人面瘡を実際に治療した人がいるのですが、それは『解体新書』の翻訳にたずさわった桂川甫周の祖父であり、幕府の蘭方医であった桂川甫筑(1697-1781年)です。漢詩人、菅茶山の随筆『筆のすさび』にその記録が残されていますが、短いので全文を見てみましょう。
*
城東材木町に一商あり。年二十五六。膝下に一腫を生ず。逐漸にして大に、瘡口泛く開き、膿口三両処、其位置略人面に像る。瘡口時ありて渋痛し、満るに紫糖を以てすれば、其痛み暫く退く。少選あつて再び痛むこと初めのごとし。
城東材木町(今の日本橋のあたり)にある商人がいた。膝の下に一つの腫瘍ができたが、日を追うにしたがってだんだんと大きくなり、瘡口は広く開きはじめ、膿が出る穴が三か所ほどあり、その位置がまるで人面のようであった。瘡口は時々痛み、ひどい時に黒砂糖を塗布すると、その痛みはしばらく退いた。が、それからまたしばらくすると、また前のように痛むのであった。
夫、人面の瘡は固より妄誕に渉る。然るにかくのごときの症、人面瘡と倣すも亦可ならん乎。蓋、瘍科諸編を歴稽するに、瘡名極めて繁し。究竟するに、其症一因に係て、而発する所の部分、及び瘡の形状を以て、其名を別つに過ざるのみ。人面瘡のごときも亦是なり。
そもそも、人面の瘡ははじめは根拠のない嘘であった。それなのに、このような病症を人面瘡と呼ぶのは正しいのだろうか。たしかに瘍科に関する古今の医学書をいろいろ読むと、瘡の名前は極めて多い。しかし結局のところ、その症は要因が同じでも、発生する身体の部位と、瘡の形状によって、様々な瘡名が付けられているに過ぎない。人面瘡もその一つなのだ。
*
というのが甫筑の主張です。彼はいわゆる飲食会話する怪談的人面瘡を「固より妄誕」として片付けました。瘡が人の顔に似ていれば人面瘡と呼んでいいのであって、それをそれと呼ぶためには、それが何かを食べたり飲んだりするとか、しゃべったりする必要はまったく無いのです。
また治療に紫糖を使っているのは時代を反映していますね。享保時代に吉宗が糖業を奨励し、甘蔗の栽培法や、製糖法を求め、宝暦、明和ころから製糖法は諸国に広められました。それ以前は糖は輸入に頼る高級品であったので、瘡の治療に実験的に使えるようになったのは、この時代辺りからかもしれません。
甫筑は人面瘡をどのように治療したか、ここでは言い残しませんでしたが、彼の四代後の桂川甫賢はもう少し詳しく書き残しています。
つづく
(ムガク)