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「惟喬親王」は、第55代「文徳(もんとく)天皇」の第1皇子として生まれながら、皇位継承争いによって皇位につけず、859年から19年間、小椋谷に隠棲したとされる方です。
蛭谷集落には「惟喬親王の御陵」、君ヶ畑には惟喬親王を御祀神として祀る「大皇器地祖神社」や親王の御殿とされる「高松御所 金龍寺」があり、ここにもまた「惟喬親王廟」があります。
「大皇器地祖神社」はスギの巨樹が林立する神社と聞き、鈴鹿山系の山奥の村・君ヶ畑へと向かいました。
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君ヶ畑はその立地からもっと過疎化が進んでいるのかと思いきや、人々が生活している空気感は充分感じられ、穏やかな雰囲気に包まれた集落でした。
民家の横の石灯籠に挟まれた道が神社の参道で、中央部だけが滑り止め石段になっているのは、車で登られることがあるからなのかもしれない。
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参道の先には鳥居と大きな森。
滋賀県には不便な場所にありながらもしっかりと祀られている神社が多いのですが、大皇器地祖神社も立派な本殿と掃除が行き届いた神社でした。
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鳥居まで来て気になるのは、鳥居の向こう側にある朽ちた巨木の大きな切り株です。
注連縄が巻かれていますから御神木だと思いますが、切り株からしてかなりの大木であったことが分かります。
株立ちだった残りのもう1本も巨樹と呼べるレベルですから、それより太いはずのスギはかなりの巨樹だったと思われます。
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参道へ入っても幹周5m級のスギが林立しており、どのスギも真っすぐに天に向かって伸びているのはそれだけ管理状態がよかったからなのでしょう。
巨樹に挟まれながらの参拝となり、気持ちが引き締まります。
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太鼓橋の向こう側には拝殿・本殿があり、その間にも巨樹が連なります。
橋には滑り止めの蓆が敷いてあるのも細かな気配りになっています。
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この神社境内には3~5mを越える巨樹スギが30本近くありますが、見た感じで最も太いのは、太鼓橋の横にあるスギでしょう。
真っすぐなスギですので写真では太さが分かりませんが、幹周はおそらく6m近くはあるでしょう。
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本堂へ参拝する前に手水に行くと、勢いよくあふれ出る水量の多さに驚きます。
集落内にも共同の水場があり、勢いよく水が出ており、鈴鹿山系にあるこの地域の豊富な水に感じ入るものも多い。
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大皇器地祖神社は「惟喬親王」が亡くなった翌年の898年に神殿を造営したのが起源とし、「大皇大明神」の社号を賜はったといいます。
その後、明治の時代になってから「大皇器地祖神社」と御改謚になったといい、境内社には多賀神社・蛭子神社を祀ります。
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君ヶ畑には「惟喬親王伝説」以外にも「さざれ石物語」という伝説があり、惟喬親王の側近であった藤原定勝が岐阜県の春日村という木地師の村を訪ねた際にさざれ石を見つけ、和歌を詠んだとされます。
「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(『古今和歌集』では「読人知らず」)
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境内には「山の神」が祀られています。
元々この場所にあったのか、ある時期に神社の境内に移されたのか。
惟喬親王を祀る前は、山や自然の神への敬いがあっただけなのかもしれません。
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大皇器地祖神社の横には「惟喬親王廟」が祀られ、かつて惟喬親王の御殿があったとされる「高松御所 金龍寺」がある。
惟喬親王の墓とされる場所は、この地に何ヶ所かあるといい、京都にもあるといいます。
石塔の後方に墳墓があり、実際には誰が祀られているかは分かりませんが、各地で惟喬親王は崇敬されていたことは確かなようです。
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君ヶ畑の集落を歩いている時、生活感は感じつつ誰にも会わなかったのですが、一人だけ他所から来た人に会いました。
挨拶だけ交わすとその方は山の方へ消えていきます。
どこへ行かれたのだろうと見てみると、飛び出し坊やが「天狗堂」という山の登山口を示しています。
「天狗堂」は鈴鹿十座のひとつに数えられる山で、標高988mの急登の多い山だそうです。
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東近江市の君ヶ畑は木地師の里と呼ばれますが、多賀町の山奥にも大君ヶ畑という集落があるといい、その地にある白山神社でも惟喬親王を合祀していると聞きます。
一説によると「畑」という字の付く集落は山深い集落に多いとされることや、渡来人・秦氏の「秦」から来ているという言い方をされたりもします。
丹生(水銀)や鉱物・木材を求めて各地の山へ入った渡来人の技術が、その地に住む人あるいは住み着いた人々に伝わり、継承され発展していったという考え方もあるようです。
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