いしもち通信

お魚大好き人間の情報交換。旅先の思い出情報交換。
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社会問題。

改めてプログラム言語について考える2

2018-04-16 14:13:23 | Weblog

通信教育の教材を読み進め、コンピューターの仕組み等を理解し、機械語・アッセンブリ言語へと進む。16進のコードを慎重に打ち込み、開始番地を指定しGO、タイマーが動く。感激する。大学の授業とは大違いである。目の前で実行結果が見られるのは何物にも代えられない。嫌いな教科として、よく数学があげられるが、好きな教科としても数学があげられる。理由は、「答が出るから」。プログラミングの楽しみは正にこれであろう。「指示通りに動き結果(答)が出る」、1文字でも間違えばエラーとなり実行できない。間違えを見つけて正しく動くと嬉しくなる。

 

ワンボードマイコンからモニター、キーボード付きマイコンへ

TandyRadioShack TRS-80を購入、価格は忘れだが、現在からそのスペックを見ればかなり高価なものだったはずである。

ここで、初めてBASICに出会う。16進のコードを入れるのとは大違い。

続いて、NECのPC8801、パソコン誌も充実してきて本格的にBASICに取り組む。

しかし、当時としては高価なものであった。カラーモニター20万円程度、ドットインパクトプリンターも20数万円したと思う。電卓パチパチの時代に、職場へ持ち込み、業務処理をしてみせると驚きの声が上がったものだ。手書きが当たり前の時代、アイ企画のワープロソフト「文筆」は大いに活用できた。ゲーム機のような8801だが実用にも十分役に立った。しかし、文筆を開発した人はすごいなと今でも思う。そして時代はPC9801へと進んでいく。

またしても余談だが、ワープロについて一言。ワープロソフトもいろいろなものが発売された。印象に残っているのは、super春望、P1EXEなど。jx太郎はその後一太郎として一世を風靡する。ATOKは別として、一太郎には当初から限界を感じていた。画面上の「行」というものに縛れている感じがしたのである。それを端的に表しているのが、行罫線と行間罫線である。この考え方を変えない限りワードのような多様な表組は無理だろうと思う。Ver7までは見守ったが、Ver8で完全に見放し、資産のすべてを完全にWordへと移行した。

ワープロ専用機が普及するようになり、職場にもOAの波がやってくる。基幹業務にコンピューターを導入するよう強く要請、検討チームの一員となった。責任者には大先輩が就いたが、技術的なことは小生が進めた。力のある大先輩のお蔭で内部的な根回しや起案書はすんなり通った。当時の業務システムはまだまだ独自発注するしかなく、オフコンが主流である。NECのオフコンが導入され、端末は2台、ラインプリンターの構成でスタートする。事務システムの開発言語は当然のごとくCOBOLであった。COBOLは経験なかったが、納入されたシステムだけでは不足の部分もある。内部で独自にカスタマイズできるよう、NECの簡易言語SMARTを習得、多彩なレポートも自作することができた。

時代は、急速にパソコンが普及するようになり、オフコンベースの集中処理から、多数のPCを配置する分散処理へと移行することになる。クライアントサーバーシステムの導入へと向かうことになる。SQLSERVERを使った業務ソフトが導入され、Accessとの連携が始まる。Windows3.1時代から初代Accessとの付き合いがあったが、ようやく本格的な利用ができるようになった。パッケージソフトのカスタマイズは費用がかかる。Accessによる現場開発は欠かせない。BASIC、QuickBASIC 、VisualBasicなどの経験が役にたったと思う。

この間、インターネットの環境も急速に整い、NTServer+IIS+perlCGIなどにも取り組んだ。UNIXベースのものをWindowsへ移植するのは結構苦労した。

専門的教育を受けたわけではないので、独学で躓きながらも、時間を忘れ取り組むことができたのはやはりプログラミングの楽しさの所以であろう。

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