia pubescens Makino(メナモミ)、
Carpesium abrotanoides L.(ヤブタバコ)、
Xanthium strumarium L.(オナモミ)
と、3つあるのです。
さて、これらの植物のうち、兼好法師が「めなもみ」と見なしていたものは、どれなのでしょう?
その前に、なぜこのように、説がわかれたのでしょうか。
それは、言葉は変化するものだからです。
〇
例えば、ここに出てきた「くちばみ」、
『広辞苑』には「マムシの古名」、とあり、
明治時代の辞典、大槻文彦の『言海』にも、
「くちばみ(名)マムシ〔口ニ毒アレバイフナルベシ〕蝮(ハミ)トイフニ同ジ。マムシ。」、
「まむし(名)真蟲〔真トハ甚シク害ヲナス意、狼ヲ真神トイフガ如シト云、又、或ハ、マジムシノ意ニモアラムカ〕古名、ハミ。又、クチバミ、蛇ノ属。湿地ニ棲ム、長サ一尺餘、灰色ニシテ黒キ斑アリ、又、小キ朱点アルアリ、尾ニ刺アリ、動モスレバ人ヲ噛ム、歯ノ毒、最モ人ニ甚シ、、肉ヲ食フ、味美ナリト云。蝮蛇」
とあって、「くちばみ」はマムシに間違いありません。
しかし、これは、クサリヘビ科マムシ属に分類できる蛇、Gloydius blomhoffii に限定されるマムシではないようです。もちろん本当のマムシを言う場合もありますが、蛇の総称を意味することもあります。
『北斎漫画』
「蛇」は、平安中期の辞書、源順が著した『倭名類聚抄』に収載されており、「ヘミ(倍美)」「クチナハ(久知奈波)」「ヲロチ(乎路知)」と発音していたようです。ちなみに「蝮」は「ハミ(波美)」と呼び、「反鼻」とも言います。
鎌倉時代の漢和辞典『字鏡集』には、「蛇」を「クチナワ」、「蝮」を「ハミ」と訓じています。
その「ヘミ」は、現在は「ヘビ」と言うのが一般的になりましたが、
福島県伊達郡・宮崎・熊本県阿蘇郡・鹿児島県種子島では、「マヘビ」という呼び方もあります。(東條操偏『全国方言辞典』)
また、「クチナハ」は、それぞれ、
クチサビ 宮城県柴田郡。
クチナワ 関西及西国(物類称呼)・仙台(浜萩)・大阪(浪速聞書)。関西。
クチハビ 仙台(浜萩)・水戸(常陸方言)・岩手・宮城・茨城・栃木。
クチハミ 近畿(日葡辞書)・上総房州(物類称呼)・千葉県海上郡・岡山県久米郡・大分。
クツハミ 土佐(物類称呼)。
クチメ 土佐幡多郡(幡多方言)・土佐。
クチャメ 千葉・因幡・岡山・広島。
グッチュー 徳島県鴨島。
というように、
「ハミ」は、
ハビ 千葉県夷隅郡・三重・奈良・和歌山。
ハブ 南島(八重垣)・大阪府泉北郡・高知・大分。
ハミ 岡山・広島・石見・山口・四国・大分。
ハメ 京(重訂本草)・筑前(物類称呼)・兵庫・京都・大阪・四国。
ハンビ 三重県南部・和歌山県南部。
ハンビー 奈良県十津川。
と、地域によって呼称の変化が見られます。おもしろいですね。言い易いように、どんどん似た音を使って変わるのです。
ただ、注意することは、『倭名類聚抄』にある発音がその起源ではないことです。源順の記した音も変化の過程の一つと考えたほうが自然でしょうね。
〇
同じように、『倭名類聚抄』に「枲耳(=蒼耳)(奈毛美・ナモミ)」が、また、平安時代に編纂された、最古の漢和辞典『新撰字鏡』にも「枲耳實(奈毛弥・ナモミ)」が記されています。
鎌倉時代には、「蒼」は一字で「ナモミ」と、また「葈」は「ナモミ」、また「カラムシロ」とも訓じられています。(『字鏡集』)
「蒼耳」は、一名を「羊負来」と言い、昔は中国にはこの草は無く、羊の毛に逐いて外国から入ってきたので、この名が付けられた、と『倭名類聚抄』にあります。この辞書には他の説明、形態の特徴や、薬効などは記されていません。
「ナモミ」と呼ぶ由来の説は、主に2つあり、
1つは「生揉む」から。消化薬の一種、神麴を作る際に、蒼耳(枲耳)の自然汁を用いた、また、マムシに噛まれた時に、生の蒼耳を揉んで付けた、生で揉んだから「ナモミ」と言った、『言海』にはそうあります。
2つめは、「泥む(なずむ)」。種子がよくくっつくことから名がつけられたと、牧野富太郎の『原色牧野植物大圖鑑』にあります。
オナモミ(Xanthium strumarium.L・蒼耳・枲耳)、牧野富太郎『原色牧野植物大圖鑑』
確かに、奈良時代には医学が中国から輸入されて、その利用方法由来の名が、平安中期の辞書に載ることはありえなくはないのでが、
Xanthium strumarium L.(オナモミ)の種は古墳時代の遺跡から出土されているので、それよりはるか以前から日本人の身近にあったことが推察されます。
だから、「咲く」から「サクラ」、「摘み入れ」から「スミレ」、「日(霊)の木」から「ヒノキ」、「山吹き」から「ヤマブキ」などのように、単純な名前の付け方の方が自然かもしれませんね。
おろらく、種子がよく付くから「ナモミ」という名になりましたが、その後、問題が生じました。
種子がよく付着する、よく似た植物が2種類あったのです。1つは、Xanthium strumarium L.(オナモミ)、もう1つは、Siegesbeckia pubescens Makino(メナモミ)です。
メナモミ(Siegesbeckia pubescens Makino・稀薟)、牧野富太郎『原色牧野植物大圖鑑』
だから、名前が、まだ「ナモミ」しかなかった時代の人は、それを分類するために、工夫しなければいけませんでした。
そこで用いられた言葉が「ヲ(オ)(男)」と「メ(女)」です。
「雌雄」、「陰陽」のように、接頭語によって、よく似たものを2つに分けることができるのです。
種子(そう果)の性質を考慮して、かぎ状のトゲ、突起物が多数あり、それによってくっ付く方(Xanthium strumarium L.)を「ヲナモミ」、トゲではなく、分泌された粘液によってくっ付く方(Siegesbeckia pubescens Makino)を「メナモミ」と呼んだのでしょう。
なぜなら、時は平安から鎌倉、まだ陰陽師が活躍していた時代であり、陰陽論的思考方法があったからです。
でも、
安土桃山時代から江戸初期の歌人、松永貞徳は、「をなもみは稀薟草、めなもみは蒼耳と云々」と言っているように、(北村季吟『徒然草文段抄』)
かなり以前から、その逆に呼ばれていた記録があります。
貝原益軒も「稀薟」を「ヲナモミ」と言っていましたね。でも「蒼耳」を「メナモミ」とは言っていません。
益軒が、そう言っていたのは、それらを混同していたからではなく、方言のためです。
武蔵や筑前の国では、Siegesbeckia pubescens Makino(メナモミ)を「ヲナモミ」と呼んでいました。益軒は筑前の儒学者です。
地方によって他の呼称もあります。
Siegesbeckia pubescens Makino(メナモミ)・「稀薟」は、
メナモミ・イシモチ(勢州)・モチナモミ(古方書)・秋ボコリ(石州)・ヲナモミ(武蔵・筑前)、ナモミ・キツネノタバコ(尾州本全村ノ隠居)
Xanthium strumarium L.(オナモミ)・「枲(葈)耳」・「蒼耳」は、
ヲナモミ・ウマノノミ(越前)・ナモミ・メナモミ・ボウズグサ・マメクサ(江州上野)・サルノミミ(尾州愛智郡)
(小野蘭山『重訂本草綱目啓蒙』、水谷豊文『本草綱目紀聞』)
などとあります。
方言、これが、「めなもみ」が2種類になった要因です。
〇
次に、
『新訂徒然草』は、「めなもみ」は、「やぶたばこ( Carpesium abrotanoides L.)。漢名、天明精」であるとしました。
ヤブタバコ(Carpesium abrotanoides L.・天名精・地菘)、牧野富太郎『原色牧野植物大圖鑑』
この「天明精」は、「天名精」のことです。
「天名精」にも、別の呼称がありますが、それは、
ヤブタバコ・イヌノシリ(古名)・イノシリグサ(古名)・ハマフクラ(和名鈔)・ハマタカナ(和名鈔)・キツネノタバコ・イノジリ(勢州)・ウラジロ(佐州)・ハイグサ(播州)・マグソナ・ハマダカナ・イヌノシリサシ・ケツネノタバコ(江州上野)
などとあり、「天名精」が「メナモミ」と呼ばれた記録はありません。
なぜ『新訂徒然草』は、「天名精」が「メナモミ」だとしたのでしょう。
それは、江戸初期(1604年)刊行の『徒然草寿命院抄』の説を採用したからです。
寿命院は医師でもあったため、本草の知識が深く、その上で通釈することができました。
「稀薟」(メナモミ)を、本草書に「蛇咬説ナシ」として除外し、
「本草ノ、蒼耳ノ条下ニ、治毒蛇幷ニ射工等ノ傷ハ嫩葉ヲ一握研リ、汁ヲ取リ、温酒ニ和シテ、之ヲ灌グ。将ニ傷處ノ所ニ滓ヲ厚ク罨フ」、と、
「天名精」は、「蟲蛇螫毒ヲ主リ、之ヲ接傳ス」ともあることから、
「蒼耳モ菘咬ニ付ルト見ヘタリトイヘドモ、モミテツクルトアルナレバ、地菘ノ説、此ツレヅレノ説ニ相合ナリ。所詮、今クチハミニササレタル人アラバ、イノシリ草ト尋テシカルベシ」と言って、
『徒然草』にある「めなもみ」は「天名精」であると結論付けました。
また、これ以外にも、この説をを裏付ける理由が考えられます。
『本草綱目』には「諸蛇」の項があり、そこには、
「蛇毒を内解する薬剤」に、
「雄黄」「貝母」「大蒜」「薤白」「蒼耳」が、
「蛇蠚を外治する薬剤」に、
「大青」「鶴蝨(天名精の実)」「苦苣」「菫菜」「射罔「薑黄」「乾薑」「白礬」「黒豆葉」「黄荊葉」「蛇含草」「犬糞」「鵞糞」「蔡苴」「機糞」 が挙げられています。
『本草綱目』によると、蛇に噛まれた時、「蒼耳」が内服薬、「天名精(鶴蝨)」が外用薬として用いられていたことが分かります。
『徒然草』では「めなもみ」を「もみて付け」て使用しているので、「諸蛇」の項を考慮すれば、「めなもみ」は「蒼耳」ではなく、「天名精」ですね。
それ故、薬効と使用方法から、「めなもみ」を「やぶたばこ( Carpesium abrotanoides L.)」であるとしても、問題はない、かもしれません。
〇
そんな訳で、「めなもみ」は、Siegesbeckia pubescens Makino(メナモミ)と Carpesium abrotanoides L.(ヤブタバコ)、Xanthium strumarium L.(オナモミ)の3種類になりました。
では、初めに戻り、これらの植物のうち、兼好法師が「めなもみ」と見なしていたものは、どれなのでしょう?
それを知るには、それぞれの植物が以下の条件を満たすか否か、調べる必要があります。
1.その植物は、蛇咬傷に用いることができる。
2.その植物は、身近な場所にあって、簡単に手に入れることができる。
3.兼好法師のいた鎌倉時代の人々が、その植物を「めなもみ」をと呼んでいた文献学的根拠がある。
まず、1つめ、寿命院も言っていたように、天名精(Carpesium abrotanoides L.・ヤブタバコ)と蒼耳(Xanthium strumarium L.・オナモミ)は外用して用いることができるので、これらは条件に当てはまります。
オナモミ(Xanthium strumarium.L・蒼耳・枲耳)、『Field Selection 15 薬草』北隆館
稀薟(Siegesbeckia pubescens Makino・メナモミ)はどうかと言うと、
「搗いて、狗咬、蜘蛛咬、蠺(蚕)咬の傷處、蠼螋(ハサミムシ)溺瘡に傳く」
とあって、蛇とは書いてありませんが、犬などの獣から蜘蛛、昆虫までの咬傷などに用いることができるので、一応、応急処置的に、蛇に咬まれた時に、稀薟を使うこともできるでしょう。
なので、これら3種類とも、蛇咬傷に用いることができます。
それから2つめ、オナモミ属は世界に広く分布しており、メナモミは北海道から九州、朝鮮や中国に、ヤブタバコは北海道から琉球、朝鮮、中国、ヒマラヤなどに分布しているので、これら3種類とも、日本中で採集することができます。
では、3つめ、
鎌倉時代、梶原性全によって著された医学書、『万安方』「薬名類聚」によると、(岡本玄冶『覆載万安方』)
「葈耳」、一名「葹」「苓耳」「蒼耳」は「シシ」「ヲナモミ」と、
また、「稀薟」は「メナモミ」、
「天名精」、一名「天門精」「天蔓菁」は「イヌノシリ」とフリガナを与えられています。
この『万安方』の記載があるので、兼好法師は、「めなもみ」を、「稀薟」だと考えていた可能性があります。
その一方で、梶原性全は、『万安方』「論地菘」において、北宋時代の沈括の随筆『夢溪筆談』「薬議」を引用しています。
そこには、世間の人は、地菘(天名精)と火蘞(稀薟)とを誤って用いている、と記されています。
沈括や梶原性全がこう書き残したということは、北宋時代の中国人も、鎌倉時代の日本人も、地菘(天名精)と火蘞(稀薟)、つまり Carpesium abrotanoides L.(ヤブタバコ)と Siegesbeckia pubescens Makino(メナモミ)を混用していていたことが多かったのかもしれませんね。
メナモミ(Siegesbeckia pubescens Makino・稀薟)、『Field Selection 15 薬草』北隆館
それらを混同したのは世間一般の人だけではありませんでした。
平安時代、深根輔仁によって著された日本最古の本草書、『本草和名』があります。最古の医学書『医心方』も、最古の辞書『倭名類聚抄』も、これを参照して書かれた箇所があります。
その権威ある書において、「天名精」の一名(別名)に、「麦句姜」や「蝦蟆藍」、「地菘」と並んで、「稀薟」が記されています。
深根輔仁は、誤って「稀薟」と「天名精」を、同じ薬として記載してしまったのです。
ちなみに、「稀薟」と「天名精」は方言による呼称、「キツネノタバコ」が一致しています。もっとも、「稀薟」のそれは「尾州本全村ノ隠居」が言っていたことなので、方言ではなく、一地方の一個人の勘違いである可能性もありますが。
つまり、天名精(Carpesium abrotanoides L.・ヤブタバコ)と、稀薟(Siegesbeckia pubescens Makino・メナモミ)は、ただ実物を混同しやすかっただけではなく、学問的に、それらが同一のものであった時期もあったのです。
それ故、その時には、天名精(Carpesium abrotanoides L.・ヤブタバコ)を「稀薟」と見なし、それを「めなもみ」と呼んでも、誤りではなかったのです。
ヤブタバコ(Carpesium abrotanoides L.・天名精・地菘)、『Field Selection 15 薬草』北隆館
その一方、稀薟(Siegesbeckia pubescens Makino・メナモミ)も、「めなもみ」と呼ばれていましたが、
より条件に適合するのは、天名精(Carpesium abrotanoides L.・ヤブタバコ)の方なので、兼好法師はこの段では後者について述べていたのでしょう。
ちなみに、実際に蛇に咬まれた時を考えると、と言っても、現代ではより衛生的な薬と治療法があるので、その機会があるとしたら現代では遭難した時や、登山中に医薬品を失った時などで、そういう時は、3種類のうちどれを用いても、特に問題はないかもしれませんね。
(ムガク)
第百四十八段
(原文)
四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。
○
(解説1)
『絵本徒然草』元文五年
つまり、四十歳過ぎて、こうしたら、
こうしましょう。
そうしないと、上気することがある、ということです。
(解説2)
江戸時代の鍼灸医学書、本郷正豊の『鍼灸重宝記』、「三里」の項目には、
凡そ年三十已上の人は、三里に灸せざれば、気上て目に冲しむ、又四花、膏肓、百会等に灸せば、後に三里に灸して上熱を下せ。
とあります。また、「膏肓兪」には、
後に気海、丹田、関元、中極、四穴の内一穴と足の三里とに灸して火気を引下てよし。
とか、「四花」には、
後に三里に灸して気を下すべし。
などと記載されています。
鎌倉時代の医学書、梶原性全の『万安方』にも、
人、三十已上、若し、三里に灸せざれば、気上り、目を衝かしむ。三里は、以て気を下ぐる所なり。
と記されています。
つまり、第百四十八段で兼好法師の言っていることは、でたらめはなく、医学書に記載されている、根拠のあるものなのです。
また、これら『鍼灸重宝記』や『万安方』の記述は、中国は唐代の医学書、孫思邈の『千金翼方』「雑法第九」に由来します。
人の年、三十以上なれば、若し頭に灸し、三里穴を灸せざれば、人の気をして上らしめ、眼は暗ふ。所以、三里穴は気を下す也。一切の病は皆、三里に三壮灸せよ。毎日、常に灸し気を下せ。
『千金翼方』の「眼は暗ふ」は、それぞれ『万安方』では「目を衝かしむ」、『鍼灸重宝記』では「目に冲しむ」に意訳されています。「上気」すると、目に症状が出る可能性があるのですね。
また、年齢が「三十以上」というのは、これら医学書のうちで共通しています。医学書は文献学的根拠を重視しますので、理由がない限り、記載事項を変えることはあまりないのです。
しかし、『徒然草』では年齢は「四十以後」に替えられています。なぜでしょう。
まず、だれでも思いつくのは平均余命の変化ですね。七世紀末の中国と、十四世紀の日本の平均余命との間に十歳ほど差があった可能性があります。
でも、それぞれの時代の正確な平均寿命を知ることは困難ですし、たとえそれが導き出されたとしても、それにもとづいて、兼好法師が、年齢の記述をその時分に合うように替えた、と証明することは不可能です。この仮説は検証できません。
しかし、推理することはできます。『徒然草』の、第七段にはこうあります。
命あるものを見ると、人より長生きのものはない。かげろうが夕べを待ち、夏の蝉が春秋を知らないのもその例だ。つくづくと一年を暮らすあいだにも、こよなくのどかなものだ。飽きないで、惜しいと思えば、千年を過すとも、一夜の夢の心地であろう。住み続けられない世で、みにくい姿となって、何をするというのか。命長ければ辱多し。長くても、四十に足らないほどにて死ぬことが、目安であろう。
その年齢を過ぎると、容貌を恥じる心もなくなり、人前に出で交わろとする事を思い、人生の黄昏時に子孫を愛して、栄えていく将来を見るまでの命を望み、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれを知ることもなくなっていく。あさましいことだ。
また、第百十三段にはこう記されています。
四十を越している人の、色恋に関して、自ずから忍んでいるのは、どうしようもない。しかし、言葉に打ち出して、男女の事や、人の身上を言い戯れることは、年齢に、似つかわしくなく、見苦しい。大方、聞きにくく、見苦しき事は、老人が、若い人に交って、興味をひこうと物言うことだ。
つまり「四十」は、兼好法師にとって、老若、美醜を隔てる分水嶺であるようですね。
彼は「命長ければ辱多し。長くても、四十に足らないほどにて死ぬことが、目安であろう」と言っていますが、だからといって、四十までに死ぬことを人に勧めているわけではありません。なぜなら、この段で、「四十以後の人、…必ず灸すべし」と灸治、養生について述べているからです。
彼にとって大切なことは、長く生きることではなく、美しく生きることなのです。
「三十以上」が「四十以後」に替えられているのは、こんな理由、兼好法師の人生観からなのでしょう。
(解説3)
『絵本徒然草』の絵、右下には柿と柿落としが描かれていますね。なぜでしょう。
もちろん、これは「柿」を「下気」または「火気」「下とす」に引っかけた、洒落です。
また、お灸をすえられている女性の隣にある衝立には富士山が描かれていますね。これはなぜでしょう。
これは『竹取物語』を連想させていますね。かぐや姫が天へ去って行ったあと、中将が、かぐや姫から貰った不死の薬を、天にもっとも近い山で燃やした話です。
また、富士山には徐福にまつわる伝説がいくつも残されています。徐福は秦の始皇帝から、不老長生の薬を持ちかえるように命ぜられ、富士山までたどり着いたと謂われています。
富士山には不老不死のイメージが昔から付いていたようですね。
足の三里のお灸は、松尾芭蕉が実践していたと『奥の細道』にありますし、本居宣長も若い時には毎日すえていたようです。貝原益軒は「また三里に毎日一壮ずつ灸をして百日間つづけた人もいる。…この方法を実行して効果があったという人の多いのは事実である」と『養生訓』に記していました。
三里はおもしろいツボです。
(ムガク)
おまけ
『鍼灸重宝記』
三里 膝眼の下三寸、骨の外、大筋の中。灸三壮七壮あるひは一二百より五百壮まで、針五分八分、留ること十呼、瀉ること七吸、あるひは一寸、留ること一呼。胃中寒、心腹脹満、小腹脹堅く、腸鳴、臓気虚し、真気不足し、腹いたみ、不食、心悶、心痛、逆気上り攻、喘息、腰いたみ、けんべき、四肢満、膝いたみ、脚気、目明ならず、産後血暈、傷寒悪寒、熱病汗出ず、嘔吐、口苦、発熱、反折、口噤、頷腫痛み、乳癰、乳腫、こうひ、胃気不足、久泄利、食化せず、苦飢、腹熱し、身煩、狂言、みだりにわらひ、恐れ、怒り、霍乱、遺尿、失気、頭眩、大小便利せず、しやくり、五労七傷、諸病皆治す。凡そ年三十已上の人は、三里に灸せざれば、気上て目に冲しむ、又四花・膏肓・百会等に灸せば、後に三里に灸して上熱を下せ。
膏肓兪 四椎の下、五の椎の上にちかし、脊中を左右へ相去こと各三寸、口伝に胛骨のきはに一指を側置ほどに點すべし。後に気海・丹田・関元・中極、四穴の内一穴と足の三里とに灸して火気を引下てよし。灸百壮五百壮まで。虚損、伝尸、骨蒸、遺精、痩つかれ、健忘、痰飲、しやくり、上気、発狂を主る。膈噎、心中妨悶、項背こわり、目病、気病、諸病治せずといふことなし。
四花(四穴) 稗心を三条ばかり結びつぎ、正中を大椎にあて、頚にかけ両の端を前に下し、鳩尾にて両の先を截る。さて其稗心の正中を結喉へあて後へまはし、稗の盡る処の脊の正中に假に墨を点す。別に又口の広さの寸を唇のなりに随ひ取て、其正中を前の假点に横に当、両の端に点し、又その稗を竪にして正中を假点に当て上下の端に点す。これ四花の穴なり。中の仮点はぬぐひさるべし。先、患門の二穴と四花の横の二穴と合て四穴を同時に灸す。一穴に廿一壮づつ毎日灸して、一穴に百五十、二百壮に至る、其灸漸く愈んとするとき竪の二穴を灸すべし。一穴に七壮づつ毎日灸して、一穴に五十壮百壮まで、後に三里に灸して気を下すべし。伝尸、労咳、骨蒸、虚熱、元気いまだ脱ざる先に灸すれば必ず効あり。又、崔氏が四花の穴は鬲兪・膽兪の四穴に合る。聚英に曰く、血は鬲兪に会す、膽は肝の府、血を蔵す、故に此を取る。類経四花 崔氏四花。
『徒然草』
(原文)
第七段
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
第百十三段
四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかゞはせん、言に打ち出でて、男女の事、人の上をも言ひ戯るゝこそ、にげなく、見苦しけれ。大方、聞きにくゝ、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。
024-お灸・漢意・もののあはれ-本居宣長と江戸時代の医学
家庭でもかんたん・もぐさの作り方
第六十八段
(現代語訳)
筑紫(九州北部)に、なにがしの押領使という者がいたが、土大根をよろずにすぐれている薬といって、長年、朝ごとに二つづつ焼いて食べていた。
ある時、押領使の館の内の人が出払っている隙をはかって、敵が襲って来て、囲んで攻めた。その時、館の内に兵が二人出で来て、命を惜しまず戦って、敵を皆、追い返した。
押領使はとても不思議に思って、「日ごろ、ここにおられない人のように見られますが、このように戦って下されたのは、いかなる方ですか」と質問した。
その兵は、「あなたが年来頼って毎朝召し上がっていた土大根でござる」と言って、去っていった。
深く信じていたからこそ、このような徳もあったのだろう。
三木隠人註『首書徒然草』
○
第百四十九段の「脳を食べる虫」については、今までは、鹿茸に脳を食べる虫なんてまさかいないだろうとか、兼好法師はこんな話を『徒然草』に入れるとはどういう心境なのだろう、といった感想で終わってしまうような段でした。でも、その背景の知識を少し知っているだけで、しごく当然の、理解可能な話になりましたね。
しかし、この第六十八段の、大根が兵になって館を守って戦ってくれたという話は、さすがに事実としてとらえるには無理がありそうです。日常の生活の中で、現在も、七百年前も大根が人間になったことはありません。どう考えれば理解できるのでしょう。
日本には『古事記』や『源氏物語』などさまざまな物語がありますが、この第六十八段もその一つ、とても短い物語です。
ただこの話を「鶴の恩返し」や「おむすびころりん」などの報恩の昔話と同列に置くことはできません。なぜなら大根が押領使から何らかの利益を得ていないからです。
また、この話を単なる昔話で片づけてしまうのは、科学的な手法ではありません。レヴィ=ストロースが、
「科学的説明とは、複雑さから単純さへの移行ではなく、可知性の低い複雑さを可知性の高い複雑さに置き換えることなのである」*1
と言ったように、少しばかり、レベルを区別したうえで、ある部分において何かしらの因果性の形式を発見する手順が必要なようです。
そのため、物語の性質について再確認しておく必要があります。
人類の歴史が始まった時から、物語というものは口承の伝達様式をとってきました。人から人へ、年長者から若人へ、物語は音声言語(parole)によって伝えられてきたのです。
すると、話が次第に変化します。もの語る人、それを聞く人の話の捉え方はみな異なります。おばけ煙突が、それを観察する人の位置によって、二本や三本、あるいは四本に見えるように、物語の解釈学的変容が起こるのです。簡単に言うと伝言ゲーム効果です。
『日本書紀』にある神話にさまざまなヴァリエーションがあるのはそのためであり、出来事だけでなく、神々の名前も変化するのです。
そして、口承という手段を用いているため、ある物語を誰が創作したかとか、そのもとの話は何であったかなどという、起源を求める努力はたいてい徒労に終わります。
それゆえ、この第六十八段の起源を明らかにすることはできません。オリジナルの話の中にも大根や押領使があった、と証明することは不可能です。最初からあったかもしれませんし、物語が変容していく中でそれらが出現した可能性もあります。
では、なぜ長年、大根を食べ続けたら、大根が兵になって館を守ってくれた話になったのでしょう。別の話の流れになった可能性もあったのです。
例えば、第六十段に出てくる真乗院の盛親僧都が好んで食べたのは大根ではなく、いもがしらでした。盛親僧都は常日頃、それを大きな鉢に高く盛って、膝元に置いて食べていました。さらに、所有していた寺を売ってお金に代えて、すべていもがしらを買うために使いました。
だからといって、いもがしらが僧都の危機を救ったとか、見返りがあったということはありません。
押領使は、大根を買うために館を売りませんでしたし、大根足の女性が現われてきれいな布を織ってくれたとか、竜宮城に連れて行かれたとか、財宝の入った葛篭をもらった、という話でもありません。
また、第六十七段には、今出川院の近衛の話があります。彼女は勅撰和歌集に二十七首もの歌が収載されるほどの歌人でした。若かりし頃には、常に百首の歌を詠み、賀茂神社の岩本社、橋本社の御手洗の水で書いて、手向けていたといいます。
第六十九段には、書写山の性空上人の話があります。上人は法華経を読誦し続けたことにより、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が清浄になり、豆が煮える時、豆がらが焚かれるときの声を聞くことができました。
これらの共通点は長年の継続ですが、継続による結果はそれぞれ異なります。
あるいは、先後が逆でもよかったのです。大根が館を守ってくれたから、毎日大根を食べるようになった、などの話になった可能性もありました。
しかし、第六十八段はそうなりませんでした。なぜでしょう。
それは、食べ続けたものが大根だったから、そして食べた人物が押領使だったからです。
なぜそう言えるのでしょう。それを理解するために、それぞれ詳しく見ていきましょう。
押領使は、平安時代諸国に設置された令外官の一つであり、地方の内乱や暴徒の鎮定、盗賊の逮捕などに当たっていました。陽成天皇の元慶二年に蝦夷の乱を鎮めるため、押領使が兵を率いて出羽に至ったのが始まりです。
その後、朱雀帝の天慶以後、下総・下野・出雲・淡路・出羽・陸奥など諸国に並び置かれることになりました。国守が押領使を兼ね、三十人の兵を従えていたと謂います。*2
押領という言葉は「古代においては兵卒を監督・引率することを意味し」ていました。しかし、「平安時代中頃からは、転じて他人が正当な権利に基づいて知行している所領・諸職などを、実力で侵害し奪うことを意味する」ようになりました。兼好法師の時代には、「もっぱらこの意味で用いられ、押領に関わる訴訟が多数争われた」と謂われています。*3
押領使という言葉は、単なる職名ではなく、それに付随する意味をもっていたのです。
次に大根ですが、これは歴史のある野菜であり、生薬でもあります。仁徳天皇はこう歌を詠んでいます。*4
つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す 弥が栄え為す 来入り参いくれ
つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕 枕かずけばこそ 知らずとも言はめ
この時代には、すでに大根は畑で栽培されていたようですね。
李時珍『本草綱目』
もともと、大根はオホネ(於保根)と呼ばれていました。*5 また、スズシロ(酒々代・鈴白・清白)、スズホリ(須須保利)と呼ばれたこともあります。*6 鎌倉・室町時代頃には、ツチオホネ(土大根)と呼ばれていました。*7 ちなみに、ダイコンと呼ばれるようになったのは、遅くとも江戸時代頃からのようですね。*8 漢字では、葍(フク)、莱菔(ライフク)、蘆菔・蘿菔・蘆茯・蘿蔔などと表記されます。
大根の薬としての効能は、たいていの本草書に共通するところは、「大いに気を下し、穀を消し、痰を癖し、人の生を肥健にし、つき汁を服すれば消渇を主どる」ことです。*9
特に、貝原益軒が『大和本草』で、第一の効能として挙げているのが、「麪毒ト豆腐ノ毒ヲケス」、また丹波康頼は『医心方』で「五穀及び魚肉の毒を消す」と言っているように、大根の代表的なはたらきは解毒です。
ちなみに、夏目漱石の『吾輩は猫である』には大根卸に含まれるジヤスターゼが胃病の薬として出てきましたね。高峰譲吉は、餅に大根おろしをつけて食べると胃がもたれないという言い伝えをヒントにタカジアスターゼを開発しました。うどんやそば、秋刀魚にも大根おろしを添えることは理にかなっているのです。
つまり、人の体内に入ってきた毒を打ち消す、それが大根のはたらきであり、物語の構造の骨格となったのです。
食べた人物が押領使だったため、体内と体外から入ってきた食物の毒との対立が、館内と館外から侵入してきた所領の侵害者との対立に拡大されました。そして、二つの大根は二人の兵に置換されたのです。
薬とその効果との因果関係はプラセボ効果があるように、個人差があり、あやふやなところがありますが、先後関係は逆転することはありません。薬は必ず服用された後に効果を発揮するのです。
それゆえ、大根を継続して食べたから、それが館を守ってくれたのでした。
そうして、この物語は完成したのです。
いや、完成と言うよりも、兼好法師によって文字言語(écriture)にされたことで、この先も口承され続け、変容し無数の物語に増殖していったであろう可能性を失ったのです。文字に写された物語は、歴史の風景写真なのかもしれません。
このような現実離れした物語を聞いた兼好法師は、それを頭から否定しませんでした。また、盲目的にその話を信じてもいないようです。彼は、第七十三段では、「世に語り伝わること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり」と言っているのに、ここでは、
「深く信じていたからこそ、このような徳もあったのだろう」
と、ちょっと距離をおいて感想を言っています。おもしろいですね。
(ムガク)
*1:クロード・レヴィ=ストロース、大橋保夫訳『野性の思考』
*2:源光圀『大日本史』
*3:平凡社編『日本史事典』
*4:『日本書紀』・『古事記』
*5:『日本書紀』・『古事記』・源順『和名類聚抄』
*6:『延喜式』・屋代弘賢『古今要覧稿』
*7:一条兼良『公事根源』
*8:貝原益軒『大和本草』
*9:李時珍『本草綱目』・唐愼微『經史證類大觀本草』
(原文)
筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひ返してンげり。いと不思議に覚えて、日比こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ、と問ひければ、年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う、と言ひて、失せにけり。深く信を致しぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。
第百三十一段
(原文)
貧しき者は、財をもって礼とし、老いたる者は、力をもって礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己れが誤りなり。
貧しくして分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を受く。
○
『徒然草』には礼儀に関することがらが多くでてきます。
前々回、「017―第百三十六段・(塩・鹽・鹹)―」の和気篤成は後宇多法皇に無礼をはたらき、咎められていましたね。
現代でも同様ですが、礼儀作法は人間の社会、特に宮中、兼好法師のいた階級社会の中ではとても重要なものでした。
礼の基本は、常に敬を忘れず、行為が正当であり、発言が理に適っていることです。
その礼の重要性を知っていたとしても、それを理解していなければ、罪を犯したり、病気になってしまうのです。礼を理解することは病気の予防にもつながります。
「貧しき者は、財をもって礼とし、老いたる者は、力をもって礼とす」というのは、『礼記』の「曲礼上」にある「貧者は、貨財を以って礼と為さず。老者は、筋力を以って礼と為さず」が由来です。
自分に不足しているものを、無理に相手に差し出すことは、礼ではないのです。
礼は機械的なルールではありません。孟子が「仁に非ざれば為すこと無し、礼に非ざれば行なうこと無し」と言ったように、仁なき礼は、礼にあらず、と言って良いでしょう。今風に言えば、思いやりのないマナーは、マナーではありません。
目の前の人に対する仁だけでなく、その他の人、自分の心身、生み育ててくれた親に対する仁、孝にも配慮する必要があります。
その上で、「己が分を知」らねばなりません。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」です。できないことを無理してやらないこと。
『易経』「蹇彖」に「険を見て能く止まる、智なる哉」とあるように、「及ばざる時は速かに止む」、それが、「智といふべし」なのです。
しかし、人間はだれもが間違いをおかすことがあります。もし、己が分をこえてしまったら、どうすればよいのでしょう。
反省し、その経験を次に生かせばよいのです。
「過ちを改めざる、是れを過ちと謂う」と孔子が言ったように、一度の誤りは、本当の誤りではないのですから。ゲーテは「人間の過ちこそ人間を本当に愛すべきものにする」と謂いました。間違ってもいいのです。
ここでは、礼の心、そして己が分を知ることが、犯罪や病気の予防となることが述べられていました。
(ムガク)
『徒然草』 慶長・元和年間
第百三段
(現代語訳)
後宇多法皇の御所、大覚寺殿において、近習の人たちが、なぞなぞを作って解いて遊んでいた。そこへ医師、丹波忠守(タダモリ)が参上すると、侍従大納言公明卿は、
「我が朝の 者とも見えぬ 忠守かな」
と、なぞなぞを出した。そして、
「唐瓶子(カラヘイジ)」
と解いて、近習の人たちで笑ひあうと、忠守は腹が立って、そこから退出した。
○
前回は、医師の和気篤成がでてきました。今回は丹波忠守です。
医者には二大名家に和気家と丹波家がありましたが、なぜそうなったのでしょう。
鎌倉、平安、奈良朝とさかのぼり、大宝律令が制定された当時は、医者を志すものは、読むべき医学書が指定されており、考試や修学の年月なども制度としてありました。勉強し、努力を積み重ね、試験に合格すれば、誰もが医者としてなんらかの地位につける可能性があったのです。
しかし、平安中期ころから、荘園が拡大するにつれ、官位の争奪は一種の権力闘争となり、典薬頭の官職は和気家と丹波家が世襲することになりました。そうして二大名家が確立したのです。
丹波家は、一説には後漢の霊帝にはじまり、その八世の孫孝日王が来朝し、帰化したと伝えられています。(『新撰姓氏録』)
その丹波家の忠守が、小馬鹿にされたのです。なぜでしょう。
西尾実・安良岡康作は、『新訂 徒然草』(岩波文庫)の中で、「唐瓶子」を、戦後に発見された東常縁の写本にならい、「唐医師」と解釈し、
忠守が帰化人の子孫でありながら、歌人、『源氏物語』の注釈家でもある、和漢にわたる二面性を認めて、「あなたは、ほんとうは、唐の医師ではないのですか」という意味をこめてからかったとすれば、「唐医師」こそ最も自然な解き方と考えられる。
と述べています。しかし、「唐医師」では話の流れがおかしいですね。
なぜなら、そのなぞなぞを「唐医師」と解いても、近習の人たちが笑い合うこともなければ、忠守がそこまで腹を立てることもなかったからです。
出身の差別などを考えて、こじつければ、そう解釈できないこともないのですが、ここは、やはり「唐瓶子」でよいのです。
ではなぜ、答えが「唐瓶子」だと、笑われて、腹を立てるのでしょう。
それは、忠守が斜視だったからです。
斜視とは、やぶにらみ、眇(スガメ)、とも呼ばれ、両目の視線が合ってなく、片目だけずれている状態のことです。事故や病気でなる人もいますが、そうではなく、単なる個性としてもよくあります。
有名人では、ジョン・F・ケネディや、エイブラハム・リンカーン大統領、文学では芥川竜之介の『杜子春』の眇の老人、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』の主人公、島倉伊之助も斜視でした。
そして、平清盛の父であり、平氏(ヘイジ)ではじめて昇殿を許された平忠盛もそうでした。
菊池容斎『前賢故実』巻第六
平忠盛は鳥羽院の御前にて舞をした時、「伊勢瓶子(イセヘイジ)は、素瓶(酢瓶・スガメ)なりけり」と、人々からはやされました。
それは、忠盛の平氏の家系が伊勢に住んでいたため、その国の産の器、「瓶子」にことよせて「伊勢瓶子」と、また忠盛の斜視・眇を「素瓶(酢瓶)」にかけて、「伊勢平氏は、眇なりけり」と、からかわれたのです。
『年中行事絵巻』
そのため忠盛は気分を害し、御遊の途中で退出しましたが、控えていた平家貞にそのことを言うと、怒って殿上まで斬り上がろうとするため、「別のことなし」と答えました。
侍従大納言公明卿のなぞなぞは、この『平家物語』の一節をふまえているのです。
平忠盛は、地方から殿上にやってきた、身分も見た目も自分たちとは異なったものとして、公卿たちから小馬鹿にされました。
丹波忠守は、はるか昔に先祖が大和に帰化し、同じ殿上人として生活していたはずなのに、斜視であるという、自分ではどうしようもない見た目に触れられ、「唐の平氏」であると言われたのです。
忠守の怒りはここにあります。
外見的特徴をあげつらい、笑いの種にすることはいつの時代にもありました。
現在でも、子供や大人の中、学校、職場、テレビの中など、いたるところで見ることができますね。映画やジョークの中でも見られます。特に、頭髮の多寡、背の低さ、肥満など。
自分たちと異なる他人の特徴を指摘し、笑い合うことも人情です。しかし、そうしないこともまた人情です。
孔子は「おのれの欲せざるところ人に施すことなかれ」と言いました。キリストなら「自分のして欲しいことを人にもしてあげなさい」と言うでしょう。
言動は、常によく考えてから行動に移した方がよさそうですね。
(ムガク)
(原文)
大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、くすし忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐瓶子」と解きて笑ひあはれければ、腹立ちて退り出でにけり。
『徒然草』 慶長・元和年間
第百三十六段
(現代語訳)
医師の和気篤成(アツシゲ)が、(故)後宇多法皇を診察しにきた時、法皇に食事が運ばれてきた。
篤成は、法皇の食事中、傍に控えていた侍臣たちに言った。
「今運ばれてきた料理について、法皇から色々、文字も功能もお尋ね下されたら、何も見ず皆さんにお答え申し上げましょう。本草(薬物学)の書を確かめて下さい。間違いは一つもないことでしょう」
ちょうどその時、(故)六条の内大臣、源有房(アリフサ)が参上してきた。
「有房はついでに物を習いたい」と言って、「まず、しおという漢字は、何の偏か」と質問した。
篤成は「土偏です」と有房に申し上げると、「あなたの才の程度は、それだけで明らかだ。もうこれ以上聞きたいこともない」と有房は言った。
その場はざわざわとどよめき、篤成は法皇の前から退出した。
○
この段では和気篤成が内大臣有房にコケにされました。第百三段では丹波忠守が侍従大納言に小馬鹿にされています。
和気家と丹波家は医者の二大名家として知られており、室町ころの書、『庭訓往来』にはこう書かれてあります。
「此の間、持病再発し、又、心気、腹病、虚労に更に之間発し、傍がた以て療治灸治の為、医骨の仁を相尋ね候といへども、藪薬師には間々見え来るが、和気、丹波の典薬、曾て逢い難く候」
『徒然草』では、名医の家系の二人がそろって侮辱されているのですが、兼好法師は医者が嫌いなわけではありません。第百十七段では、「よき友」の二番目に「医師(クスシ)」を挙げているのですから。
篤成の何がいけなかったのでしょう。職業や身分でしょうか。それとも漢字の偏を誤ったことでしょうか。どうも、それ以前の問題があるようですね。
第一に、篤成は後宇多法皇に無礼をはたらきました。彼は自分とは身分の比べようもない法皇の意見を聞いていません。法皇は彼に料理について何か聞きたかったのでしょうか。彼は目上の人の意思をないがしろにして話を進めたのです。
第二に、彼は自分の知識をひけらかそうとしました。「おのが智の勝りたる事を興とす。これまた礼にあらず」、「道を学ぶともならば、善に伐らず、ともがらに争うべからずといふ事を知るべき」と、第百三十段にあるのです。
おそらく皆の癇に障ったのはこの辺りだったのでしょう。なぜなら「しお」が「土偏」というのは、あながち誤りでもなかったからです。
『医心方』
日本最古の医学書、丹波康頼の著した『医心方』「五穀部第一」には、胡麻や大豆などとともに「塩」が収載されています。食事の時の質問で、食材の「塩」を「土偏」と答えても、通常だったら何の問題にもならなかったかもしれません。
でも、有房は「あなたの才の程度は、それだけで明らかだ。もうこれ以上聞きたいこともない」と言い、篤成をコケにしました。なぜでしょう。
それは篤成が「本草(薬物学)の書を確かめて下さい。間違いは一つもないことでしょう」と言ったからです。
当時読むことができた本草書、『經史證類大觀本草』を見ると、「しお」は全て「鹽(エン)」 と書かれているのです。
ちなみに、医学上の五味の「しお」は「鹹(カン)」と書きます。「鹽」も「鹹」も「鹵(ロ)」が偏です。
『医心方』
有房は篤成の揚げ足をとり、無礼を咎めたのかもしれませんね。
(ムガク)
(原文)
くすし篤成、故法皇の御前にさふらひて、供御の参りけるに、今参り侍る供御の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじと申しける時しも、六条故内府参り給ひて、有房、ついでに物習ひ侍らんとて、先づ、しほといふ文字は、いづれの偏にか侍らんと問はれたりけるに、土偏に候ふ、と申したりければ、才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし、と申されけるに、どよみに成りて、罷り出でにけり。
第百四十九段
鹿茸を鼻に当てて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食むと言へり。
○
怖いですね。脳を食べる虫の話です。絶対にこの「鹿茸を鼻に当てて嗅」ぎたくないですよね。この鹿茸とは何でしょう。
ふつうに思い浮かべるのはキノコでしょう。鹿茸(シシタケ)は昔から日本では食用とされており、元禄時代の食材辞典、平野必大が著した『本朝食鑑』にも収載されています。この書では食材ごとにきちんと分類されており、鹿茸は松茸(マツタケ)や初茸(ハツタケ)、椎茸(シイタケ)、平茸(ヒラタケ)などと並ぶ、代表的なキノコとして扱われています。
でも、キノコだから虫が湧きやすいとは言え、脳を食べる虫については知られていません。もっとも、有毒なキノコであれば、幻覚や幻聴、意識不明に陥った時に、その原因を小さな虫のせいにして、脳を食べられたからだ、と説明することもできますが、この鹿茸(シシタケ)は「本邦、毎に之を食して毒に当たらず、復た未だ病を治する者を聞かざる」と『本朝食鑑』にも書いてあるように、無毒なキノコです。ではどういうことでしょう。
鹿茸にはもう一つあり、それは生薬として使われる鹿の幼角です。鹿の角は二月から四月にかけて脱落し、四月頃に幼角(袋角)が新生し、成長します。古来、鹿茸(ロクジョウ)は強壮薬、強精薬として用いられてきました。
中国の薬学書、明代の李時珍による『本草綱目』には、「鹿茸は鼻を以て之を嗅ぐべからず。中に小白虫有りて、之を視れども見えず。人の鼻に入りて必ず虫顙(チュウソウ)を為す。薬は及ばざるなり」とあります。
なので、兼好法師の言った鹿茸とは『本草綱目』(本当はもっと前の時代、宋代の唐愼微による『經史證類大觀本草』)の記載が由来であり、キノコではなく鹿の角を意味します。この鹿茸は、(乾燥させたものは)硬いわりにスポンジのように穴がたくさんあります。生薬は保存の状態によって虫が湧くので、この穴の中に湧いた虫が脳を食べるのでしょうか。実はこれもちょっと違うのです。
『本草綱目』にある「虫顙」は、西晋代(三国時代の少し後)、葛洪による『肘後備急方』の「治牛馬六畜水穀疫癘諸病方第七十三」に出てくる言葉であり、これは家畜伝染病の一種なのです。
蟲顙、馬鼻沫出し、梁腫起きるは、治すべからざるなり。驢馬、脬し轉せば死せんと欲す。
とあり、これに感染した家畜は鼻などから体液が流れ出て、排尿が増え、寝転がって死に向かいます。つまりこれは感染性海綿状脳症(TSE)の一種であり、この場合は鹿についてなので、慢性消耗病(CWD)と考えてもよいかもしれません。
慢性消耗病の原因は虫でも細菌でもウイルスでもありません。現在、その原因はプリオンタンパク質という説がありますが、「之を視れども見えず」、肉眼で見ることはできません。
「脳を食む」とありますが、当時の脳と現在の脳は同じでしょうか。少し違います。この頃の脳は以下のようなものです。
人が生れるには精というものが必要である。この精が生成すると脳髄が生れる。*1 内臓(五臓六腑)も脳髄のおかげで、その役割を果たす。*2 涙や鼻水などは陰に属し、体液をつかさどる脳髄が作っている。*3 また脳の機能が低下すると、耳鳴り、四肢の運動低下、めまい、何もないのに、だるくて寝てばかりいるようになる、と考えられていました。*4
これが、当時の脳に対するイメージですが、兼好法師、あるいは彼にそれを教えた人は、「虫顙」による症状が脳の症状であるという、当時の正しい医学的知識をもっていたのです。それ故、「虫顙を為す」と言う『本草綱目』の記述を、「脳を食む」に翻訳したのでした。
「脳を食む」の「脳」はもともとは家畜、牛や馬、鹿などの脳のことでした。しかし、それが人の脳にも伝染するかもしれない、と不安に思う気持ちは今も昔も同じです。
現在でもクロイツフェルト・ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease, CJD・狂牛病)があるように、慢性消耗病の人間への感染の可能性が示唆されています。汚染された食材・薬材については十分気を付けなければなりません。
その一方で汚染されていないもの、安全なものについては、過度に心配しすぎないように十分気を付けなければなりません。
心配しすぎると、せっかくの美味しい牛肉も味が落ちてしまうし、治療に必要な鹿茸も使いづらくなってしまいますから。
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (皇太后宮大夫俊成)
つづく
(ムガク)
*1:『黄帝内経霊枢』「經脈篇」「人の始めて生れるや、先ず精が成り、精は成って脳髄が生れる」
*2:『黄帝内経素問』「五蔵別論」「脳髄を以て臓を為す」
*3:『黄帝内経素問』「解精微論」「泣涕は脳なり。脳は陰なり。髓は骨の充なり。故に脳は滲じて涕す」
*4:『黄帝内経霊枢』「海論」「脳は髓の海を為す。…髓海が不足すれば、則ち脳は転じて耳鳴し、脛痠し眩冒す。目する所見無く懈怠し安臥す
鎌倉末期の歌人、卜部兼好(吉田兼好)は後二条天皇に左兵衛佐として仕えていましたが、天皇崩御の後、出家し遁世しました。兼好は歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされました。
兼好は晩年、自らの墓を京の西方にある仁和寺のほとり雙の岡に定め、歌を詠んでいます。
雙の岡に無常所まうけてかたはしに桜を植ゑさすとて
契りをく花と雙びの岡のへに あはれ幾世の春をすぐさむ
『兼好法師集』
本居宣長もこれに倣いました。自ら松坂の西方にある山室山に墓をこしらえ、そこへ山桜を植えるように計画し、歌を詠んだのです。
山室の山の上に墓ところをさためてかねてしるしをたておくとて
山むろにちとせの春の宿しめて 風にしられぬ花をこそ見め
今よりははかなき身とはなげかじよ 千代のすみかをもとめえつれば *1
宣長懐紙 一幅、寛政十二年(1800年)九月十七日、山室山妙楽寺
兼好と宣長、彼らの歌の文句は異なりますが、その句の底にある意識、そこはまったく同じです。彼らは死を恐怖や不安なく受け入れ、自らの死後も、時は無常に移り過ぎゆくことを悟っています。春や桜の花は生の象徴であり、彼らは死の中にも生を見ているのです。
山室山の宣長の墓:横にあるのが山桜
宣長の遺言書、寛政十二年七月執筆
このような意識は彼らだけのものではありません。例えば日本の医学流派「多賀法印流」の医書には「生死に始め無く終わり無し」とあります。*2 もしかしたら日本人の心の奥底にはある種の共在意識のようなものが脈々と流れ続けているのかもしれません。
さて、兼好法師は『徒然草』の作者としても知られています。この有名な随筆には医療に関するものが結構でてきます。なぜなら彼は人の身に必須なものとして、「食う物」、「着る物」、「居る所」と並び、「医療を忘るべからず」と言い、「薬」を挙げているからです。 *3
先日、当ブログでお灸について述べましたが(「024-お灸・漢意・もののあはれ-本居宣長と江戸時代の医学」)、『徒然草』では「灸」という言葉は2回使われてます。「薬」は8回。「医」は11回。「病」は25回です。
そして「死」は38回でてきますが、「生」は61回、約二倍です。これから、つれづれなるままに徒然草の中の医療の世界を見て行きましょう。
つづく
(ムガク)
*1:『鈴屋集』八之巻
*2:『印流医術書類』「本無生死論」
*3:『徒然草』「百二十三段」