
指をからめ うなだれ
雨にぬれた髪が
こめかみから ほおに落ち
とじかけたまぶたの前で ゆれる
その場所は 雨音とともに
あらわれた かげから
失われた 日のことを 想い出す
そこに 想い出させていることは
そこへ入っていった ときから
かげにも わかっていた
遠雷のように そこかしこが
過ぎ去りし 日の気配を 帯び
角を曲っていった かげの
背後の 空気の流れが
視野の隅をかすめ
ふれて放した
扉の端が まだ あたたかい
そのために來た ともいえるのに
一歩も 進めなくなった
それから後に 起こったことが
またすべて 起こるのか
それとも 取り戻せるのか塀際の 細い裏庭へ
生えのびた 雑草に
淡い花が 咲いている
その上や まばらな土に
細かな雨のふり落つ
かすかな音
異なる音色
土の上に 葉の上に
花びらの上に
空から 木立から
しづくとなって
塀を伝いおり 葉から
花びらから はねかえる
前にも この音を きいた
窓枠に腕をつき うなだれて
下を のぞき見ていた
そこではない どこか
もう少し後で 地上数階
いまと昔の 空間の
かげり 結び合う
かすかに古びて縮んだ
すきまに 雨音が にじみ込む
時の流れに あらがうように
かすかに おし返しつづけ
すべての場所を 疲弊させる
忘れ去られた 庭の片隅
雨ざらしの彫像のように
いつか よみがえる
そのとき そこで とどむ
ただ そのために だけ
雨がやんで 日没の長い光が
塀の方から 差し込んできた
足をひきずったような
あとの ある
ほこりっぽい床へ
淡いかげが のびていった
おもてを上げると
目に 横から光が差し込み
うるむように かがやいた
紫にけぶる 目をふせた ほほえみ
約束と 取ったのだろうか
ずっと待っている と
果たされることは ないかも知れぬ
それでも 待っていたいから
待っている と
もう とめるものは なにもない
割れた敷石から のび出した
細いリラの枝に 小さな花が
古い鉄柵の門の 花綱模様に
からまって咲いている
同じ花の花綱 枯れることのない
果たされる はずのなかった 願い
割れた石の 間の土に
リラの細い幹が 貫き通る
頭文字の形をした 小さな金の輪
日没の長い指が 時折 それをはめる と
ゆれるように光るが 目にするものはない

ニーチェの馬 という 映画があって
好きな ハンガリーの タル ベーラ 監督
のだから 観たいと想ったが まだ観ていない
1889 年 1 月 3 日
44 歳 の 哲学者 フリードリヒ は
トリノの広場 で 鞭打たれる馬に出会うと
駆け寄り その首をかき抱いて 涙した
そのまま 精神は崩壊し
最期の十年を看取られて
穏やかに 過ごした という
馬のその後は だれも知らぬ と
超空洞 の縁にかかる 銀河の
遠くから のばされ ちぎれた腕に
絡まる 太陽の子らが
太古の すれ違いと 融合の 涯に生まれた
日のことを 想い出せず ゆらぎ 傾くように
愛を知らず
自らを追いつめ 張りつめ つづけた
孤独な心が
前人未踏の淵で 喘ぎ ゆらぐ

力を尽くし 耐え忍ぶ姿に
自らを嘲り 決して赦さぬ 否定者を
奈落の底へ 突き飛ばし
淵を越え 馬の首へ取りすがったのか
助けることが できぬなら
ともに 耐え忍ぼうと
死にゆく馬は
あなたの破れた心を 受け止め
すがりつかれた首で あなたの
仮象の 重みを支えたのか
自らの奈落へ 落下する途中で 忌み嫌う
愛し愛されることのできぬ 自分を
かなぐり捨てることが できるだろうか
さなぎの ように

37 歳 の 画家 フィンセント が
震え 硬直し 曲った指で
重く 冷たい 鋼の筒を支え
のたうち おびえ苦しむ 自らが
澄みわたった 自らから 離れる
瞬間を
止めどなく涙し 歯を食いしばりながら
待っていた
長い 永い 時の間
それは 離れることは なかった
澄みわたった 心を持った
幼子は うつむき
踊りまわる ようにして
蹴りつける
ひょろりとした かげを
見ようとは しなかった
恐がるな と わめき
こっちを 見ろ と 蹴りつける
それは 自分自身だった

油彩 キャンバス Oil on Canvas 73 × 92 cm September 1889 年 9 月
アムステルダム、ゴッホ美術館 Van Gogh Museum, Amsterdam
廃墟にたたずむ 少年はアムステルダム、ゴッホ美術館 Van Gogh Museum, Amsterdam
失われたものの
大き過ぎる かげに おおわれ
息もできぬ
幼い心の流す 血と涙は
全身から 青く にじみ 漂い
去りゆく かげを 失うまいと
持ちこたえようと
必死で 遠い かなたを
いまだ おとずれぬ ときを
前を 見つめる
失われゆくものが
手に ふれてくる とき
力をつくし 守りたい と願い
心をつくし 安らかに
ほほえませたい と
指は そっと 傾いた
犬の 頭へ置かれる
上野 繁男 Shigeo Ueno 廃墟と少年 Ruins with a Boy

油彩・カンヴァス Oil on Canvas 1969 年
歌が きこえる日差しが ふりそそぐ
廃墟から 失われた眼差しが
そっと 少年の肩へ注がれる
かなしみに とざされた
石像の目もとと 唇の隅が
黄昏の 暁の 月の 光の中で
ほほえみに かわってゆく
母であり 妹である
二人は ふいに 目を伏せたまま
その門の前で 入れ代わり
舞うように 手をひろげ
あらわれた 少年と犬を 迎えるために
草と木の 生きた鋼の
ほのぐらい扉を あけ放つ
彼女らが舞い 入れ代わりつつ
差しのべた手を 取り合い アーチをなし
下げた手を 子の肩へ そえるとき
扉は ひらく
だれもが 心の奥に
幼子を
ニーチェの馬を
抱えているのかも知れぬ
蹴りつけ鞭打つ 手足は
闇に沈んで 見えぬが
右手が そうしようとするなら
左手で抑え
左足が そうしようとするなら
右足で踏みつけ
守ろうと もがくうち
馬は 幼子を乗せて
だれもが 越えられなかった 淵を越え
あまたの涙にかかる 虹を渡り
雲の向こうの 母と妹のもとへ
帰ってゆくのかも知れぬ
上野 繁男 Shigeo Ueno 廃墟と少年 Ruins with a Boy

油彩・カンヴァス Oil on Canvas 1969 年 部分 detail
Tony Gatlif - Gaspard et Robinson
もしも 幼子を 傷つけるものがTony Gatlif - Gaspard et Robinson
大きくなった 自分自身でなく
幼子が 幼子でいる ときに
大いなる わざわいに 苦しむとき
石像たちは 目をあけ 飛んでくる
幼子の かなしみと おそれを
深い闇と まばゆい光の
ひとみで包み 幼き心から洗い流し
腕に抱き つれてゆく
だが 幼子を 蹴りつけるものがなく
幼子が 大きくなっても
その人の心の底で 夢見つつ
まどろんでいるのなら
幼子のときから 愛おしみ
やさしく みとった 動物をつれ
いつの日か 自らの足で その扉へ
たどり着く ことができる
そのとき すべての幼子の
かなしみと おそれを
まぶたのうちに たたえ
ひっそりと 石となり たえている
母なる神と 妹なる神は ほほえまれ
ゆったりと その場所を 入れ代わり
扉をひらく 舞いを 舞われる
そのとき 廃墟は 門となる
持ちこたえてきた
おそれと かなしみを つらぬき
あたたかな愛が 差し ひろがって
道となる
幼子である あなたを
とおす道となる
あなたは 振り返って
つかず離れず ついてきた 犬を
それとも 乗っていた 馬を
見ようとする
それとも 足を前へ
前へ繰り出すように
地を 波立たせた かげぼうしを
それは はじめから
いなかった ように
もう いないが
その眼差しは あなたの 父なる
神であったかも知れぬ
著作権は画面構成や色を変更されたり、誤って再現されたり、盗用されたり 等 するのを
抑止するため、ご許諾いただけますかのご確認が必要で、いかなる ご所蔵者とても、
画像の掲載 等 の利用に 際しましては、あくまで著作権継承者のご許諾をいただかねばならず、
このたびは 事後にてのお願いとなりましたが、ご快諾を 賜り、
ほんとうに申し訳なく、まことに ありがたく存じます。
また 未成年の折に教師に頭を蹴られるなど満身ご創痍の哲学・文学のご専門の
御方様にもご相談致せず、知らないことを書き連ねまして、まことに恥じ入るしだいにて
今回は 勉強不足の 感想文と相成り重ね重ねまことに申し訳なく、深くお詫び申し上げます。
先般 ノーベル文学賞 ご受章の パトリック・モディアノ 様 の「廃墟に咲く花」 (1991)という ご本を、
つい先日 ブックオフにて 見つけ、茫然といたしましたが、この御方の書物も、
絵本のようなもの … ? … を 拝読したことがあったか … という程度にて …
早速 購入いたしましたが、最近 出逢って まだ読めてないのが 書棚に 一列 並んでしまって …
でも、上野 画伯 の 少年と犬が カーサ・カンパニーニ の 門を くぐられたのは、満天の星の瞬く
夜のようでしたが、ゴッホ 様 と ニーチェ 様 が 並んで つかず離れず 門を見上げられながら
くぐられるのを 夢うつつに 見たように 思ったのは、爽やかな日差しの溢れる 青空のもとでした …
… 帰らねば …
「ミルプラトー」如何にして器官無き身体を作るか?の章か、捕獲装置、の処だったか。芸術家を捕獲し引き攫ってくモノ、ミクロファシズム。オーヴァーDOZEや狂気、黙示録の脅しや官僚主義ヒエラルシーと其処への服従。
逃げろ!ベイビー逃げるんだ!~80年代現代思想と忌野清志郎が図らずも通底した瞬間でした。キヨシロの高校時代のゴッホばりの絵は可也良いですよ。
ゴッホの狂気は草間弥生と同じスキゾフレニー境界例だったか、仕方無いですね、「手紙」を読んでないので知りませんが、私も幼児期の癲癇性質、恐しい知覚の暴風に精神自体が曝されます、心理など関係なく言わば精神物質のようなモノに。ですから、
アルトーやFベーコンが擁護したゴッホの情動は解ります。大気に向けて事物から焔がメラメラと立ち上がり燃え上がるのでしょう、絵の通り。
あれは何でしたか、精霊気か、ベンヤミンのAURAか、月星の周りに渦巻くAUREOLE、ああ見えるのでしょう。昨晩は丁度超月、アルヴォペルトの最新バレエをBSプレミアで一寸観た。
〈ニーチェの鞭打たれる馬の逸話〉既に精神変調きたした時期でしょうが、あれは脳梅毒のせいですから、もう正常に機能してない。
精神の到達と見てはいけないですが、獲得してきた偉大なモノが、フと顕れたのに感応したでしょうか。確かに気が弱ってはいた。母と妹に愛着あったのは、詩を捨てた後に熱砂での人生、アデンから帰還し脚を切断した病床のランボーと同様、母妹に看取られたのでした。
あれだけの達成の後ではヴォワイアンと雖も既に頭脳は呆けて別の回路に為ってたか?、彼らが回帰したのは結局カトリシズムだったのか?、ゴダールがそうなのですが、とは言え腐っても何とか、「愛の世紀」や「NOTRE MUSIC」永遠が映し出された、限り無く美しいFILM。最近年の、ソシアリズムは未見ですが、面目の希望の映画の筈、。
イリュミナシオン」の珍しく爽やか?な一編「L'AUBE」~乱れた金髪の滝の上方、山の頂きの銀に見出した女神の姿を追う詩人、其のベールを一枚づつ剥ぎ取ってゆく、並木道、田園、都会の鐘楼、路を登りつめた所で遂に、彷徨する女神の巨大な肉体をはっきり感じる…
夜明けと子供が、森の裾に倒れた。~目が覚めると正午。
♪ WAR CHILDREN、IT'S JUST SHOT AWAY♪〉ローリングSTONESの「ギミーシェルター」ベトナム戦とビアフラ難民のさ中でした。~今も何も変わらないのか? 彼ら子供がトルコの湖畔に打ち上げられた。
返歌で〈GOT GET OUT OF ROCKIN' SHELTER〉なる歌詞を書き、中でシェルターの外の、誰も近づけぬ瓦礫と廃塵の中から、少年とガイアが立上がる、、其のイメージを何度も夢見てたのですが、現実化してしまった。立上がるでしょう?少年は。
ガイアも又、効率第一の金融市場原理に立ち向かう、唯一人残された希望か? 何しろ左翼も何も今や原理主義に逆らえない。となると異議を唱えるのは悲鳴を上げられるガイアだけと成る…其の異議と反逆は如何に?~怖ろしい事態が此れからも起きるでしょう、海底資源を弄んだら、鹿島香取神宮に在る要石を抜くのと同様に為らないか?
古代の地の波の痕跡、その遠い反響が時を超えて振動して来る事がある、地が動いた!~廃墟の禍物の、毒と色面反転し、約束の開ける希望の扉となるのですか?。パンドラの最後の希望は、ネットコミュニズムでしょうか、左翼を馬鹿扱いする人達も使うウィキペディア、完全にコミュニズムに則ってる。必要に応じて対価=寄付を取る、共有財産ですから。自らが寄って立つ地盤を否定するのは愚かだ。気付いてないのでしょう。此れが見えざる神の手の采配のパラドクシーでしょうかね。
炭鉱のカナリア哲学や、ヨウム詩学が疎ましく面倒臭がられる…、私供が難解だとお叱り受けるのは甘受せざるを得ませんが、焚書坑儒で学問芸術を馬鹿にし始めたら文明崩壊が歴史の運命ですよねぇ。
ドゥルーズの相方の、ガタリの遺作『三つのエコロジー』精神のエコロジーこそ大事として、エコゾフィーを提唱しました。此れも無視かな?
エッセンシアは、女性や少年に現れてる。たとえ拙くとも姉さん達やアスリートに。フィギュアの町田樹選手のバッグにはヘーゲルの美学講義が。五輪戦士はナデシコ達の方が既に格上ですね。頑張って、HAKAダンス
あれ程 用心し注意もして来たはずなのに…、知るが良い、
「深淵を覗く者は、深淵からも視られてる事を忘れる勿れ!」~アフォリズムはどうしても幾分外連、芝居がかるのです、逆説好きなのね。
ニーチェが、出口の見えぬヨーロッパの精神の回廊を何とか抜け出し、彷徨の果てに行き着いた地平で、思い掛けず視界が開け、黄金の光に満たされた岬、地中海に突き出た突端の、一面の青空、に出会す、、
眼には透明な光線の中に、還元された全ての色彩と、その収束としての時の黄金を見出した、ETERNAL RECURRENCE。~全て其処に在る。回帰して来るモノ、彼岸的なESPIRITOSも含めた“此の世”のESSENTIA本質、だったはずです、其れだけで充分に表現されてるのだと…。
「然り、然り」生一般ではなく、不定冠詞付き UNE VIE 一つの生、其々の人の。肯定、AFFIRMATION。~ロランバルトの「恋愛のDISCOURS」でも最重要、最終的な恋愛の解決のステージを指し示す概念。デイスクールは、彼れ是れと彷徨う発語、と云う原義。
「アデルの恋の物語」のアジャーニが経巡るのも、其処を巡って、狂気の淵を彷徨う他ない、恋愛はフリークスと為らざるを得ない。
ドウルーズが示した解決策は〈愛を非主体化する事〉所有するな!所有するな!、I LOVE YOUと言うな!、人称主体の〈I〉を捨て、その傍に流れてる、打ち震えるような、非人称の大いなる愛こそを獲得せよ!でしたね。~傍に慎ましく咲く野の花のように。~喪失とは無縁の、金剛不壊の愛があるのでしょう。其処にはもはや嫉妬の入る余地は無いと。
ヴァージニアウルフの「波」やフィッツジェラルドの小説から惹き出して来た。アルターさんが詳しいはずです。
全てを永遠の相で観る〉と、スピノザがとっくに言ったのを読めてなかったか、ニーチェもヘーゲルもケチを付けてた。神も死ぬ運命の時代でしたから仕方ないでしょうが、エチカは汲み尽くせない!とドゥルーズ自身が推奨してるので、未だ来るべき書物なのでしょう。~続く
一旦、手放した作品に著作権がどうとか言うつもりは毛頭ありません。
ましてや、相手がhazarさんですから尚更です。
確かに少し驚きはしましたが
嫁さんも「人の目に触れて嬉しい」と言ってました。
また、仰る通り子供は巨大な可能性を秘めて生まれて来ると思います。
それを大人達がくだらない世俗的な願望や世間体で潰してしまうのです。
エレヴェーターで踊る子供をキツく叱る親を見てマドンナが歎いたのも分かります。
しかし、なんたることか、肝心のことを、しかも このようなものを書く はるか以前に
お願い申し上げなければなりませぬことを、忘れ果てておりました。
作家様の御作品は、没後 50 年間、著作権 御継承者様に、掲載 御許可の御采配を
賜りますことにて、守られております のに、研究でも ない、まことに勝手な感想文に
そえますが ごとく にて、大きな画像を、部分図までも、無断 掲載 させていただいて
しまいましたこと、まことに 申し訳ございませんでした。
深く お詫び申し上げます。
何が 元 学芸員だか、失礼にも 程があり、どんなにか驚かれ、
御心を痛められましたでしょうか。
悪意がないから と信じて疑わぬ、臆面のない無神経さは、どこやらの非半魚人らと
まったく 変わるところなく、押しつけがましく、とめどない解釈・感想にいたっては、
苦々しさを通り越され、呆れ果てられてしまわれましたことと、恥じ入るばかりです。
大切な ご家族の想い出に 土足で踏み込む 不始末を、しでかしましたこと、
ほんとうに 申し訳ございませんでした。
幾重にも お詫び申し上げます。
毎度のこと とはいえ、顔見知りの野良犬か悪餓鬼のふりをした 大の大人が 厚かましくも
馴れ馴れしく 我が物顔で 再三にわたり 押しかけて参るにもかかわらず、
忍耐強く さっぱりと 御容赦 賜り、温かく 気高い御心の こめられ、毅然となされましたる
ご感想までも お寄せいただきましたこと、重ね重ね 心から 深く 御礼申し上げます。
数日を もちまして これらと前回のいくつかのコメントを、非公開とさせていただきます。
本文中の 御作品の 画像につきましては、事後にては ございますが、
御許諾を賜りますれば、このままとさせていただきたく存じます。
すべての子供は 神童であった かと存じ、それを ねじ伏せ つぶそうとする 荒波を
防がんと奔走される 親御様の ご苦労は尽きせず、そうできぬ 御病や御怪我に臥され
逝かれてしまわれた 親御様が いつまでも 祈り願いつつ 見守られておられますことが、
それぞれの神童に ふさわしい幸せを かならずや もたらしますことを 信じております …
いつまでも 亡き魂にすがり 亡くなった脛に かじりついて放さず、
ずうずうしくも 導かれる と称し、日々 空想に耽るばかりにて 暮らし居りますしだいです …
妹の言葉にも 間違いが ございました … 妹は、自分で やれば と 言ったのでした …
その飛び抜けて頭の良かった妹さんは、恐らく神童の類いだったのでしょうね。
hazarさんのご兄妹なら不思議はありません。
ただ、傑出した頭脳を持つと苦労をするのは往々にしてあるでしょうね。
「稀有なものは稀有な者の為にある」とニーチェが言ってますが
正しくそうでしょう。
一見、普通の生活を送られているでしょうが、きっと、妹さんにしか見えないものが見えている事だろうと思います。
ヴィトゲンシュタインは
「世界の意義は世界の外にあらねばならない」と言っています。
私もそう思います。
普遍的な善悪の基準が一体あるのかどうか分かりませんが
人は、その善悪の判断において、それぞれの人生を生き切るしかありません。
「人の人生はその棺桶の蓋を閉じた時その価値が決まる」と言いますが
私もまた自分の人生を生き切りたいと願います。
その時にこそ、私をこの世に置いて去って行った死者達と再会したいです。
妹とは 六歳 離れておりますが、間で 流れていってしまった 兄弟が あり …
二歳の頃、仮性コレラがはやり、自分は体重が半減、入院先で、両足に巨大な
(自分の身体に比して) 注射器様の点滴を施され、それが怖く 痛くて、外してくれ と
せがみましたが、母が泣きながら、これで よくなるから、がまんして、と
手を 握ってくれていた のを 想い出し …
脱水を 緊急に補う 唯一の方法だったのでしょう、小さい腕に 針は通りませんし …
当時 もっと幼い 赤子は 皆 亡くなられたそうで、今 思うと
代わりに、その子が 逝ってくれたのだと …
母は 一度も そう考えたことは なかったようですが、
男の子だった と思う と言ったのを、一度だけ 聴いたことが あり …
たしか エビの天ぷらを 作ってくれているときに、まな板を洗おうと のけると 下に
一尾 転がっていて、また 施餓鬼してるよ~、だれか いっつも まつわりついてる
みたいだな ~ と 心無いことを 言った あと、食後に 洗い物を手伝っていたとき
だったか … 生まれる前は 人間じゃないんだよ と言ったら、でも 忘れられなくて …
いまでも 時々 思い出して … 男の子だったんじゃないか と … と 言葉を 詰まらせ …
妹を 授かった時、産むと 危ないかもしれない と 言われたそうですが …
妹は 知能指数も 驚くほど高く、こうしなさい、という幼稚園のテストで
「あんたが やれば」 と言って 母を狼狽させましたが、喉の奥に 目に見えない
先天的な リンパ腫芽があり、鰓などの退化するはずの部分が 幽かに残って
いた と、幼稚園児の頃に 命がけの大手術 (見えないものを 喉の神経と血管の
網の目の間から 除去する …) の後、その老名医の先生も亡くなられ、どうも様子が
おかしい と 再入院した 病院の ベッドから 落ちる程の 大吐血の後、成功した
(ただ一つの 取り残しが 肥大化したものを 除去し 破れた食道を 縫い合わせる)
二度目の手術後に 生還し、小学校へ戻る前に母が教師に説明したところ、
おまえ半魚人なんだって、と 先生と 生徒に 嘲笑われ、帰って來るなり 泣き伏し …
冗談で 和ませようとしただけで 悪気はない という 弁明に、
母は ただただ 悲嘆と後悔の涙に暮れ … 間を置かず 転校させましたが …
(妹が 帰ってくるまで 我慢していて泣き出したのは、二度だけで、もう一度は、
妹が 算数の問題を解いたら、まだ教えもしていないのに、解けるはずがない、
カンニングしたのを 白状しろと責め立てられ、妹は二度と 問題に まともに 取り組むことを
せず、成績を中の下ぐらいに とどめておいて、家族や仲間を 楽しませることに
喜びを 見出していたようでした … 母は 怒り狂っておりましたが、妹は
言っても わからないんだから、お母さんに きいてもらえれば もう いい … と …)
妹には、ほんとうに苦労をかけた と 母は終生、(私が 異常な焼餅焼きなので
隠しつつ) すまなく 思い、その幸せ (成人した 家族思いの 一男一女の 母と
なった の) を、心から 感謝し続けておりました …
あの ピンクの壁の町の 御作の 御宅には もうおひとかた、
ピーターパンの御心を持たれた ティンカーベルのような 小さな小さな御姿が
瞬き 飛び回られておられる ようなのですが、妹御様 と とりわけ仲良く
ウェンディ とのように ご一緒に 過ごされておられますように お見受けいたし …
重ねての 失礼を … どうか お許しください …
ほんとうに どうも ありがとう ございます
テーブルに 届かず、ぴょんぴょん 飛び上がられている 頭のてっぺんの御髪を
ちょんちょこりん (母はそう呼んでいました …) に 結ばれておられます ようなのが 見え …
たいへん 少しずつ 大きくなられて居られますようで、4 ~ 5 歳くらいに お見受けいたし …
今さっき 御母上様が 抱き上げられまして、あたしも これ ほしい と 言われたよう …
(絵 じゃなくて) マントの ことですが …
これ~ ? 唐草模様の風呂敷 … あるかしらね~ 探してみましょうね~ … と …
御父上様 は笑われて、ある ある … と …
… たいへん 失礼いたしました …
いつも ご家族に 深い愛情を注がれ、その自由を なによりも 尊重されながら、
ご家族が 最善のものにふれられますよう、その真理を ご理解なされますよう
御力を尽くされつつ、つねに ご自身が一歩 譲られ、時機を待たれ、
ご家族にとって 心楽しい時を 作り出され 支えられようと
御心をくだかれておられますので、
さらに より高きを 目指されておられます からか、いつも ご謙譲なされまして、
そのように 仰られますが、たとえ そのような 御方でなくとも、もしも 御子に恵まれ、
子育てを されようと なされたのであれば、失敗 というのは
あり得ぬことではないか と存じます …
無論、しつけと称し 子に支配力をふるうようなものは 子育て などではなく、
自らに対する憐みや欲望のはけ口を、身近な弱いものへ求める
大禍事であり、犯罪でしかないので、そういうものは子育てとは
考えられませんので …
子育ては そもそも 独りで なされるものでは、ありませんし、
育ててくれた 親を育ててくれた 親の、さらに 御先祖様から 脈々と受け継がれてきた
真心と 叡智と、類稀なる幸運が ともにあって はじめて、かなう ことですし、
育つ 子から 日々教えられ、自らも さらに育ちながら 共に 寄り添って 命が連なっていく
わけですから、 たとえ飢えや病、暴力や天変地異によって その御命が失われて
しまわれるのを 防げなかったとしても、それは 誰かや何かによる 失敗 などではなく、
人智を超えた さだめによって、終えられてしまった だけ なのではないかと …
その際の、想像を絶する 苦労も、耐え難い苦痛や絶望も また
繰り返される病や災害を防いだり、乗り越えていくための得難い歴史の
道すじとして、いつか どこかで だれかを 救うことに たしかに つながてゆく
ことで 報われてゆく のかと …
ただ 数学の真理の解明におけるような、統合失調症を初めとして
優れた 真理の追究中に、それに 独りで あまりに近づいてしまうと
働くように 想われてならない、人間の心を壊すような力には
のちの あやまった利用に 備えてなのか、まことに いたましいものが あり …
生命をも 左右するような 宇宙の真理とは、先に フェルマーの最終定理 を
解明なされました アンドリュー・ワイルズ 博士 のように、
独りで 真正面から 取り組まれるのではなく、数多の 御研究を 広く理解され、
いずれにも のめり込まれることなく、つながれてゆかれることによって、
いわば 半眼の裡に 垣間見るような、仕方によってのみ、
もたらされ得る のでは ないかと …
なぜなら、それができる のであれば、それによって はじめて、
致命的な悪用や誤用 というようなことが、おのずから 防がれている
から なのでは ないかと …
もともとの てんかん症に加え、揮発性の高い 猛毒の絵具に 絶え間なく
ふれざるを得なかった ゴッホ の あまりに 高度に科学的で 心理的な 色彩研究も
そうですが、ニーチェ の 超自我こそは、ウイルス という生命なき生命の
次々と外界に応じ おのれを変幻させ、その世界を おのれで埋め尽くし
その世界とともに 滅びるかに見えて 独り 変転し続けるような 強さは、
人間には持ち得ないもので、幸不幸のない 苛烈な極限の世界にしか 存在しえず、
こうした 孤高で果敢な 洞察力とその取り組みの表現には、感服せざるを 得ませんが、
激しい頭痛と 徒労感に さいなまれ続けた いたましさの裡に
のみ込まれてしまうようで、まことに卑怯ですが、逃げ出さざるを得ません …
御母上様も お出かけください と 強く願われたのではないでしょうか …
居らしても 病はよくならないから と … まさに そのことが
愛する ご伴侶を 自分が 共に居る ことによって (と 想わざるを 得られなかった
かと …) またしても 死の苦しみへと 独り立ち向かわせ、なんの力にも
なれぬことが 御父上様 に 自らを 深く罰する 孤独な旅へと向かわせ
不滅のものを 希求する 孤独な少年の 道を歩まれたのでは ないでしょうか …
ご自身が居られなければ、病が治る とすれば 戻られることは なかった
かも知れず … そうでなかった からといって、だれも癒されることなく、
もし ご一緒に ならなければ、お元気にて あらせられたかも知れぬ という
想いだけが 残られたのではないでしょうか …
今 御父上様が、御母上様 方 と お兄様 と 愛猫 様 や 愛鳥 様 と
ご一緒に、ピンク色の壁に 穏やかな日差しの照り映える、あの町に 住まわれ、
その各部屋には alterd 様 の 御作が 飾られ、ほら、こんなのが、また 届いたぞ と
額縁に入った 包みを、もどかしく開けられて、皆様で、
低空飛行 を 覗き込まれている … のが 目に浮かび …
直截な物言いで 心を傷つけた かも知れない とも 仰られましたが、
不運や 自らの無力、また 人の悪意で 傷ついた心を いやせるのは、
真心から語られた言葉しかなく、それは とりもなおさず 直截な はずで、
その当時は傷つけられた と想われたとしても、後で その傷と 感じられたものは
たとえ 理解できなくとも 成長の大きな糧となり、真心のこめられた
直截な御言葉によって、さまざまなかたちで 癒された心は 数知れぬ かと …
前半は、お察しの通り、 「期待 (あこがれ、約束 だったことも …)」 という 題で
20 代半ばに 書いたものが もとになっており、母が、そういう感じが とても した と
気に入ってくれた もので、母は 何でも 気に入ってくれたのですが、
今回、リラの花の写真が 思わしいのがなく、錬鉄の門で探していて、
まったく知らなかった カーサ・カンパニーニ という ミラノの館 を 知り、
その後、母の月命日に なぜか 御父上様 の 少年が 犬を連れて
その門を くぐられる 光景が見え、その前に、石像が 手を広げ、真ん中で 高く
その手をつながれて ほほえまれ、場所を入れ代わられたので、何が起こるのだろうと …
そのまま 写してしまいましたが … ニーチェ と ゴッホはやめようか と 何回も思い …
でも 一度別な ファイルに移したら、ものすごく気分が沈んでしまい …
カーサ・カンパニーニ は、彼らが 去られてから しばらくのちの 1904 -1906 年に
建てられた ということなので、彼らにも ご一緒に 御門を 仰ぎ見られ お通り願えれば と …
思い込みと 独りよがりで、たいへんな 失礼と まったく至らぬ こと ばかりにて
まことに 申し訳ございませんが、ほんとうに どうも ありがとう ございます
末永く どうか よろしく お願いいたします
正しく、彼らは少年の心と激情の人でした。
それは無垢であると同時に愚かでもありました。
極めて人間らしいとも言えるでしょうか。
鞭打たれる馬への同情とキリスト教徒への軽蔑。
蝋燭の炎にかざした手の熱さに我慢出来る間だけ娘さんに会わせてくれと親に懇願する愚かさ。
重い病気を持った妻を置いてスペインへ絵を描きにゆく身勝手さ。
ただ、私も故意ではないにしても子育てに失敗しました。
直截な物言いで人の心を傷付けた事も多々あったでしょう。
特にキリスト教の原罪を信じる訳ではありませんが、人それぞれ背負って行かなければならないものはあるでしょう。
また、凶悪犯罪や戦争の犠牲者等がその最たるものですが人の苦労が報われるとは限りません。
とすれば、どんなに苦労の多い人生であったとしても、哲学や芸術で自分を表現出来た者は幸せであったと言えるでしょうね。