国道307号線を南下していくと、多賀大社から車で数分のところに胡宮神社はあります。
以前から車で走行中に見えていた神社で、どことなく風格がある神社だなと感じていた神社でした。
調べてみると、この胡宮神社は多賀大社奥の院または別当とされている神社でしたので、風格を感じたのも当然かもしれませんね。
そのような多賀神社との関係もあって御祭神は多賀大社と同じ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)と事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)の3柱です。
イザナギとイザナミは神話の世界では「国産み・神産み」の神とされていて、事勝国勝長狭尊(ことかつくにかつながさのみこと)は五穀豊穣を司る神様とされています。
胡宮神社は後方にある青竜山の巨石信仰を起源とし、敏達天皇(推古天皇の夫)の勅願とも言われ、鎌倉時代には多賀大社の奥の院・敏満寺(びんまんじ)の鎮守社として栄えたそうです。
しかし戦国時代に浅井長政・織田信長の焼き討ちにあって衰退してしまい、1638年に徳川三代将軍家光の命により胡宮神社だけは復興されたとされています。
敏満寺は、聖徳太子(敏達天皇の異母弟の用明天皇の息子)開基の天台宗の寺院で、最盛期には48伽藍120坊のという大寺院で湖東三山(百済寺・西明寺・金剛輪寺)と並ぶ程の寺院だったといわれています。
現在は衰退したまま復興されることなく、「敏満寺の残照」として“道風下乗石”と“蓮弁灯籠台石”が遺物として整備顕彰されているだけのようです。
表参道の大鳥居の石碑には「縣杜胡宮神社(あがたもり このみやじんじゃ)」と彫られています。
その手前には敏満寺の仁王門跡(桁行6間、梁行3間)の礎石と石碑がありますが、その真上には名神高速が走っていますので、高架下の石碑という面白い場所です。
石段をいつくか登って拝殿へ向かったのですが、境内には全く人気(ひとけ)がない。
斉館も鍵がかかっていて宮司さんも居られないようでしたが、拝殿は開いていて水が巻かれた跡があるので何とも言えない不思議な気分で参拝することになりました。
本殿は滋賀県の県指定文化財に指定されていて、三間社流造という建築様式で作られていますが、この流造は、全国で最も多い神社本殿形だそうです。
本殿の横に小さな祠が二つあり、そこから本殿を垣間見ることが出来ました。
ところで敏満寺は廃寺となってしまったのですが、大日堂と観音堂は再建されています。
1562年に浅井長政の焼き討ちで焼失した後、1585年に関白 豊臣秀吉により大日堂が再建され、更なる焼失を経て徳川家光によって再び大日堂は再建されたそうです。
堂内には長政の火難を免れた敏満寺の本尊「大日如来坐像」や「木造地蔵菩薩半跏像」などが安置されていると書かれてありました。
さて、山門好きの当方は裏参道の大鳥居を見に行ってしまいました。
こちらは国道307号線に面した場所にありますので、車で移動する時によく見ていた鳥居です。
この裏参道の大鳥居へ歩いていく途中には青竜山の「神の森」への看板があります。
そもそも胡宮神社の起源は巨石信仰が始まりであり、青竜山を神体山としてきましたが、その青竜山の山頂付近に磐座があるようです。
思い切って磐座まで行ってみようかと思いましたが、看板の距離を見てあっさりと諦めます。
そうこうしながら境内を歩いていると、ガタガタと音がする。
どうやら宮司さんがやってきて斉館を開けられているようです。
さっそくお願いして御朱印を頂くことが出来ましたので、これで無事ご縁をつなげることが出来ました。
以前から車で走行中に見えていた神社で、どことなく風格がある神社だなと感じていた神社でした。
調べてみると、この胡宮神社は多賀大社奥の院または別当とされている神社でしたので、風格を感じたのも当然かもしれませんね。
そのような多賀神社との関係もあって御祭神は多賀大社と同じ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)と事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)の3柱です。
イザナギとイザナミは神話の世界では「国産み・神産み」の神とされていて、事勝国勝長狭尊(ことかつくにかつながさのみこと)は五穀豊穣を司る神様とされています。
胡宮神社は後方にある青竜山の巨石信仰を起源とし、敏達天皇(推古天皇の夫)の勅願とも言われ、鎌倉時代には多賀大社の奥の院・敏満寺(びんまんじ)の鎮守社として栄えたそうです。
しかし戦国時代に浅井長政・織田信長の焼き討ちにあって衰退してしまい、1638年に徳川三代将軍家光の命により胡宮神社だけは復興されたとされています。
敏満寺は、聖徳太子(敏達天皇の異母弟の用明天皇の息子)開基の天台宗の寺院で、最盛期には48伽藍120坊のという大寺院で湖東三山(百済寺・西明寺・金剛輪寺)と並ぶ程の寺院だったといわれています。
現在は衰退したまま復興されることなく、「敏満寺の残照」として“道風下乗石”と“蓮弁灯籠台石”が遺物として整備顕彰されているだけのようです。
表参道の大鳥居の石碑には「縣杜胡宮神社(あがたもり このみやじんじゃ)」と彫られています。
その手前には敏満寺の仁王門跡(桁行6間、梁行3間)の礎石と石碑がありますが、その真上には名神高速が走っていますので、高架下の石碑という面白い場所です。
石段をいつくか登って拝殿へ向かったのですが、境内には全く人気(ひとけ)がない。
斉館も鍵がかかっていて宮司さんも居られないようでしたが、拝殿は開いていて水が巻かれた跡があるので何とも言えない不思議な気分で参拝することになりました。
本殿は滋賀県の県指定文化財に指定されていて、三間社流造という建築様式で作られていますが、この流造は、全国で最も多い神社本殿形だそうです。
本殿の横に小さな祠が二つあり、そこから本殿を垣間見ることが出来ました。
ところで敏満寺は廃寺となってしまったのですが、大日堂と観音堂は再建されています。
1562年に浅井長政の焼き討ちで焼失した後、1585年に関白 豊臣秀吉により大日堂が再建され、更なる焼失を経て徳川家光によって再び大日堂は再建されたそうです。
堂内には長政の火難を免れた敏満寺の本尊「大日如来坐像」や「木造地蔵菩薩半跏像」などが安置されていると書かれてありました。
さて、山門好きの当方は裏参道の大鳥居を見に行ってしまいました。
こちらは国道307号線に面した場所にありますので、車で移動する時によく見ていた鳥居です。
この裏参道の大鳥居へ歩いていく途中には青竜山の「神の森」への看板があります。
そもそも胡宮神社の起源は巨石信仰が始まりであり、青竜山を神体山としてきましたが、その青竜山の山頂付近に磐座があるようです。
思い切って磐座まで行ってみようかと思いましたが、看板の距離を見てあっさりと諦めます。
そうこうしながら境内を歩いていると、ガタガタと音がする。
どうやら宮司さんがやってきて斉館を開けられているようです。
さっそくお願いして御朱印を頂くことが出来ましたので、これで無事ご縁をつなげることが出来ました。
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