今から一年前、2013年9月22日には差別撤廃東京大行進が行われました。そして先日、2014年9月19日には、東京都国立市議会が「ヘイトスピーチを含む人種及び社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書案」を採択しました。国連人種差別撤廃委員会がヘイトスピーチを規制するように日本政府に勧告したのが先月の末、だんたんこの動きが他の自治体にも広がるかもしれません。
小生が東洋医学を学び研究していたのは新大久保でした。以前は韓流グッズや韓国料理を食べられる場所などあまりなかったのが、あっという間に数え切れないほど増え、町の雰囲気は変わってしまい、町はにぎやかに楽しくなってきました。
それが昨年頃から、◎◎会という団体が新大久保でデモを始めました。日本人が100人以上集まり、「韓国人ぶっ殺せ!絞め殺せ!」、「朝鮮人をガス室に送れ!」などと叫びながら行進し、また「お散歩」と呼ばれた暴力的な嫌がらせ行為も行われたようです。
昨年は新大久保へはあまり行かず、デモにも遭遇しなかったので、その具体的な雰囲気は判りません。マスコミもあまり取り上げてこなかったようにも見えます。しかしそのような人種差別のデモの存在を知っただけで、デモの参加者と話す機会もないのですが、彼らの思想や主義、方法論というものが、なかなか理解が困難です。どんな人でも、たとえ悪者であっても、少しくらい理解できても良いのでは、と思いつつ、それが出来ないのは自分が馬鹿なのでは、とも思ってしまいます。彼らの主張する在日特権というものが存在するようには見えないし、抗議する対象が正しいようにも見えません。暴力や言葉により弱い人々を傷つける理由は何なのでしょう。
言論や表現の自由は民主主義の基本です。カール・R・ポパーは、「開かれた社会」は、個人の自由、非暴力、少数者や弱者の擁護などが重要な価値とされている共同生活なのであり、国家形態や政体ではない、と言いました*1。日本社会の少数派の弱い人々をいじめながら、表現の自由を行使している人たちは、いったい何をしたいのでしょう。カースト制度のあるインドでは、マハトマ・ガンジーはよく聴衆の前で、左手をあげて5本の指を開き、5つの主張をしました。そのうち2つが「不可触民の平等」と「女性の平等」です。生まれや性別により差別を受けないことはとても重要なことでした。
ヘイトスピーチっぽいものは江戸時代にもありました。それは儒学が官学になったことがきっかけであり、その代表者が賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤や彼らの弟子たちです。それは、はじめのうちは、日本の儒学者たちが日本には日本の伝統ある文化があり、天皇もいるのにもかかわらず、唐(カラ)の文化を最上とし、皇帝や聖人を崇め奉り、日本の事を学びもしないことに対する批判でした。外国人に対する批判ではなく、日本人に対して批判を行うために唐の欠点を指摘していたのです。しかし、国学を学ぶものが増えてくると、自分たちのアイデンティティ確立のため、あるいは何らかの別の理由のためのヘイトスピーチが目立ってきたのです。
近世、加茂眞淵などは、僧契沖などのせつによりて、歌学を復古し古言を明かに弁じて、著書も多く、大いに俗眼を開けり。されども余りに日本のすなほなる君子国の風をおし尊ぶとて、唐山(カラ)の書、渡りてより、日本の風をけがしたるやうに説なり、遂に聖人の道をもからずして治国終身も済事のやうにいふによりて、其の徒、またその声によりて、唐山の事を吠えそしる事甚だし。*2
エマニュエル・トッドは、日本や朝鮮、ドイツなど権威主義家族の地域は、存在しない差異を知覚することに優れていて、民族的な特徴を発明しようと努力すると言いましたが*3、この特徴は今も昔も変わっていないようですね。また彼は、権威主義家族は、不平等主義的な価値と平等な社会実践を伝達し、核家族は、平等主義的な価値と、不平等な社会実践を伝達すると、言いましたが、現在、日本では核家族化が進んでいる過程なので、その対立が◎◎会とそのカウンターに現れているのかもしれません。トッドによると、権威主義家族は時折存在しない差異性を感知し、自分自身で発明したイデオロギー的な亡霊と闘おうとする傾向があり、差異性を社会的組成の不均質性としてとらえずに、外部からの攻撃として定義するようです。その最悪の結果がナチスによる反ユダヤ主義でした。
日本は江戸から明治、大正、昭和、平成とヤジロベエのように価値観が揺れ動いてきました。ドイツにしろ日本にしろ、過ちは何度も繰り返したくないものです。ではどうしたら良いのか。江戸期にヘイトスピーチを見てきた廣瀬臺山であれば、「恩を知る事」と言ったかもしれません。五穀を食物として選び、鎌鍬、鎗剣などを製造し、衣服、建築、文字、礼学、道徳、医学などたくさんのものを発明、発展させ、日本に教えてくれた国に対して、恩を知ることの重要性を説きました。「恩を恩と知らざるは、犬猫にも劣るといふものなり。人の恥慎むところなり」*4
また臺山は、心の病として、不義不孝不忠、口目の欲、驕者の欲、金銭の欲、安逸の欲、淫乱の欲、人の善を妬み、己が能を誇り、義を欠きても己が利を貪り、或は吝嗇、惰弱、臆病を大病として挙げています。心の病には特殊な感染性があり、人と接触する必要がありません。現代ではインターネットを介して、あっというまに伝染する可能性があります。あの会やデモもインターネットを利用して仲間を増やしていったようです。とすれば、対策は病気の人の治療と、感染拡大の予防、未病の人の免疫の強化がまず考えられるでしょう。
マスクは感染予防に有効ですが、情報の規制、制限、インターネットに関してはフィルタリングはデメリットの方が大きいでしょう。これは民主主義的国家、独裁国家の行う手法です。ワクチンによる免疫強化は有効かもしれません。臺山は「聖経を読み、師親友につきて、能々療治すべきなり」と言いました。良い本や先生、親友というものはとても大事なものです。
ちなみにヘイトスピーチを禁止する法整備は、きっとこれとは別の分野ですね。おそらく、新法を作るか、あるいは名誉棄損や侮辱罪に関する法律を改正するか、どちらかでしょう。
臺山は、たとえどんな時でも「仁に違う事なかれ」と言いましたが、アルベルト・シュバイツアーなら、「生命への畏敬の世界観を持つこと」、と言ったことでしょう。ゲーテであればこう言うことでしょう。
人間はけだかくあれ
情けぶかくやさしくあれ
そのことだけが
われらの知っている
一切のものと
人間とを区別する*5
(ムガク)
*1: カール・R・ポパー/コンラート・ローレンツ、『未来は開かれている』
*2: 廣瀬臺山、『雅俗渭辨』
*3: エマニュエル・トッド、『世界の多様性―家族構造と近代性』
*4: 廣瀬臺山、『小頑俗訓』
*5: ゲーテ、「神性」という詩から
(資料の提供に関して改めてF女史に感謝いたします)
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