寒さが増した大寒の25日に、日光街道12番目の宿場町「小山宿」を訪ねた。
小山駅に10時の到着、西口を出て間もない旧日光街道を左折し南に歩き出す。
そこは、本陣1軒脇本陣2軒と旅籠74軒を有した宿場ながら名残は全くない。
少し進んだ右側の「脇本陣跡」には、「明治天皇行在所」の石碑があるのみだ。
旧道を進んで右折、並木参道を西に進むと4号国道を越えた所が「須賀神社」。
「平将門の乱」を鎮めた俵藤太(藤原秀郷)が、天慶三年(940)に 京都の八坂神社
から分霊創建したと云われ、現在まで近郊六十六郷の総鎮守となってきた。
4号国道を北に歩き、市役所敷地内にある軍議の場「小山評定跡」に立寄った。
徳川家康が上杉討伐に向かう途中、ここで評定を行い関ケ原に軍を向かわせた。
市役所の北側広場は、徳川将軍家が日光社参の際に休息した「小山御殿」の跡。
評定跡まで戻り 役所の裏側に出ると、駐車場の西は思川の堤防になっている。
その一角に、小山繁栄の基礎を築いた「小山政光・寒川尼」の夫婦像があった。
堤を北に進むと小山城の「城山公園」で、現在は展望や桜の名所になっている。
公園の途中を右に下って 家並みに出て、左折し進むと 古刹「天翁院」がある。
俵藤太の7代目の子孫が小山政光で、この地に移って小山姓を名乗り 源頼朝に
に加勢し功をあげ、鎌倉幕府の設立後はその地位を確立してこの寺を創建した。
参拝して国道を南に市役所まで戻り、左折し駅前に来たら丁度12時半だった。
駅前の小路を南に行った所のビストロで、オムレツのランチメニューでの昼食。
『今回は、宿場町散策と云うよりも 郷土史探訪だった 』と、ひげ爺の独り言。
昔「五街道の交差地」で栄えた小山、現在でも 新幹線を含めた交通の要衝だ。
小山駅に10時の到着、西口を出て間もない旧日光街道を左折し南に歩き出す。
そこは、本陣1軒脇本陣2軒と旅籠74軒を有した宿場ながら名残は全くない。
少し進んだ右側の「脇本陣跡」には、「明治天皇行在所」の石碑があるのみだ。
旧道を進んで右折、並木参道を西に進むと4号国道を越えた所が「須賀神社」。
「平将門の乱」を鎮めた俵藤太(藤原秀郷)が、天慶三年(940)に 京都の八坂神社
から分霊創建したと云われ、現在まで近郊六十六郷の総鎮守となってきた。
4号国道を北に歩き、市役所敷地内にある軍議の場「小山評定跡」に立寄った。
徳川家康が上杉討伐に向かう途中、ここで評定を行い関ケ原に軍を向かわせた。
市役所の北側広場は、徳川将軍家が日光社参の際に休息した「小山御殿」の跡。
評定跡まで戻り 役所の裏側に出ると、駐車場の西は思川の堤防になっている。
その一角に、小山繁栄の基礎を築いた「小山政光・寒川尼」の夫婦像があった。
堤を北に進むと小山城の「城山公園」で、現在は展望や桜の名所になっている。
公園の途中を右に下って 家並みに出て、左折し進むと 古刹「天翁院」がある。
俵藤太の7代目の子孫が小山政光で、この地に移って小山姓を名乗り 源頼朝に
に加勢し功をあげ、鎌倉幕府の設立後はその地位を確立してこの寺を創建した。
参拝して国道を南に市役所まで戻り、左折し駅前に来たら丁度12時半だった。
駅前の小路を南に行った所のビストロで、オムレツのランチメニューでの昼食。
『今回は、宿場町散策と云うよりも 郷土史探訪だった 』と、ひげ爺の独り言。
昔「五街道の交差地」で栄えた小山、現在でも 新幹線を含めた交通の要衝だ。
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