(これは2011.1.20から2011.2.12までのブログの修正版です。四つを一つにまとめてあります。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
-人面瘡(1)-
国立国会図書館所蔵「難病療治」、 左の中段が人面瘡。人面瘡に米を食べられていたので米屋の請求書を見せているところ。
現代にまで語り継がれてきた「人面瘡」、怪談・奇談の一種として知られています。江戸前期の作家、浅井了意(1612-1691年)の『伽婢子』に記されてから、様々な小説、漫画などに取り上げられてきました。この人面瘡、どのようなものだったのか。それは身体の一部にできた人の顔そっくりのデキモノであり、物を食べたり酒を飲んだりして、その人を死に追いやるほど苦しめます。『伽婢子』ではある農民の足に人面瘡ができて死ぬところを、旅の僧が「金、石、土をはじめて、草木にいたりて、一種づつ瘡の口に」入れ、「貝母を粉にして、瘡の口ををし開き、葦の筒をもつて吹き入」れると、十七日後にその人面瘡は消えました。
この貝母とはユリ科アミガサユリ属に属する植物の鱗茎のことであり、貝原益軒(1630-1714年)は『大倭本艸』の中で、「結気を散じ、煩熱を除き、心肺を潤し、所以に嗽を治し、痰を消す」と言っています。これは当時の中国でも癰瘍や瘰癧などによく使われていた生薬でした。
さて実際に人面瘡のような奇妙な病はあったのか。実は当時の外科に関する医学書にそれについて記載されています。それは林子伯の『錦嚢外療秘録』(明和九年出版)ですが、少し引用してみましょう。
九十四 人面瘡
人面瘡、古有りと言ふ。近世罕(まれ)なり。此三陽の湿熱、患いを成す。膝上に生じて、人面に似たり。
荊防排毒散 貝母を倍して、之を治す。方は十七に見たり。太乙膏之を治す方は一に見たり。
明和九年は西暦1772年なので、林子伯は浅井了意よりも数世代後の人。江戸中期には人面瘡はまれであったことが分かります。三陽、身体の太陽、陽明、少陽という陽部の湿熱が発症の要因と子伯は言っています。
荊防排毒散は「諸瘡疥癬便毒下疳を治す」薬のことで、荊芥、防風、羌活、獨活、柴胡、前胡、薄荷、連翹、枳殻、桔梗、川芎、茯苓、金銀花、甘草、沢瀉に生姜や燈心などを入れて作りますが、配合は結構適当です。症状によって同じ名前でも生薬の配合はかなり変わります。旅の僧が使った様々な生薬はもしかしたら、この荊防敗毒散の一種のことだったかもしれませんね。やはり貝母が、倍量使われているので、重要な役割を担っていますが、はたして実際に効果があったのでしょうか。
ちなみに太乙膏は軟膏の名前で、肉桂、白芷、当帰、玄参、赤芍、生地黄、大黄、木鼈子、阿魏、軽粉、槐枝、柳枝、血餘、黄丹、乳香、没薬、麻油などから作られています。現在でも薬局で売ってますね。
(つづく)
(ムガク)
-人面瘡(2)-
人面瘡を実際に治療した人がいるのですが、それは『解体新書』の翻訳にたずさわった桂川甫周の祖父であり、幕府の蘭方医であった桂川甫筑(1697-1781年)です。漢詩人、菅茶山の随筆『筆のすさび』にその記録が残されていますが、短いので全文を見てみましょう。
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城東材木町に一商あり。年二十五六。膝下に一腫を生ず。逐漸にして大に、瘡口泛く開き、膿口三両処、其位置略人面に像る。瘡口時ありて渋痛し、満るに紫糖を以てすれば、其痛み暫く退く。少選あつて再び痛むこと初めのごとし。
城東材木町(今の日本橋のあたり)にある商人がいた。膝の下に一つの腫瘍ができたが、日を追うにしたがってだんだんと大きくなり、瘡口は広く開きはじめ、膿が出る穴が三か所ほどあり、その位置がまるで人面のようであった。瘡口は時々痛み、ひどい時に黒砂糖を塗布すると、その痛みはしばらく退いた。が、それからまたしばらくすると、また前のように痛むのであった。
夫、人面の瘡は固より妄誕に渉る。然るにかくのごときの症、人面瘡と倣すも亦可ならん乎。蓋、瘍科諸編を歴稽するに、瘡名極めて繁し。究竟するに、其症一因に係て、而発する所の部分、及び瘡の形状を以て、其名を別つに過ざるのみ。人面瘡のごときも亦是なり。
そもそも、人面の瘡ははじめは根拠のない嘘であった。それなのに、このような病症を人面瘡と呼ぶのは正しいのだろうか。たしかに瘍科に関する古今の医学書をいろいろ読むと、瘡の名前は極めて多い。しかし結局のところ、その症は要因が同じでも、発生する身体の部位と、瘡の形状によって、様々な瘡名が付けられているに過ぎない。人面瘡もその一つなのだ。
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というのが甫筑の主張です。彼はいわゆる飲食会話する怪談的人面瘡を「固より妄誕」として片付けました。瘡が人の顔に似ていれば人面瘡と呼んでいいのであって、それをそれと呼ぶためには、それが何かを食べたり飲んだりするとか、しゃべったりする必要はまったく無いのです。
また治療に紫糖を使っているのは時代を反映していますね。享保時代に吉宗が糖業を奨励し、甘蔗の栽培法や、製糖法を求め、宝暦、明和ころから製糖法は諸国に広められました。それ以前は糖は輸入に頼る高級品であったので、瘡の治療に実験的に使えるようになったのは、この時代辺りからかもしれません。
甫筑は人面瘡をどのように治療したか、ここでは言い残しませんでしたが、彼の四代後の桂川甫賢はもう少し詳しく書き残しています。
つづく
(ムガク)
-人面瘡(3)-
桂川甫筑は人面瘡を治療しましたが、結局、具体的にどのような治療を施し、予後はどうなったのか記録が残されていません。しかし甫筑の四代後の桂川甫賢(1797-1845)が人面瘡を治療した時の症例がくわしく残されています。これはちょっと長いので二回に分け、原文は省略して現代語に直して見ていきましょう。
文政二年(1819年)の中元(7月15日)、仙台のある商人が、門人を介してこう言ってきた。
「ある人が遠くから治療して欲しいと頼みに来ました。年は三十五なのですが、十四歳の時に左の脛の上に腫物ができました。それが潰れると、膿が流れ出てきて止まることがありませんでした。ついに腐ったような骨が二三枚出てきました。それから四年ほど経つとようやく瘡口が収まってきました。ただ全部の腫物は消えず、歩くことが非常に困難です。だから温泉につかったり、委中(膝の裏のツボ)の静脈に鍼を刺して瀉血をしたりしましたが、どれもあまり効果がありませんでした。医者を数人換えて治療したけれど、とくに改善することもなく歳月が流れ、むしろその腫物は大きくなり、膝を囲んで腿にまで達し、再び膿が出る穴が数ヶ所できました。前の瘡口が再び開いたかのように見えましたが、その症状は以前とまったく異なります。ただ痛みを感じることがなく、今年になって、瘡口は一ヶ所にとどまっています」
桂川家は幕府の奥医師をつとめる家柄で、蘭方と呼ばれるオランダ医学を専門にしているので、腫瘍や怪我などの外科的治療を得意としていました。奥医師というと将軍家の治療に携わるため、高い身分、諸国の大名ほどの地位が与えられていました。一般庶民がおいそれと診てもらうことはできません。この人面瘡の患者は仙台の商人に口利きを頼み、桂川家の門人を介して甫賢に診療をお願いしたのでしょう。なお門人とは、ここでは医学を学ぶ弟子のことであり、師と寝食を共にし、師のお城務めの時には家を守ります。その門人が商人から話を聞いたのでした。
そんなわけで甫賢は人面瘡を診ることになりましたが、はたしてどうだったのでしょうか。
つづく
(ムガク)
-人面瘡(4)-
さて、桂川甫賢(1797-1845)は人面瘡を見ましたが、どうだったのでしょうか。今回もちょっと原文は省略して、翻訳しながらみていきましょう。
瘡口が一つあったが、それは以前骨が露出していた場所であった。瘡口は大きく膨れて開き、あたかも口を開いているような形である。周囲は薄赤く唇のようで、少しそれに触れると血がほとばしった。痛みは無い。口の上に二つの窪みがあり、その瘡跡は左右対称で、窪みの内側にはそれぞれしわがある。あたかも目を閉じて、含み笑いをしているような形であり、目の下には二つの小さな穴があり、鼻の穴が下に向いているような感じである。両旁には又それぞれ痕があり、痕の周りにそれぞれ肉が盛り上がって、耳たぶのようになっている。その顔は楕円形であり、瘡の根は膝蓋骨にあるようで、頭の形をしている。
かつ、患部はゆっくりと動いており、まるで呼吸をしているようである。衣を掲げて一たび見ると、まるで何かを言おうとしている人に似ている。決して、それが人の顔と同じであると言っているのではない。強いてこれを人面と呼んでいるに過ぎない。そして脛の内のスジは腿と股に連なり、腫れは大きく一斗の枡のようで、青筋が縦横に浮き上がって見え、これを触ってみると、緊張してもいないし、柔らかくもない。その脈は速くて力がある。食欲は減ることなく、大便も小便も問題ない。
したがって、この症は多骨疽と呼ぶのが適当である。多骨疽の症は、多くは遺毒から発生する。そして瘡の状態がこのようなものにまで至るものもあるのだ。ただ、瘡口の内部は汚腐して、瘡薬を塗りこめても効果が無く、餌糖も、たとえ貝母でさえも、「眉をあつめ口をひらく」効果が無かった。
というのが甫賢の記した内容です。ちょっと分かりづらいところを読んでいきましょう。「脈は速くて力がある」というのは、脈診という診断法の結果です。脈の拍動の状態を診ることで、その人の身体の状態を察するのです。脈拍が速ければ、一般的に体内に熱がある状態であり、力があれば、病邪が激しく、また抵抗力も残っている状態を示唆します。
多骨疽というのは、『病名彙解』によると、「足脛ナドニ疽ヲ生ジ、腐乱シテ細骨ヲ出ス也、一説ニ此疽ハ、母懐胎ノトキニ親類ト交合スレバ、生マルル子ニ発スルト云へり」とあります。当時は原因不明の病気が顕われると、それは両親から受け継いだ毒によるものと説明されることが、多々ありました。当時流行していた、天然痘が胎毒で発生するという説もその一つです。因果応報の観念が入り込み、親の悪い行いが、子供に病気となって顕れるというもので、人々はそれを治療するため、胎毒下しを行ないました。それは生まれたばかりの胎児にマクリと呼ばれる湯液を服用させて、毒をウンチと一緒に出そうという試みでした。これは現在でも所々で続けられている習慣です。本当にそう信じていたかは分かりませんが、母親が妊娠中に親類と密通すると多骨疽が生じると、書かれています。この胎毒はここでは「遺毒」と呼ばれています。
餌糖は甫賢の四代前の甫筑が使った、紫糖(黒糖)のこと。貝母は「江戸時代の医学-人面瘡(1)- 」で出てきました。まるで人面瘡の特効薬のように扱われていた薬です。「眉をあつめ口をひらく」とは、『伽婢子』に出てきた人面瘡が、貝母を口に入れられそうになった時に、「眉をしじめ、口をふさぎて食らはず」抵抗したことを受けた表現です。人面瘡が薬で苦しみ死ぬと(治癒すれば)、抵抗することがなくなり、「眉をあつめ口をひらく」のです。結局今回は、薬物治療は効果がありませんでした。治癒したか否かは記載されていません。桂川家はオランダ流の外科術が得意であったので、もし治療したのであれば、手術をしたことでしょう。また、もし劇的に治癒したのであれば、喧伝したとしてもおかしくありません。実際はどうだったのでしょうね。
(ムガク)
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