マルクス剰余価値論批判序説 その37
(17)同上、五九三頁。
(18)貨幤(商品)との関係による階級規定は、便宜的なものでしかない。このような階級規定は、ドゥルプラス(『「政治経済学」とマルクス主義』岩波書店)に見ることができる。「現存社会は商品所持者間の一般的関係という視角からではなく、所持する商品の性質によって定義される個人の二つの階級のあいだの特殊な関係という視角から、者義小することができ、また、この関係は搾取関係として理解することができる。」(同書、三一六頁)。ドゥルプラスは「商品は《交換される物》ではない(二四七頁)」という正しい視点から出発しているのだが、貨幤と引き換えられるもの全てを商品であるとして、労働力もまた商品の一種にしてしまう。労働(カ)と貨幤との引換を、商品交換と同列に理解するのである。したがって剰余価値は、資本家が労働者に与える一般的商品と、労働者が資本家に与える特殊的商品との、商品の性質の違いから発生させられる。ここから、階級は上記のように規定されるのだが、商品も貨幤も、労働の取得の物的形式であるから、階級は労働との関係で規定されなければならない。労働が他者(他個人ではない)に取得される関係が、固定的に構造化されるときに階級が生するのである。
(19)同、五四二頁。
(20)「彼が交換するものは、交換価値とか富ではなく、生活手段であり、彼の生命力を維持し、肉体的、ゾツィアールな欲求など、彼の諸欲求一般を充足するための諸対象である。それは、生活手段という対象化された労働のかたちをとった、一定の等価物であり、彼の労働の生産費用によって測られる。彼が引き渡すものは、彼の労働にたいする処分権である。」(『資本論草稿集』第一巻、三四一頁)。「彼が資本と交換するものは、彼がたとえば二〇年間に支出する彼の全労働能力なのである。彼にこの二〇年分を一度に支払うかわりに、資本は、彼が労働能力を資本の処分にゆだねるに応じて、小刻みに区切って、たとえば週ごとに、それの支払いをする。」(同、三五〇~三五一頁)。
(21)「この全体の過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。(MEW二三、一九六頁)。マルクスの「労働」が「生産」であるという批判は、多くの論者によってなされている。廣松渉氏は穏やかな表現で、次のように述べている。「概して言えば、マルクスは『労働』という概念を『生産活動』とほほ等置できる広義に用いている。」(『現代思想』一九九〇年四月、一三四~一三五頁)。
(22)この、商品交換の始まりをゲマインヴェーゼンの外部に見るマルクスの説明は、それを歴史事実的な、実態的なものと想定してのことではない。事実的な説明ならば、マルクスはゲマインヴェーゼンではなく、ゲマインデなどの実在の共同体を指す言葉を使うはずである。この説明で、マルクスがゲマインヴェーゼン(共同制度・共同組織・共同本質・共同存在・共同生命・原生的完結
態など)を使っていることは、それが実態的説明ではなく、概念的説明であることを示している。また、『経済学批判』では、世界市場に対する国内市場を、ゲマインヴェーゼンと呼んでいる。マルクスが、商品交換の発生の点をゲマインヴェーゼンの外部に観たことを、「共同体と共同体の間」というように図形的に理解すると、価値形式論をも読み違えることになる。
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