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長光寺は真言宗高野山派の寺院で、592年~628年頃に聖徳太子の御建立四十九院の一つだと寺院の案内にありますので非常に古い歴史のある寺院です。
その時代の長光寺は壮広たる七堂伽藍の寺院だったと伝わりますが、残念なことに1475年に焼尽してしまい、室町時代に足利義満の計らいで再建するも再び兵火によって焼失しまったとされます。
その後の1625年から松平定綱(徳川家康の甥)の命により復興に着手し、1753年に玄廣 木食上人により再興されて寺域を今の一小区域に定め現在に至るとされます。
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長光寺は「八幡十二神社」の鳥居を抜けて参道を進んだ途中にある寺院で、大きな森の中に寺院と神社があることを考えると元は神仏習合の寺社だったのではないかと思えるような位置関係にありました。
周辺にはいくつかの工場や太陽光発電のパネルがありましたが、かつてその地域一帯が大きな森で且つ寺領でもあったのかもしれません。
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50年ぶりの秘仏御開帳ということで参拝者が多くなることは予想していたものの、まだ法要中にも関わらず開帳を待つ人が山門から溢れそうになっています。
御開帳の法要が50年ごとに行われてきたとすると、前回は1967年、前々回は1917年(大正6年)、さらにその前になると、1867年で徳川幕府が大政奉還を行って王政復古の大号令を発した年ですから西郷隆盛や勝海舟の時代となってしまいます。
そう考えると、人生に2度拝観できる方は限られてしまいますから、参拝者が多くなるのも頷ける話です。
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山門の中の境内にも溢れんばかりの人がおられましたので、秘仏御開帳が始まるまでに御朱印を頂くことにしました。
とはいっても、御朱印場にも長い列が出来ていましたけどね。
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今回、長光寺へ訪れる時に興味があったのは山号が「補陀洛山」であることでした。
補陀落とは“観音菩薩の降臨する伝説上の山”だとされて、華厳経ではインドの南端にあるといわれ、日本では遥か南洋の彼方に「観音浄土(補陀落)」が存在すると信じられていた観音浄土の地です。
補陀洛山を山号に持つ寺院は真言宗や天台宗の寺院に複数あり、小舟に乗って補陀落を目指す「補陀落渡海」が盛んに行われれていたとされ、和歌山県那智勝浦には現在も補陀落山寺という補陀落渡海の痕跡を残す寺院があります。
また、扁額の銘には“高野山 前官 大僧都”と彫られてあり、高野山との深いつながりが伺えます。
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山門から境内に入り本堂を前にしてみると、御開帳を待つ人の多さに改めて驚くことになります。
途中から小雨がパラつきだし、ひたすらじっとして境内にまで響く読教を聞きます。
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この長光寺は観光寺ではありませんので、御開帳の記念行事に多くの檀家の方が集まって運営にあたられておられました。
檀家の方にとっても一生に1度あるか2度あるかのお役目を勤められている様子には大変な熱意が感じとれます。
信仰深い人々によって長年守り続けられてきた寺院なんだろうということが分かります。
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御堂にはまず本堂の右にある大師堂から入り、本堂・不動堂と拝観することになります。
大師堂には「弘法大師坐像」が祀られており、このお大師様の像は寺の案内文によると“昭和の初め大師堂が大雨で流された時、弘法大師像のみが山門の所にお座りになっていた”というエピソードのある仏像だそうです。
本堂の右の脇陣には「聖徳太子立像」「地蔵菩薩立像」と「聖徳太子の御霊石」が祀られていました。
聖徳太子が「老蘇の森」に仮宮されていた時、妃が産気づかれ御難産になり、太子に諭された妃が一心に祈ったところ、西南の方より一人の童子が現れて「汝が願いは、正しく観世音が救い給う」と言って飛び去った後に妃は無事に安産されたとされます。
太子が童子の行方を探させたところ五色の霊石が光を放っており、太子が霊石に手を合わせられると、たちまち光明の中より千手観音の尊像が現れたという謂われがあるようです。
須弥壇の厨子の中にはその謂われのある御本尊「千手子安観音菩薩」と「御前立千手子安観音菩薩」が祀られていて、お姿を拝観することが出来ました。
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「御前立千手子安観音菩薩」・・・観光HPより
左の脇陣には「阿弥陀如来坐像(平安時代作・1625年補修)」「役行者(江戸期)」「木喰応其上人像(長光寺再建の中興の僧)」が祀られ、猿楽に使う南北朝期の「獅子頭」が寺院焼失以前の歴史を伝えています。
本堂の左にある不動堂の「不動明王立像」を拝観して終わりとなりますが、秘仏開帳拝観の証として寺院よりお札と散華が頂けました。散華に種類があるようですが、何種類かの散華があるようです。
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御開帳の記念行事として「柴灯護摩」が行われ、かつて見たことのない儀式に驚くことになりました。
護摩壇の前でお坊さんが護摩を焚く護摩供養は見たことはありますが、柴灯護摩は山伏が法螺貝を吹きながらの儀式で大変迫力のあるものです。
修験道独自の護摩儀礼といわれる柴灯護摩では幾つかの儀が続けて行われ、中でも山伏の方が複雑な印を次々と結ばれる時の速さには感動するものがあります。
山伏が四方に矢を放たれるのですが、この矢は縁起物のようで拾った方は大事そうに持ち帰られていました。
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また結界の4角と護摩壇に向かって小刀で邪気を払うような儀も行われ、ちょうど結界の角にいた当方たちの目の前へ刀を向けて何か唱えられた時はビクッとしてしまいましたよ。
修験道(山岳信仰)と密教(真言宗)が習合した儀式だと思いますが、滅多に見ることのない貴重な儀式を見ることが出来たのは幸運でした。
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護摩壇を取り囲むように杉の枝が掛けられており、杉の枝のカバーの内部で燃えている護摩壇から吹き上がるように煙が登るさまは、まるで火山が噴火した時の映像を見るような激しい勢いを感じます。
風向きが何度も変わりましたので、風向きによっては煙に包まれて灰かぶり状態になることがありましたが、目が離せない。
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儀式の間、僧侶の読教が続く中、般若心経が始まると参拝者の方が一緒に教を唱えられ始め、広がる読教とともに真言宗の信仰の深さにも驚くことになりました。
こういった儀式を見ていると、日本の信仰にはアニミズム・山岳信仰・修験道・密教(仏教)・神道が互いに影響を受け合って独特の信仰を生んできたことが再確認できます。
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山伏の中で儀式を取り仕切られていた方の山伏衣装は、とても年季の入った物のように見えました。
日常も修験者として修行されているのか?もしそうだとすれば、修行の場所は高野山や大峰山などの山岳での修行になるのでしょうか。
初めて見ましたが、柴灯護摩とは何とも興味深い儀式です。
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