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労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその8

2021年02月17日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその8

八、マルクス労働観への批判

 

柳田は家族共同体や村共同体の協同労働に、労働の価値を見いだしている。そこでは労働は、生きることと同様の喜びであり、至福の労働となっている。自分の労働が共同体に役立ち、喜ばれることへの誇りでもある。そこでは、労働は報酬を得るための労苦ではなく、遊技やスポーツと同じだった。

マルクスは原始的な協同労働について、次のように書いている。

 

「人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで、またおそらくインドの共同組織の農業で、支配的に行なわれているのが見られるような、労働過程での協同は、一面では生産条件の共同所有にもとづいており、他面では個々の蜜蜂が巣から離れていないように個々の個人が部族や共同組織の臍帯からまだ離れていないことにもとづいている。」(『資本論』第一巻)

 

原始の時代についてのマルクスの無理解は時代的な制約だが、労働を生産としてしか見ないことは、マルクスの欠陥だ。子育てや食材の加工調理、祭礼や儀式も労働であり、協同労働の一環として見なければならない。そこでは個々の個人には、その個人としての役割があり分担がある。マルクスが言うように、個人が蜜蜂のように無区別に存在したのではない。たしかにそこには、社会的個人としての近代的自我は見られないが、そのようなものは共同性の喪失によって発生する疑似共同性(非同一性の同一性=アイデンティティ)と裏腹の自他意識にすぎない。近代的個人は見えない鎖につながれた幻想的個人であり、原始的個人は血縁でも地縁でも金縁でもない、存在の尊厳によって結合する個人だった。

それに、家族や村共同体は巣ではなく、労働(生活)の組織なのであり、今に言うような巣としての家族や家は、協同労働組織としての共同体が崩壊した後の姿だ。だから、巣としての家は、最初は労働から切り離された支配者層に出現する。

マルクスの原始共同体における協同労働には、労働の喜びを見つけることが出来ない。マルクスの労働は人間に押し付けられた労苦であり、喜びはただ労働以外の時間、自由時間に求めざるをえない。労働時間の短縮、すなわち自由時間の拡大が、マルクスの掲げた目標だった。労働が労苦であり、自由人間にとって余計なものである以上、労働そのもの

に価値を考えることは出来ない。労働は無価値だが、労働の生産物には価値があるとするしかない。

中上や柳田の労働は快楽であり、労働そのものが生命の喜びとしての価値をもっている。労働を人間の原罪として、奴隷の行なう活動であるとする西洋の労働観を、マルクスも共有している。

 



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